玖
※
決戦の日の空は、嫌味なくらいに晴れ渡っていた。
美しい蒼天を舞う今日の鳥達は、きっとさぞかし気持ちがいいことだろう。
回廊の向こうに見える空を見上げて、ふと
太陽の位置が高い。そろそろ決戦時刻になる。
──それにしてもすごいな、
背中には愛剣『
──今朝まであんなにズタボロにやられてたのに、今はどこも痛くないどころか、いつになく体が軽いんだもんな。
普段と特に変わらない出で立ちに武具だけを加えた黄季は、そんな回廊で足を止めると左手を右肩に当ててグルグルと回してみた。
簒奪が成立したあの日、虎の爪に
もっとも、その煌医官当人の手によって、今朝方までの黄季は肩の傷以上に全身ズタボロにされていたわけだが。
──結局、最後まで一太刀も入れることはできなかったな。
煌医官は、理屈ではなく体感で黄季に戦う術を授けてくれた。その指導方法は『過酷』の一言に尽きたが、そのおかげで黄季は何とか退魔師として簒奪の場に立てる技量を得ることができた。
『まぁ、及第とは言えないけれど、何とかなる程度にはなったんじゃない?』
それが今朝方、最終的に煌医官から黄季に出された判定だった。
『あとは君が得たその感覚を、どう実地で活かすかだ。ぶっつけ本番にはなるけれども、黄季の場合はまぁ、実地の方が強そうだしね』
頑張ってね、と、煌医官は黄季に笑みかけてくれた。その笑みは普段の医官としての柔らかな笑みでありながら、どこか今までの笑みとは違ったように思えた。柔らかさだけではなく、何か信頼とも、熱意とも言えるような何かに裏打ちされた、芯のようなものがある笑みだったと思う。
『僕も、君と
煌医官は泉仙省所属ではないから、決戦の場に直接観戦には行かないと言っていた。
『でも、地脈の流れを読んで離れた場所から観戦はできるから。魏浄祐ごとき小物、さっさと蹴散らして、さっさと勝利報告においでよね』
──煌師父は、俺の勝利を信じてくれてる。
背に負った紫鸞の重みが、一瞬増したような気がした。それは気のせいで、黄季の気の持ちようだということは分かっている。
分かっては、いるけども。
──大丈夫。やれることはやった。体調だって問題ない。あとは……
「黄季」
己の心持ち次第、と気合を入れた瞬間。
涼やかな声に、名を呼ばれた。
「……っ」
七日ぶりに聞く声に、黄季は思わず弾かれたように振り返る。
黄季がその声を聞き間違えるはずがない。だが視界に見目も涼やかな
──ちょっと痩せた、かも。
変わることなく涼やかに整った顔立ちは、黄季が最後に見た時よりもわずかにやつれたように見えた。それでも漆黒の瞳には記憶にある以上に怜悧な光が宿っている。
変わることなく優雅な挙措で歩を進めてきたその人は、いつもよりも距離を残して足を止めた。
「
七日ぶりに姿を見た氷柳は、記憶にある通りに凜と美しかった。
──良かった。氷柳さん、弱ってない。
ただそれだけのことに、黄季の涙腺が緩んだ。顔を合わせられなかった間、自分がどれだけ氷柳のことを案じていたのか、今更ながらに突きつけられたような気がする。
だがハッと我に返った黄季は何とか涙腺を引き締めると、そんな内心を胸の奥に押し込んで慌てて口を開いた。
「氷柳さん、マズいですよ! 簒奪決行前の接触は……!」
「今更抜け駆けやら駆け落ちやらを気にする必要もないだろう。……一応、監視も甘んじてつけてやっているしな」
氷柳は言葉を紡ぎながらスッと視線を横へ流した。その瞬間だけ不機嫌が
「高菜」
そこまでのことをしてまで、あえてこの瞬間に接触してきたのはなぜだろうかと、黄季は氷柳を見上げる。
その瞬間、唐突に氷柳が何やら食材の名前を呟いた。
「胡麻、肉そぼろ、炒り卵、鮭のほぐし身、茸の炊き込み飯の余り、干し海老」
「え?」
「辛子味噌、海苔、塩握り、……これで全十種類だ」
そこまで言われてから、黄季はようやく氷柳が何を列挙していたのか思い至った。同時に、驚きに目が丸くなる。
