※※※

 黄季おうきの予想よりも氷柳ひりゅうは早く戻ってきて、結果黄季は予想よりも早く買い物に出ることができた。


「でも、意外でした」


 いちの人混みの中を歩きながら黄季はヒソッと声を上げる。


『何が』


 そんな黄季の声にさらに密やかな声で応えがあった。密やかであろうとも、ここが市の雑踏の中であろうとも、変わらず涼やかに響くのは氷柳の声である。


 と言っても、黄季の傍らに氷柳の姿はない。


「地図って言って、まさか呪具の手鏡を渡されるとは思ってなくて」


 黄季はヒソヒソと手の中に握りしめた手鏡に向かって答えた。女性が胸元に忍ばせていそうな、小型で上品な装飾に彩られた手鏡だ。その鏡面にはなぜか黄季ではなく氷柳の顔が映し出されていて、鏡の中の氷柳は相変わらず表情のない顔で煙管きせるを吸っている。


『紙に書いて伝わる場所じゃなかっただろう、煙草たばこ屋は』

「あー……はい。そんな感じの店なのかなぁとは思ってましたけど、ほんとにそうでしたね……」


 この手鏡は、氷柳の屋敷にある水盆と繋がっているらしい。手鏡の鏡面に映り込む景色を氷柳の手元にある水盆に映し出し、逆に黄季の手鏡には水盆に映り込んだ景色が投影されている。『遠見とおみ水鏡みずかがみ』と呼ばれる退魔術……というよりも『まじない』に近いものであるらしい。黄季も存在くらいは知っていたが、実際に術が行使されている所を見たり、触れたりしたのは初めてだ。


『地図を用意する』と言って屋敷の中に入っていった氷柳が用意してきたのがこの手鏡だった。


 というのも、氷柳が煙管で吸っている煙草は呪具の一種であるらしく、特別な店でなければ買えないのだそうだ。その店は一応市の中に店を開いているのだが、きちんと呪術を心得た者が、店とえにしがある者に紹介を受けた上で、呪術的措置を踏んでからしか行けない場所に店を構えているらしい。だから氷柳がこの手鏡を通じて縁を取り持つと同時にその場その場での道案内をする、というのが氷柳の説明だった。


『お前も今回の来店で店と縁を得た者になった。道順さえ覚えれば、次回からは自力で行ける』

「あはは……、その道順が覚えられるかが問題なんですけどネ……」


 実際、紙に書かれた地図だけを頼りに店を目指していたら、黄季は確実に店に辿り着けなかっただろう。何せ『どこそこからどっちへ向かって何歩進み』とか『一度立ち止まって後ろへ何歩』とか、歩数単位で正しい足運びをしないと店への道は開かないらしいので。


 ──多分、氷柳さんのお屋敷と一緒で、結界みたいなのの中にあるんだろうな、あの店。


 どこか氷柳にも通じるな雰囲気を纏っていた店主のことを思い浮かべながら、黄季は胸の内だけで呟く。


 時に退魔師は足運びだけで術を組む。いわゆる禹歩うほと呼ばれるものだ。あの店の結界はそれの発展形で、ある一定の足運びをした者にだけ道が開くように創られているのだろう。


 ──つまり、それだけのことができる……いや、それだけのことを、本物の呪具屋なんだ、あそこは。


 そんな人の店の常連とは、ますます一体氷柳は何者なのだろうか。


「氷柳さん、あの」

『何だ?』

「あ……えと、……ふ、普段の買い物って、どうしてるんですか?」


 また疑問が、胸の中に降り積もっていく。それなのにその疑問を素直に口に出すことが、黄季にはやはりできなかった。


 ──本当に訊きたいことは、それじゃないのに……


「あんなに複雑な足運びを正確に覚えてるなんて、よっぽどの常連なんですよね?」


 ──どうして、こんなに踏み込むのを躊躇ためらってんだろ、俺……


 そんな自己嫌悪に近い感情を綺麗に押し隠して、黄季は氷柳に問いを向けた。


『普段の買い物はシキにやらせている。店主とは、……まぁ、腐れ縁のようなものだ。今回お前に任せたのは、ちょうど煙草が切れかかっていたのと……』


 そんな風に気分が沈んでいたから、氷柳の言葉が不自然に途切れたことに気付くのがわずかに遅れた。


「……氷柳さん?」


 数拍遅れてから、慌てて手鏡に視線を落とす。一瞬術が切れたのかと焦ったが、手鏡には変わらず氷柳の姿が映っていた。


 寝椅子の足元に水盆を置き、上から覗き込むようにして氷柳は水盆を見つめているらしい。下から見上げる氷柳の顔は長く垂れた黒髪に縁取られていて、この角度から見ても相変わらず清らかで神々しかった。


