「お前の師匠は、八年前、相方を亡くし、死んだように消息をくらませた、氷煉ひれん比翼の片割れ……てい涼麗りょうれいなんだよ」



  ※  ※  ※



 聞いた瞬間、胸に落ちたのは『あぁ、やっぱり』という納得だった。


 只者ただものではない飛刀捌き。的確な指導と豊富な知識。忌地いみちの封印に白羽の矢が立つのも、あの体質も、それが『氷煉比翼の片割れ』だというのならば納得ではないか。


 同時に、思った。


 やっぱりあの人を再び戦場いくさばに連れ戻すようなことは、絶対にしたらいけないと。


「っ、氷柳ひりゅうさんっ!!」


 闇に沈んだ都の中を駆け抜けた黄季おうきは体当たりするように氷柳の屋敷の門を開け放った。おとないを告げるには遅すぎる時間だったが、それでも門はいつも通りにスルリと開き、黄季はいつも通りに屋敷の中に招き入れられる。


 闇が満ちてからこの屋敷の庭に足を踏み入れるのは初めてだった。あばら屋に生活能力のない主が一人ということでさぞ暗いのだろうなと思っていたのだが、視界は思っていた以上に明るい。星灯りだけではなく地脈からあふれてくる霊気の燐光が漂っているのだと気付いたのは、昼間と変わらず寝椅子に陣取った氷柳の傍を舞う燐光が一際美しく黄季の目に映ったからだった。


 だがそんな幻想的な光景に見入っている余裕は今の黄季にはない。


「……お前」


 そんなただならぬ黄季の様子に氷柳も気付いたのだろう。驚きに目を丸くした氷柳が煙管きせるを片手に寝椅子から体を起こす。


「一体どうし……」

「逃げてください氷柳さんっ!!」


 そんな氷柳に駆け寄った黄季は息を整える間も惜しんで言葉を吐き出した。無理やり腕を取って氷柳の体を引き起こせば氷柳はさらに目を丸くする。


「おい、落ち着……」

おん長官が、気付いたんですっ!!」


 初めて触れた氷柳の腕は、ひんやりと冷え切っていた。初夏を生きる者の人肌とは思えないくらいに。


「氷柳さんが汀涼麗だってっ!! 場所も割られてて、ここに来るために俺を仲介に使おうと……っ!!」


 そんな氷柳の腕を黄季は強く握りしめた。指先が震えているのが自分でも分かる。その震えが氷柳にも伝わっているのか、それとも黄季の言葉が衝撃的だったのか、黄季を落ち着かせようとしていた氷柳が目をみはったまま言葉を失った。


「逃げてくださいっ!! 長官は氷柳さんをずっと探してた。このままじゃ氷柳さんは……っ!!」

「おいおい黄季、それは酷いんじゃねぇか?」

「っ!!」


 何とか氷柳に状況を伝えようと黄季は必死に言葉を紡ぐ。


 だが飄々とした声が背後から飛んでくる方がわずかに早かった。


「俺が五年がかりで仕込んで、やぁーっと形になったっつーのに」


 結界で閉じられているはずである門柱にもたれて立っていたのは、声の通りに飄々とした笑みを浮かべた慈雲じうんだった。変わらぬ笑みを浮かべたままの慈雲は二人の視線を受けると跳ねるように門柱から背を離す。


「まったく。お前、目くらましの閃光呪から不動結界への連携展開なんて、いつの間にできるようになってたんだよ。下手な位階持ちより鮮やかな手際じゃねーか」

「……っ、なんで……」


 想定よりも早い登場に黄季の顔から血の気が引いていく。


 慈雲が言う通り、泉仙省せんせんしょうで慈雲に迫られた黄季は慈雲相手に退魔術を行使して逃げ出してきた。閃光呪も不動結界も、きちんと発動していたはずだ。いくら慈雲と比べて黄季の方がはるかに格下といえども、不意を突いた攻撃がこんなにあっさりかわされるなどありえない。


 だというのに慈雲は常の笑みを崩さないまま飄々ひょうひょうと言葉を紡ぐ。


「んー? 言っただろー? お前の佩玉はいぎょくには俺の術式が刻まれてるって。お前が扱う呪石と一緒だ。一度俺の霊力が通ってるんだから、それを媒介にして道を通せばいい」