──俺が置いていったおにぎり、全部食べてくれたんだ。
「どうだ? 全部当たっていたか?」
「……氷柳さんが、塩握りをちゃんと『塩握り』だって認識してくれたことに、正直驚いています」
「あれはあれで美味かった」
あの日、氷柳に何かを残したかった黄季がとっさに思いついたのが『氷柳宅にあるありったけの米を使って、作れるだけ握り飯を握って残していくこと』だった。我ながらもっと格好のつく物を残していけば良かったのにと、今は思う。
──……そっかぁ。本当に全部、食べてくれたんだなぁ……
その事実を噛み締めた瞬間、ほわりと心が温かくなったような気がした。こんなことを話している場合ではないと分かっているはずなのに、緩む頬を引き締めることができない。
「全部当てたら、私が食べたい物を全て作ると言っていただろう」
「はい」
「この七日間、真剣に考えた。目録に纏めてあるから覚悟しておけ」
「えぇ? 何してるんですか、氷柳さん」
「こんな千載一遇の機会を逃してなるものか。かなり長くなったが、退魔師に二言は許されないからな」
続いた言葉に黄季は完全に状況を忘れて呆れた声を上げた。
その瞬間、フワリと氷柳が笑みを浮かべる。
「この間は、つまらない横槍が入ったせいで早帰りを邪魔されたからな。今日こそはさっさと片付けて市に寄って帰るぞ」
──あ……
猫が獲物を捕らえた瞬間のような、満足げな笑みを口元に広げた氷柳は、次いでその笑みの種類をわずかに変える。
傲慢さと高貴さと、苛烈さと涼やかさ。相反する感情を綺麗に同居させた、挑発的なあの笑みに似た微笑みに。
「魏浄祐に、お前の強さを見せつけてやれ。何ならあいつの首ぐらい、ついでに落としてきてやればいい」
この回廊で魏浄祐に飛刀を撃ち込んでやった時と同じ顔で笑った氷柳は、いっそ傲慢なくらい確信に満ちた声でそう
ハッタリや励ましからではなくて、心底本気でそれ以外の未来はないのだと断言しているのだと、分かる。
「私はその瞬間に魏浄祐が浮かべるであろう間抜け面を、特等席から見物させてもらうとしよう」
──不思議だ。
そんな氷柳に、黄季は笑い返した。
ハッタリや虚勢からではなくて。今の自分が自然に湧き上がった感情で、柔らかく笑みこぼれているのが、鏡を見なくても分かる。
──心まで、こんなに軽い。
「……はい」
声が、軽く震えていた。
それが腹から声が出ていないせいだと自覚した黄季は、一度唇を引き結ぶと今度は腹から声を張る。
「完全勝利を見せつけるんで、期待しといてください」
そんな黄季の内心の変化は、氷柳にもきちんと伝わったのだろう。顎を引いて応えた氷柳は、監視に促されるよりも先に己から身を翻した。カツ、コツ、と落ち着いた足音を響かせる氷柳は、黄季を振り返ることなく先に中庭の中に消えていく。
その後ろ姿を見送った黄季は、一度スゥッと深く息を吸ってから、パンッと両手で頬を挟むように叩いた。鋭く突き抜けた痛みは、黄季の中に最後まで残っていた無駄な力みを取り去ってくれる。
「……っし!!」
最後に短く気合の声を吐き、黄季は真っ直ぐに足を前へ踏み出した。
氷柳が先に歩んだ回廊を、今度は黄季が進む。覚悟を決めて歩みを進めれば、指定された中庭へはほんの少しの距離しかなかった。
退魔師同士が己の呪力と武力に物を言わせて揉め事を解消しようとする時、決闘の場は必ず泉仙省の中庭とされてきた。手頃な広さと、周囲に被害を出さないために結界を張る時の手頃さ、地脈の流れなど、諸々を考えた時に何かと都合が良いのがこの中庭であるらしい。
その中庭の中に今、泉仙省泉部所属の退魔師のほとんどが顔を揃えていた。入口である回廊の切れ間から黄季が中庭へ足を踏み込んだ瞬間、中庭の外周を囲うように並んでいた退魔師達が一斉に黄季へ視線を向ける。
「ほう?」
その中心にいた魏浄祐が、意外そうに声を上げた。
「てっきり逃げ出すかと思っていたんですがね」
黄季から見て右手側の壁際には、奥から順に
「己が無力であることさえ分からない阿呆でしたか」