 そんな氷柳が、わずかに言葉を躊躇わせるように水盆から視線を泳がせている。


『……お前の……に、……………と………からで』


 どうしたんだろう? と首を傾げた瞬間、微かに氷柳の声が聞こえたような気がした。だが氷柳がわずかに顔を背けたせいか、声がはっきりと聞こえない。


「氷柳さん? すみません、ちょっと声が」


 手鏡をきちんと持ち直して黄季は氷柳に問い返す。


 だが黄季がはっきりと氷柳の返事を聞くことはなかった。


「っ!?」


 唐突にゾクリと背筋に走る悪寒。悪寒はすぐに氷のような寒気に変化する。


「な……っ!?」


 黄季は、この気配を知っている。


「キャァァァァァアアアアッ!!」

「よっ、妖怪だっ!!」

「逃げろっ!! 妖怪が出たぞっ!!」


 ──妖気っ!?


 反射的に黄季は気配の方を振り返る。それとほぼ同時に人々の悲鳴が響き、黄季の視線の先で土煙が上がった。


「なっ、なんでまだ明るい時間帯の市で……っ!?」


 土煙から逃げるように人の波が生まれる。その人垣の向こうで何かが暴れる音が響いていた。


 間違いない。妖怪が暴れているのだ。


『どうした。何が起きている?』


 とっさに黄季は人の波に抗うように現場に向かって走り出していた。そんな黄季の耳にこんな時でも涼やかな声がスルリと入り込んでくる。


「詳しいことは分かりませんっ!! でも、市のど真ん中でいきなり妖怪が暴れ始めたみたいで……っ!!」

『何?』


 混乱の坩堝るつぼと化した人波だったが、普段から退魔師として走り回っている黄季にかかれば逆走だってお手の物だ。現場に辿り着くまでそう大して時間はかからない。


 軽やかに人混みをかわして現場に躍り出た黄季は、足場を固めると手鏡の向こうにいる氷柳にも分かるように周囲を手鏡の中に映し込んだ。


「見えますか? 氷柳さん」

『ああ。幸い、見える範囲に怪我人はいないようだな』

「はい」


 ぽっかりと人がけた一帯にはまだうっすらと土煙がたなびいていた。露店がいくつか壊されて木っ端と化しているが、氷柳が言う通りに怪我人の姿は見えない。下手に立ち向かわずさっさと逃げ出したことが功を奏したのだろう。


 そんな景色の中に、微かに雷電を纏いながら立つ漆黒の獣がいた。虎のような姿をしているが輪郭は雲を寄せ集めたかのように曖昧で、時折崩れた欠片かけらもやのようにたなびいている。


「何でこんな所に……っ!!」

『それを考えるのは後だ。今現場に退魔師はお前しかいない。早急に妖怪を隔離し、民の安全を確保しろ』

「はいっ!!」


 涼やかな声に反射的に背筋が伸びる。一瞬胸を焦がした焦燥は背筋を伸ばした瞬間に霧散した。


 退魔の現場に出るという心構えをしてきたわけではない。装備だってない。


 だが手鏡の向こうには氷柳がいる。捕物現場にいる黄季の一挙手一投足を氷柳が見ている。


 ならば常の実地訓練と何が変わらないというのか。


「『汝はかなめ 汝は光 汝は汝にあらず 界を隔てる地の要』」


 黄季は懐から呪石を取り出すと指で弾くように飛ばした。妖怪と黄季の周囲を囲うように全部で四つ。黄季の霊力と呪歌を受けた呪石は地脈から力を吸い上げフルリと震えるように光の壁を立ち上げる。


「『界断絶 乖壁かいへき展開』っ!!」


 黄季の呪歌が成ると同時に立ち上がった光の壁が黄季と妖怪がいる空間を世界から切り離す。これで結界が崩れない限り、この妖怪が結界の外に危害を加えることはできない。


 その変化に妖怪も気付いたのだろう。キョロキョロと周囲を見回した妖怪は背中の毛を逆立てると怒りの咆哮を上げた。その声に触発されたかのようにバチバチと紫電が弾け飛ぶ。