「通せばいいって……、そんな簡単な……っ!! それに、閃光呪や不動結界だって……っ!!」

「……通じんだろうさ、こいつには」


 混乱が思考を焼く。


 そんな中でも凛と響いた声は、常と変わらぬ静けさで黄季の耳に染み入った。


 フワリと動いた氷柳が黄季の隣に並ぶ。慈雲に向けられた顔はすでに表情を失っていた。


「こいつは、同時代に氷煉比翼私達がいなければ、沙那さなの歴史に確実に名を刻まれた天才なのだから」


 その言葉に黄季は思わず氷柳を振り返る。だが真っ直ぐに慈雲を見つめた氷柳は黄季のことを見ていない。対する慈雲も見つめているのは氷柳だけだ。


「褒めるねぇ、涼麗。……結局この屋敷に辿り着くまでに五年以上かかってんだ。俺なんざその程度なんだろうよ」

「今はお前が泉部せんぶ長官だそうだな。祝いを言うのが遅れた。今更だが祝いを述べてやる」

「かく言うお前は随分しょぼくれたな。そんなお前を見たら永膳えいぜんが泣きそうだ。それとも、情けなさすぎて笑うかねぇ?」


 何気なく紡がれた名前に氷柳の眉が跳ね上がった。今まで見たことがないくらいにその反応は鮮やかだ。それなのに氷柳は慈雲の言葉にとっさに反撃を返さない。


 ──永膳って、氷煉比翼の片割れのかく永膳? 氷柳さんのかつての相方の……?


「端的に言うぞ、涼麗」


 完全に二人のやり取りから置いていかれた黄季は二人に交互に視線を走らせる。


 そんな黄季の視線の向こうで、慈雲が氷柳に向かって片手を差し伸べた。


「泉仙省に戻ってこい」


 単刀直入な要求に氷柳は何も答えなかった。言葉を返すことも、首を動かすことも、表情さえ一切変わらない。ただ無に戻った表情で慈雲を見つめるばかりだ。


「喪に服すにしたって八年は長すぎる。いつまで思い出に浸って自分を憐れんでるつもりだ」


 対する慈雲の顔からはスルリと表情が抜け落ちた。常に何かしらの表情が浮いていた慈雲の顔に無が広がる所を見たのは、もしかしたら初めてのことなのかもしれない。


「あの大乱で近しい身内を亡くした人間なんざごまんといる。いつまで自分だけが悲劇の主人公だと思ってんだ」


 だが淡々と紡がれる声には透けて見える感情があった。


 青い炎のような刃。


 この声に乗っている感情は、まぎれもない怒りだ。


「永膳がお前にこんな生き方望むと思ってんのかよ? こんな、思い出に殉じるみたいな生き方をお前にさせるために永膳が」

「お前に永膳の何が分かるっ!?」


 だがその言葉を割った声には、それを上回る感情が乗せられていた。


「お前が……っ、お前が永膳を語るなっ!!」


 黄季は思わずビクリと肩を震わせながら傍らを見上げる。そんな黄季の視界にブワリと白銀の燐光が舞った。


「お前に何が分かるっ!? 比翼を誓っていながらむざむざ相方を死なせた私の……っ、私から役目を奪って死んだあいつのっ、一体何がお前に分かるっ!?」


 その向こうにいる佳人は、黄季が今まで見たことがない顔をしていた。


 鬼か、般若か、修羅か、羅刹か。


 貴仙のようだと思っていた人の顔に躍っていたのは、ヒトをヒトならざるモノに堕とす激情だった。狂おしいほど荒れ狂うその感情を何と呼べばいいのか、黄季には見当もつかない。


 ただただ激しく、……それでいて、見ているだけで苦しくなる、激情。


 静けさしか感じなかった氷柳が一瞬で爆発させた感情に引きずられて、忌地に流れる気が嵐のように荒れ狂う。


「分っかんねぇよ、そんなもん」


 強大な妖怪が暴れているのかと錯覚しそうな気の乱流に黄季の呼吸が引きれる。


 だが氷柳と対峙した慈雲はどこまでも冷静だった。


「だってテメェにも分かんねぇだろうが。今の俺の気持ちなんざ」


 慈雲は差し伸べた手にもう一方の手を滑らせるように添えた。たったそれだけで屋敷の中を荒れ狂っていた気の流れが変わる。


「泉部長官として命じる。お前の力が必要だ、汀涼麗。泉仙省に復職し、退魔師として舞台に上がれ」


 ──っ、これ……っ!?


