拾陸

 現場解禁日の朝は、黄季おうきの内心を映し取ったかのようにキリッと晴れ渡っていた。この分だと今日は妖怪の他に容赦のない暑さとも戦うことになるだろう。


 早朝の微かに涼を残した空気を深く腹まで落とし込み、黄季は小さく気合を入れる。


 ──体調よし、装束よし、装備よし!


 出仕自体は昨日もしていたから、昨日と今日で特に何が変わるわけでもない。ただ今日から久しぶりに現場に出るのだと思うと、やはり心構えが変わるような気がした。


「支度はできたか」


 そんな黄季の背後から、静かな足音とともに涼やかな声が飛ぶ。答える代わりに振り返ると、いつになく目にまぶしい白衣びゃくえ氷柳ひりゅうの歩みに合わせてフワリと揺れた。


「はい! 今日もよろしくお願いします!」

「あぁ」


 黄季の隣に並んだ氷柳はしげしげと上から下まで黄季のことを眺める。その視線に黄季は小さく首を傾げた。


「氷柳さん?」


 氷柳が身を寄せてからのばん家では、二人揃って朝食を食べた後に一度それぞれの部屋に戻り、身支度を整えてから再度表門に集合、揃って出仕という流れが定番になっている。


 氷柳が転がり込んでくるまでは地道に徒歩で王城まで通っていた黄季だが、最近の移動手段はもっぱら氷柳が行使する転送陣だ。移動にかかる時間が格段に短縮されたおかげで、家事や鍛錬に割ける時間が増えて黄季は助かっている。


 ──何か俺の装備に問題でもあるのかな?


 朝一で顔を合わせた時には、ここまで観察されるような視線は感じなかった。朝食の時と今の違いで思い当たるのは、身支度の出来くらいしかない。


『もしかして寝癖が直ってないとか!?』と黄季は密かに慌てる。


 だがそんな黄季を他所よそに、氷柳は口元に淡く笑みをいた。


「そこまで気負わなくてもいい」


 無意識のうちに上がりかけていた両手もそのままに、黄季は呼吸ごと動きを止める。


 それは相変わらず破壊力満点な氷柳の微笑に意識を持って行かれたせいでもあったが、同時に氷柳の発言に虚を衝かれたせいでもあった。


「お前の腕も覚悟も、鈍っていない」


 その言葉に、無自覚のうちに強張っていた肩から、フッと力が抜けたような気がした。


 ──そっか、俺。


 今朝から何となく足元が浮ついているというか、何かが空回っていることは自覚していた。それが『約ひと月ぶりの現場解禁』ということへの気負いなのだと指摘されて、黄季はようやく自分の体が変に強張っていたことに気付く。


 ──そっか。無自覚に強張ってたから、体の動かし方を忘れちゃったみたいな、変な感じの動きになってたのか。


 黄季は中途半端な位置で止まっていた両手に視線を落とすと、ニギニギと指を曲げ伸ばししてみた。それからグルグルと肩を回し、次いで軽くその場で飛び跳ねて体をほぐし、意識して全身から力を抜く。そんな黄季の様子に、笑みをかき消した氷柳がわずかに目を細めた。


「氷柳さんは、ひと月ぶりの現場ってなっても、緊張とかしないんですか?」


 氷柳の表情の変化を横目に見ながら飛び跳ねるのをやめた黄季は、手首と足首をクルクルと回しながら問いを投げる。さらに首も合わせて回していると、パチパチと目をしばたたかせた氷柳が口を開いた。