『どうやら形を得たばかりの妖怪のようだ。今はまだ存在が曖昧だが、ここからさらに陰の気を吸い上げると完全に妖怪として存在を確立させる』


 氷柳の解説をしっかり頭に叩き込みながら、黄季は緊急用に懐に入れていた包みを宙に放り投げた。周囲の建物の屋根よりも高く上がった地点でパンッと弾けた包みは赤みがかった煙を周囲にたなびかせる。退魔師が予期せず妖怪と遭遇し退魔に臨んでいることを示す緊急信号だ。緊急信号か急に動いた霊気に誰かが気付いてくれれば、応援は必ず派遣されてくる。


『叩くのは、早い方がいい』


 だが氷柳の声は黄季に逃げを許さない。無論、黄季だって応援が来てくれるまでただ結界で隔離したまま現状維持を続けるつもりはなかった。


『やれるな?』


 氷柳が、期待している。


 ならばそれに応えなければならない。


 応えることができるように、黄季は日々修業を積んでいるのだから。


「はいっ!!」


 黄季は手鏡を帯に差し込むと強く柏手を打った。凛と響いた音に周囲の空気がわずかに変わる。


 瘴気が祓われて澄んだ空気を深く体に落とし込み、黄季は指を複雑に組み上げた。


「『吹きすさべ 吹き抜けろ これは魔を祓う風 これは魔を断つ神風』っ!!」


 ユラリと立ち上った霊気が黄季を中心に逆巻く。変化に気付いて黄季を振り返った妖怪の瞳がギラリと光ったが、黄季が裂帛れっぱくの気合とともに術を放つ方が早い。


「『風刃ふうじん招来』っ!!」

『ギャンッ!!』


 風の刃が妖怪を切り裂く。幾重にも放たれた刃はまだ輪郭があやふやな妖怪の体を刻み、形あるモノをただの靄に還していく。


 だが。


 ──浅い……っ!!


「『この穢れを祓え これは神の息吹 ここは常橘とこたちばなの咲きける所』っ!!」


 黄季は間髪入れずに印を組み替えた。手負いになった妖怪が怒りに瞳をぎらつかせながら牙を剥くが、その時にはすでに黄季の次の術が完成している。


「『ここを浄華じょうかと成せ 浄祓じょうばつ』っ!!」


 今度吹き渡った風は柔らかな風だった。だが風が吹き抜けた後の空気からはことごとく瘴気が消えていく。妖怪の身を包み込んだ風は、まるで煙を吸い込んでいくかのようにシュルシュルと妖怪に纏わりついた黒い瘴気を飲み込み始めた。


『ルッ……ゴァァァァアアアアアアッ!!』

『有効だったようだな』


 氷柳の静かな声が響く先で妖怪の姿が縮み、やがて薄れ始める。黄季に牙を剥くこともできずにのたうち回る妖怪は、上手くいけばこのまま黄季が手を下さなくても消滅してくれるかもしれない。


 だが。


 ──術が成ったからと言って気を抜くな。狩り残しがないか、全てを完膚なきまでに潰せたか常に確認しろ。その油断、実地でさらしたら死に繋がると思え。……ですよねっ!?


「『夜明けのあけは日のやいば 闇を断ち切るの刃』」


 黄季はもう一度印を組み替えると深く息を吸い込み、腹まで落とし込む。


 凛と前を見据えれば、いつになく感覚が澄んでいるのが分かった。


 ──やれるっ!!


「『闇は闇へかえれ 滅殺めっさつ』っ!!」


 裂帛の気合を込めて印を叩き落とす。黄季の全力を込めた術に叩かれた妖怪は断末魔の悲鳴とともに押し潰されるように消えていった。存在が砕かれた先から黒い花びらのように妖怪の残滓が散り、やがてはその残滓さえもが退魔術の光に呑まれて消えていく。


 術の余波が引いた後にあったのは、破壊の跡が残るいちの街並みだけだった。注意深く周囲を探ってみても、もう妖気の類は感じられない。念のためにしばらく気を張り詰めて探ってみたが、乱れた地脈が鎮まっていくのを感じるだけで他に黄季の感覚に引っかかるものは何もなかった。