 慈雲が何を仕掛けようとしているのか気付いた黄季はとっさに氷柳を見遣る。だが激情に突き動かされた氷柳は慈雲の動きに気付いていない。常の冷静さを完全になくした氷柳は白銀の燐光に命じるかのように何も握っていない左腕を振り抜いた。


「氷柳さんダメだっ!!」

「『反転』」


 氷柳の腕の動きに従い光の奔流が慈雲に向かって走る。だが光の刃は慈雲の目の前で弾かれると矛先を氷柳に変えた。ようやく我に返った氷柳が袂から飛刀を抜こうとするが、弾き返された霊力は明らかに飛刀で相殺できるものではない。


「氷柳さんっ!!」


 黄季はとっさに氷柳を後ろに押し遣ると氷柳を庇うように前に出た。同時に爪先で石床を蹴り上げるように線を引き、懐から取り出した数珠を両手に絡める。


「『けつ』っ!!」


 とっさに結べたのは一番簡単な結界だった。黄季の足が引いた線を起点に立ち上がった結界に反射されてきた氷柳の霊力がぶつかる。


 ──っ、受け止めても吸収しても、反転しても負ける……っ!!


 術の形を成していないただの霊力の塊なのに物理的に殴られているような圧を感じる。体がバラバラになりそうな力に踏ん張った足がジリッと後ろに下がったのが分かった。背中にジワリと冷や汗がにじむ。


 黄季は奥歯を噛み締めて気合を入れ直すと力を受け流すことに全力を注いだ。そんな黄季の向こうで白銀の奔流が流れ去り、ようやく視界が戻ってくる。


「……何の真似だ、ばん黄季」


 視界の先にいた慈雲は、感情が抜け落ちた瞳で黄季のことを見据えていた。泉部長官が新米退魔師……いや、横槍を入れてきた格下の羽虫を見下ろす目だ。


「今の私は泉部長官として動いている。お前が出る幕ではない。下がれ」

「……民間人を無理やり巻き込むのが泉仙省のやり方だって言うんですか」


 役目を終えた結界が儚く砕け散る。本音を言うと今の一撃をいなすのに全霊を使ってしまっていて、今すぐへたり込んでしまいたかった。


 それでも黄季は気力だけで背筋を正し、氷柳を後ろに庇ったまま慈雲と対峙する。


「だったら、ますます引けません」

「……お前、本気で言っているのか? 見ただろう、今の一撃を。それでも」

「それでも、ですっ!!」


 対峙する慈雲は怖かった。今朝も、夕方の泉仙省でも、怖い慈雲と対峙した黄季は逃げを選んだ。


 だけど今は、逃げられない。


 黄季の背後には氷柳がいて、氷柳の前にいる時の黄季は、引けない一念を持った退魔師であるから。


「どれだけ氷柳さんが腕の立つ退魔師で、どれだけすごい力を持っていたって、『戦わない』という選択をした人を無理やり戦場に引きずり出していいはずないじゃないですかっ!!」


 黄季の叫びに氷柳が息を呑む。だが慈雲の瞳は冷めたままだ。


「理想論だ。私達泉仙省の退魔師の肩には民の命が乗っている。その使命を果たすためならば、使える物は何だって使わなければならない。綺麗事や感傷に心を囚われていては、救えるはずだった命が救えない」

「そのために心を殺せって言うんですかっ!? 大きなものを守れれば、個人の心はどうだっていいって言うんですかっ!?」

「国に仕える退魔師ならば、それを当たり前として応と答えねばなるまい」

「……っ!!」


 多分、正しいのは慈雲の方なのだろう。


 慈雲は泉部の長だ。国を守り、民を守り、泉部の部下達を守る責務が慈雲にはある。強力な手札が目の前にあれば、当然使うというのが慈雲としては正しい答えなのだろう。そこにどんな感情があろうとも、『泉部長官』である恩慈雲には関係がない。


「……俺の家族は、みんな、戦いたくないって言いながら、それでもみんなに戦えって言われて、みんな戦って死にました。『戦いたくない』って泣きながら戦って、『戦いたくなんてなかった』って泣きながら、みんな死んでいきました。父も、母も、兄貴達も、じいちゃんも、ばあちゃんも、伯父も伯母も、いとこ達も、みんなみんな」


 黄季にだって、分かっている。


 それでもあふれ出る思いは止まらない。


「『戦いたくない』って、あの言葉が叶っていたら、俺の家族はみんなまだ笑って生きていられたかもしれない。……そう思ってしまうから、俺はっ!! 『戦いたくない』って言葉を、そのまま大切にしたいんだっ!!」