今日の浄祐は、手に矛を携えていた。それが浄祐の本来の呪具であるのか、対戦のためにわざわざ持ち出してきた物なのかは黄季には分からない。
ただ、もうその姿にも、言葉にも、黄季の心は揺らがなかった。
「魏上官、お別れは済ませてきましたか?」
「……何です?」
「首と胴体のお別れ、済ませてきましたか?」
常と変わらない静かな表情で、常と変わらない静かな瞳で、絶対の勝利を当然のものとして信じてくれている氷柳が、そこにいる。
それだけで、もう何も怖くはなかった。
「言ったでしょう? 『首と胴が繋がっている最期の七日間を、精々今のうちに楽しんどけ』って」
黄季の言葉に浄祐の顔から表情が消える。
その瞬間、太陽が中天に昇りきった。
「
片手を上げて宣言したのは薀老師だった。
その声に浄祐は表情を無くしたまま矛を下段に構えた。対する黄季は自然体で立ったまま構えない。ただ静かにひたと浄祐に視線を据えている。
外周を取り囲んだ退魔師達の内、それぞれの四つ角に立った退魔師達が連携して結界を立ち上げたのが分かった。空間が閉じられ、中にいる全員の退路が断たれる。
「双方構え」
場の空気がピンと張り詰める。
スッと息を詰めたのは浄祐の方だった。なおも構えを取らない黄季の姿に、中庭の外周を取り囲む退魔師達の方が身構える。
そんな空気を裂くように、薀老師の手は振り下ろされた。
「始めっ!!」
その瞬間、ダンッという重い音を響かせながら前へ飛び込んだのは浄祐の方だった。手にした矛が一瞬で赤熱し、浄祐の周囲に焔が舞う。
対して黄季がしたことは、スッと印を組み、静かに唇を開くことだった。
「『我が身を
短縮された呪歌の求めに応じて、ユルリと地脈から力が漏れ出す。黄季の霊力が混じり琥珀色の燐光となった霊気は、黄季が浄祐の間合いに引き込まれるよりも先に黄季の呪歌に織り込まれていく。
「『
織り成された呪歌は、黄季の求めに応じて霧に姿を変えると即座に弾けた。黄季を中心に突如生じた濃霧は、黄季と浄祐だけではなく、外周を囲った野次馬達の視界までをも奪う。
「小癪な」
だが浄祐が突撃の勢いを緩めることはなかった。低く呟いた浄祐は突撃先から突如として弾けた濃霧にも気後れすることなく黄季の元に突っ込んでくる。
「その程度の目眩まし、私には通用しませんよっ!」
「知ってる」
だが黄季もそれに動じることはなかった。
「だってあんた、元
武官の家の出で、大乱の折まで軍部で刃を握っていたという浄祐だ。視界が効かなくてもある程度ならば相手の気配を呼んで戦うことができるのだろうということは分かっていた。
奪いたかったのは、浄祐の視界ではない。
黄季が己の姿を隠したかった相手は、周囲を取り囲んだ退魔師達だ。
黄季は低く構えると背に負っていた布包みの中から紫鸞を抜いた。その刃で矛先をいなし、受けた攻撃の勢いと体捌きだけで浄祐の背後を取る。
「余計な目は、これで消えた」
突撃が不発に終わると浄祐は思ってもいなかったのだろう。何とか踏みとどまった浄祐が慌てて黄季を振り返る。
それまでの間に黄季は手にした紫鸞に意識を集中させた。この六日間で身につけた『本能』に従って呪力を巡られば、黄季の霊力を吸い上げた紫鸞は鋼の奥にポゥッと琥珀色の光を灯す。
「さあ、獣同士、存分に殺し合おうか」
浄祐の左腕が振り上げられ、即座に練られた炎弾が炸裂する。己の身に結界を纏わせた黄季は炎弾を避けることなく紫鸞とともに真っ直ぐに前へ踏み込んだ。
紫鸞に纏わせた黄季の霊力と、浄祐が作り出した炎弾がかち合う。
「っ!!」
競り合うまでもなく勝ったのは、紫鸞の刃だった。真っ二つに断ち切られた炎弾はさらに黄季が纏った結界に受け流され、あらぬ方向へ飛んでいく。
「な……っ!!」
浄祐がとっさに矛を構える。
その先へ、黄季は躊躇いなく突っ込んだ。
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