及第きゅうだい


 それでも気を抜けなかった黄季の耳に、ポンッと声が飛び込んできた。変わらず涼やかな声なのに、なぜかその声がわずかに弾んでいるように聞こえるのは気のせいだろうか。


『良くやった』

「え……っ!?」


 響く声に黄季は思わずワタワタと手鏡を手に取った。信じられない心地で手鏡を覗き込めば、変わらずそこには氷柳の姿が映し出されている。


 ただ、その表情は。


「っ……!!」


 咲き誇る、百花の王のような。


 以前見た笑みよりも柔らかく、どこか満足そうにも誇らしそうにも見える表情。


 鏡越しに瞳を細めて微笑みかける氷柳の姿は、皇帝の秘庭に咲き誇る牡丹の花よりも、国を傾けたという伝説の妃よりも、……もしかしたら本物の貴仙よりも、美しいのかもしれない。


 ──氷柳さんが合格点をくれたのって、初めてなんじゃ……


 氷柳の微笑みに魂を抜かれていた黄季は、遅れてジワジワと氷柳の言葉を噛み締める。言葉にできない色んな感情が胸にあふれて、にやけないように引き結んだ唇の端がプルプルと震えているのが分かった。


 そんな黄季が鏡越しでも分かったのだろう。フッと小さく吐息だけで笑った氷柳が煙管を片手に寝椅子へ深くもたれかかる。


『そろそろ異変を察知した役人なり泉仙省せんせんしょうの退魔師なりが現場に出張ってくるはずだ。さっさと引き継いで、さっさと帰ってこい』


 ──俺が屋敷に行くの、『帰ってこい』って、言ってくれるんだ。


 何だかその言葉尻だけで、自分が思っていた以上に氷柳に受け入れてもらっているんじゃないかと自惚うぬぼれてしまいそうだった。嬉しすぎて今度はジワリと涙がにじんでくる。


「あっ、あのっ!」


 ……今なら、言えるだろうか。


「氷柳さん、さっき、何って言ってたんですか?」


 黄季は勇気をかき集めると、少しだけ震える声で疑問を紡いだ。『ん?』とでもいうように首を傾げる氷柳から、拒絶や躊躇いのような気配は感じない。


「妖怪が現れる前に、氷柳さん、俺の質問に答えててくれたじゃないですか。最後の方、ちょっと声が遠くて聞き取れなくて……」

『……ああ』


 黄季がどこを指して言っているのか理解したのだろう。理解を顔ににじませた氷柳がわずかに視線をらしながら、だが今度は黄季にもきちんと聞こえる声量で、先程聞き漏らした言葉をもう一度紡いでくれる。


『お前の今後に、役立つかと思ったから、と言った』

「え?」

『……あの店は、煙草以外の呪具も扱っていただろう。今後お前が退魔師として精進を重ねて、新しい呪具が必要になった時に、あの店に世話になると良いと思った。だから、紹介がてら遣いを頼んだ』


 今度こそ、黄季は完全に言葉を失った。


 ……それは。その言葉は。


 ──俺のこと、そんなに、期待してくれて……


『……何をほうけている』


 今度こそ泣いてしまいそうになった瞬間、そっけなさを取り戻した声が手鏡の向こうから飛んできた。瞬きを繰り返して涙の気配を飛ばせば、手鏡の向こうにいる氷柳はフイッと顔を逸らしてしまう。


『さっさと帰ってこい。……飯を作って置いていくだけじゃなく、たまには一緒に食べていけ』

「っ……、はいっ!!」


 それでも気を使っていつもよりはっきりした声音で言葉は紡がれる。


 その声に、黄季は人目をはばからずに、大きな声で返事をした。



  ※  ※  ※



「うっわ、すっかり遅くなっちゃった……っ!!」


 夏に近付くごとに日は長くなっているのだが、それでもまだ盛夏のような力強い長さはない。


 氷柳宅で初めて一緒に食事をしてきた黄季が今日の市での報告書を書くべく王宮に駆け戻った時には、周囲はもうすっかり闇に満たされていた。


「別に今日中じゃないといけないってわけじゃないけど、勝手に暴れたことに変わりはないし、早いに越したことはないよな……」


 当初の黄季の予定ではここまで遅くなることはなかった。だが目の前で食事を取る氷柳の姿が珍しかったことと、やはりその姿が美しかったことと、想像をはるかに超えて氷柳の食べる速度が遅かったことと、とにかく色んなことが諸々ありすぎてここまで予定がずれにずれ込んでしまった。