「お前の思い出話など、今は求めていない」

「分かってますよっ、そんなことっ!!」


 黄季は牽制するように腕を振り抜いた。そんな黄季の腕から琥珀色の燐光が散る。黄季の霊力と、霊力に引き出された地脈の気が舞っているのだ。


「恩長官、俺は長官のやり方に納得できないし、引けませんっ!! 氷柳さんを無理やり戦わせたりなんてしたくないっ!!」

「私が泉部長官として立ち回っていることを承知の上で言うんだな? これが明確な反逆行為であることも、承知の上で」


 慈雲の言葉に反応したのは黄季よりも氷柳の方だった。大きく目をみはった氷柳の瞳がひび割れたかのように揺れる。


「全て承知で従えませんっ!!」


 それでも黄季の瞳は揺れなかった。迷いなく抜かれた刀印は真っ直ぐに慈雲に向けられる。


「貴方が氷柳さんを無理やり引っ張り出すって言うなら、俺は全力でそれを阻止しますっ!!」


 その言葉に、今度こそ慈雲の瞳から完全に感情の色が消えた。しん、と全てを凍てつかせた慈雲は、氷のようなおもてで黄季を見据えた後、ゆっくりと氷柳へ視線を移す。


「……そういやお前、こいつに『氷柳』って名乗ったんだな」


 脈絡もなくそう言った声にも、感情はない。少なくとも黄季にはそう聞こえた。


 それなのに、氷柳の心が、先程の比にならないくらい乱れたのが、見えなくても分かった。


「こっちは確実に泣くか怒るかなじるかするな、永膳は」


 背後で引きれた氷柳の吐息を聞いたような気がした。


 それでも黄季は術を振るう腕を止めない。印を組む指を止められない。相対する慈雲の腕もそんな黄季を迎え撃つべく優雅に動き始める。


 ──先手を取られたら勝てない……っ!!


 黄季は迷いなく上位攻撃呪の印を組み上げると呪歌を紡ぐべく唇を開く。


 だが黄季が最初の一文字を音に載せるよりもドンッと背後から衝撃が走る方が早かった。


「えっ?」


 予期せぬ衝撃に足がふらつく。黄季が立っていたのは庭と軒先の境目で、三段ある階段のちょうど真上だった。足場を失った黄季は体勢を崩しながら階段の下へ落ちていく。


「……お前を、この庭に入れなければ良かった」


 視界が反転して、氷柳の姿が目に入る。緩く腕を振り抜いた姿勢で立つ氷柳は、落ちていく黄季をただ静かに見ていた。


 その顔に見たことがない感情が宿っているのを見た黄季は状況も忘れて目を見開く。


「そうすれば私は」


 ──変わることなく、ここに在れたのに。


 バシャリと背面から水音が上がり、黄季の視界は一瞬で書き換えられる。


 まばたきをした黄季は、なぜか人気のない大路の角隅に座り込んでいた。水音はいまだに耳にこびりついているのに、体が濡れた感触はない。そもそも階段の先には地面があったはずだから、本来ならば水音が響くはずなどないのだ。


「チッ、お前ごと弾きやがった」


 訳が分からず呆然と座り込む黄季の耳に微かな声が聞こえた。顔を上げて声の方を見遣れば対角の隅には黄季と同じように慈雲が放り出されている。


「相変わらず化け物かよ。こんな強硬手段を指先ひとつで実行しちまうなんて」


 黄季より先に立ち上がった慈雲は頭を掻きむしりながら何事かをぼやいている。


 そんな慈雲の言葉でようやく自分が強制退場を喰らったのだと気付いた黄季は、無意識の内に屋敷の場所を探すために地脈に自分の霊力を潜り込ませた。


 だがどれだけ探ってみても、黄季が知っている『流れ』も『澱み』も、黄季の感覚に引っかかってくれない。


「……え」


 無駄な探索をしばらく続けた黄季は、思考を空回りさせたまま懐に手を入れた。引き出した手には、今日遣いを頼まれた時に渡された手鏡が握り込まれている。黄季が『遠見とおみ水鏡みずかがみ』を珍しがったら、『何かと便利だからお前が持っているといい』と氷柳が譲ってくれた。この手鏡に黄季が霊力を通せば、その先は自動的に氷柳の水盆に繋がるはずだ。


 だから黄季は何も考えられないまま手鏡に霊力を通す。


 だがどれだけ力を通わせようとも、鏡面には氷柳はおろか、屋敷の景色が映ることさえなかった。濁った鏡面はただ、曖昧な輪郭のままほうけた黄季の顔をぼんやりと映し出すだけだ。


「……氷柳、さん?」


 弾かれた、と呟いた慈雲の声は、さっき聞いていた。


「氷柳さん」


 それでも黄季はただ、それ以外の言葉を忘れてしまったかのように、たったひとつの名前を繰り返し呼び続けていた。


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