 ──あれ、絶対『食事』っていう動作に慣れてないせいだよな、多分。


 優雅、というよりも、ぎこちなかった。器を手に取るのも、箸を運ぶのも、咀嚼そしゃくして飲み込むのも。確かにあそこまで食事に手間がかかるなら霊気を吸い上げて終わりにしてしまいたいという気持ちも分からなくはない。


 ──ただ、すごく美味うまそうに食ってくれるんだよな。


 そう、とても意外だったのだが、氷柳はそこまで手間取っていながら、黄季の手料理をとても嬉しそうに食べてくれていた。一々言葉にはしないのだが、雰囲気が華やぐというか、口角が常にほんのわずかに上がっているというか。とにかく『あ、喜んでる』と分かる空気が終始放出されていた。黄季が作る料理なんて、ごくありふれた物で、そこまで腕がずば抜けていいというわけでもないのに。


「……ふふっ」


 そんな氷柳の姿を思い出していたら、勝手に笑い声がこぼれていた。


 黄季も、普段の食事は一人で取る。仕事中の食事は同期や先輩達と取ることもあるが、先の大乱で家族を亡くしている黄季は、家に帰れば独りだ。独りで食事を作って、独りで食べる。そんな食事はどこか味気ない。


 今日氷柳と一緒に食べた夕食は、普段と同じように作ったはずなのに、何だかいつもより美味しく感じた。


「……氷柳さんも、そう思ってくれてたら、いいな」


 ふと、自分のそんな声が聞こえてハッと我に返った。どうやら無意識の内に内心がこぼれ落ちていたらしい。


 ──いやいや、今そんなこと考えてる場合じゃないだろう! 報告書書いて、おん長官がまだいたら提出も……


 王宮に詰める官吏は大半が日の入りを前に退出するが、部署によっては朝方から深夜まで人が出入りしている所もある。妖怪が夜に出没しやすいという性質上、どうしても夜行性の人間が増える泉仙省せんせんしょうもほぼ一日を通して誰かが必ず詰めている部署だ。だからこうして退出鉦鼓が鳴った後も堂々と部署内を歩けるわけだが、上の方の管理職達は現場に出ない分一般的な官吏と同じ勤務体系を取っている。今報告書を書いても明日の朝一で書いても結果は同じなのだが、まあそこは気分の問題だ。


 ──現場に来てくれた役人さんに簡単に状況説明しただけで事後処理押し付けてきちゃったし、きちんと詳細な報告書上げてしかるべき場所に回してもらわないと面倒なことになるかも……


 黄季は両手で己の頬を叩いて気合を入れ直すと備品が納められた棚に向き直った。


 書類仕事が主となる上級職の人間には個人的に卓や書道具が与えられるのだが、黄季のような現場仕事と雑用が主の人間は卓も書道具も共用の物を使うことになる。書類仕事をするためには場所から用意する必要があり、実際に書類を書いている時間よりも諸々の準備の時間の方が長くなる。


「それがなぁ……地味に嫌なんだよなぁ……」

ばん黄季」

「ひゃいっ!!」


 ……なんて愚痴は、気配なく飛んできた声に蹴散らされた。


 本気で何の前触れもなく響いた声に黄季は飛び上がって声の方を振り返る。そんな黄季の真後ろに立っていた人物はニヤリと楽しそうに口角を上げた。


「そこまで驚いてくれると、脅かし甲斐があるってもんだな」

「恩長官……っ!?」


 黄季の真後ろ、少し腕を伸ばせば簡単に肩に手を置ける場所にいたのは、今朝と変わらず薄青色の装束を隙なく着こなした慈雲じうんだった。


 そんな慈雲に黄季は思わず裏返ったままの声で本音をぶちまける。


「ビッッックリしたぁ~っ!! 何なんですか、もうっ!!」

「いやいや、今日の立役者が大慌てでここに入っていく姿が見えたもんだから、ついな」


 民銘みんめい辺りが聞いていたら肘打ちどころか跳び蹴り待ったなしの物言いだったが、それでも慈雲の楽しそうな表情は崩れない。皆の前では長官として厳格な態度を見せている慈雲だが、素は今朝感じた通り、こんな風に悪戯好きな気さくな人なのだろう。


「立役者って……もしかしてもう報告回ってるんですかっ!?」


 無意識の内に強張っていた肩の力を抜いた黄季だったが、今度は顔の血の気まで抜けた。


 緊急事態だったからやむを得なかったわけだが、本来退魔師が公務でもないのに勝手に捕物に臨むのは褒められた行動ではない。心構えも装備もなく退魔の現場に臨むのはそれだけ危険だということだ。ましてや黄季は前線に出ることを許されていない無位階の新米。こちらから事情を説明する前に他所から報告が回ってしまうと、最悪の場合色々な処分を覚悟しなければならない。


「報告? いんや? どっからも上がってねぇよ?」


 あわわわわ、と黄季は内心だけで慌てふためく。


 だが意外なことに慈雲の口からこぼれた言葉は『否』だった。


「え? じゃあ『立役者』って……」

「報告がなくても分かるようにしてあったんだわ」


 意味が分からず黄季は無防備に慈雲を見上げる。


 そんな黄季の不意を突くように……本当に何の前触れも見せずに、慈雲はスルリと距離を詰めた。


「俺が泉部せんぶ長官になってから部下に下賜してきた佩玉はいぎょくにはな、みんな俺の術式が組み込まれてるんだわ」


 伸ばされた慈雲の手が、黄季の腰に下げられた佩玉に触れる。


 その瞬間、脳裏に閃いた光景があった。


『お前の佩玉、細工がされている』


 あれは、黄季が初めて氷柳の前で術を振るった時のこと。


 あの時、今の慈雲と同じように黄季の佩玉に触れた氷柳は、一体何と言っていたか。


「佩玉を帯びた者に、特定の霊力が近付くと、俺に分かるようになってる」


 ばら撒いた、とか。探された、とか。


 そんなことを、氷柳は言っていなかったか。


「最近のお前、やたら術が冴えてるよなぁ。……んで、そんなお前の佩玉から、最近しょっちゅう反応が上がってくるんだわ」


 この佩玉に仕込みをしたのは慈雲だという。その佩玉を指して氷柳が『探された』と言った。


 体が震える。己の顔のすぐ横まで顔を寄せた慈雲の表情を見ることができない。


 ──恩長官は、氷柳さんを知ってる。


「なぁ、黄季。俺、お前の師匠に会いたいんだわ」


 ……慈雲は、泉部長官の座に就いた時から、ずっとずっと、時間と手間をかけて、氷柳を探し続けていた。


 何のために。どんな感情から。


 分からない。分からないのに、そこに途方もない執念があることだけは分かる。


「会わせてくれるな?」

「……っ、どうして……っ!!」


 笑みを含んだ声が、怖くて怖くて仕方がない。どうして自分が慈雲にここまで怯えているのかも分からない。


 ──でも……っ!!


 それでも黄季は意地だけで顔を上げると目の前にいる慈雲を睨み付けた。


「どうして、そこまで会いたがるんですかっ!? そこまで執着してるなら、まだるっこしい手を使わずに直接会いに行けばいいじゃないですかっ!!」

「会いに行ったさ。だがな、俺じゃあいつに辿り着けない。縁を取り持つ仲介役がいるんだ」


 慈雲は声の通りに笑みを浮かべていた。


 ……だが、その瞳は。瞳だけは。


「あいつは徹底的に俺を避けてる。……酷いと思わないか? 同期だっていうのに」


 底冷えするように鋭く光る瞳だけは、笑っていなかった。


 獲物を前にした狩人の瞳をした慈雲は、笑みの中に冷気を落とし込む。


「だからさ。……お前が俺を連れってってくれよ。てい涼麗りょうれい……俺の同期の所まで」

「汀……汀、涼麗って……」


 その冷気に射すくめられた黄季は、今度こそ言葉を失った。


 沙那さなの退魔師ならば誰でも知っている名前。慈雲の同期。救国の比翼。


 汀涼麗は、氷煉比翼の、片翼をになった者の名前だ。


「ま、お前に対して何って名乗ってるかは知らねぇし、完全に消息を断っていたあいつが何の気まぐれでお前を弟子にしたのかも知らねぇけど」


 腕の立つ退魔師なんだろうなということは、知っていた。


 だが、その名を持つ人間は、八年前の大乱終結の際に、死んでいる。


「最近のお前の術の巡らせ方は、涼麗の手癖そのものだ」


 それでも慈雲は笑みを浮かべて、底冷えする瞳で言い切った。


「お前の師匠は、八年前、相方を亡くし、死んだように消息をくらませた、氷煉比翼の片割れ……汀涼麗なんだよ」

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