「お前の目で見て普段と変わらないなら、特にそういうものはないんだろうな」

「え? そんな判断基準でいいんですか?」

「最近のお前は、私よりもよほど私の内心に詳しい」

「さすがにそんなことはないと思いますけども」


 最後にひとつ大きく伸びをして、黄季は姿勢を正す。黄季が改めて氷柳を見上げると、氷柳は浅くあごを引いて頷いた。


「では、いくか」


 氷柳は閉ざされたままの表門を見据えると、スッと右手を己の眼前まで持ち上げた。その指がパチンッと鳴らされた瞬間、門扉の周りを白銀の燐光が舞う。


「今日も頼りにしている」


 転送陣を発動させるための呪歌は聞こえなかった。氷柳ほどの術者になると、陣が固定されていれば無詠唱でも転送陣を起動させられるらしい。


 呪歌の代わりに黄季に向けられた言葉が紡がれた時、氷柳の足はすでに前に出ていて、氷柳の腕は閉じられた門扉を押し開けている。


 だから黄季はその隣に並ぶべく負けじと前へ踏み出し、力強く声を上げた。


「はい!」


 その声に氷柳の唇が微かに口角を上げる。


 だがその笑みは白銀の燐光が作り上げる幕をすり抜け、門扉の向こうへ踏み込んだ時には消えていた。燐光に一瞬くらんだ目をしばたたかせれば、周囲の景色はすでに王城の中に変わっている。


 ──毎日のように一緒に運んでもらってるけど、毎度この変化には慣れないんだよなぁ……


 鷭家と泉仙省せんせんしょうを繋ぐ氷柳専用転送陣は、泉仙省の正門から少し離れた脇道沿いに固定されている。一応氷柳も泉仙省正門の目の前に陣を固定するのは遠慮したらしい。……まぁ、『出退勤に使うために個人的な転送陣を泉仙省に設置する』などという暴挙におよんでいる時点で、既に『遠慮』という概念について考え直した方がいい状況ではあるのだが。


 ──思えばおん長官もうん老師も、こんな暴挙よく許してくれたよなぁ……


『まさか、「許可が降りないなら出仕しない」とかってごねたんじゃ……』と黄季が考えている間に、氷柳はすでにスタスタと正門に向かって歩を進め始めていた。そのことに数拍遅れて気付いた黄季は、氷柳の後を追うべく慌てて前へ足を踏み出す。


 その瞬間、氷柳の行く先をさえぎるかのようにヌッと角から人影が現れた。


 ──え?


 黄季をして気配を察知できなかった人影の出現に、思わず黄季は考えるよりも早く氷柳の前へ飛び出す。氷柳はどちらかと言うと人影よりもそんな黄季に驚いたようで、軽く息を詰めるとピタリと足を止めた。


 対して突然現れた人影の方は、驚くこともなく、余裕のある動きでユルリと足を止めると声を上げる。


「よ、黄季。はよっす」

涼麗りょうれいもおっすおっす」


 その声を聞いてようやく、黄季は突如現れた人影が泉仙省の大先輩だということに気付いた。


 慌てて動きを止めて相手の顔に視線を置けば、顔立ちに共通点などないくせに雰囲気は双子のようにそっくりな一対が揃いの矛を手に笑っている。


けい先輩にぎょく先輩!? な、何でこんなとこに……っ!?」


 景威行いぎょうと玉文玄ぶんげん


 揃って熊のような巨体にいかつい顔つきという山賊のような風体をしているが、その実態は『泉仙省の大兄貴』と各所から慕われている好漢達だ。裏表のない闊達な性格と面倒見の良さは親しみが強く、黄季も入省当時から何くれとなく声を掛けてもらっている。


「こーら、黄季。先輩と朝一で顔を合わせたら、まずは何はともあれ『おはようございます』だろぉ?」

「だぞぉ?」

「え、あ、はい。お、おはようございます……?」

「おう、おはよ」

「はよっす、はよっす」


 突如氷柳の行く手をさえぎるように現れた二人は、氷柳をかばうべく前へ出た黄季から『おはようございます』の一言を引き出すと満足そうに頷いた。そんな何気ない仕草のひとつひとつまでもが間に鏡を置いているかのようにピタリと揃っている。


 ──さすが双玉比翼……いや、今はそこを考えてる場合じゃないのか?


 威行と文玄の『双玉比翼』は、泉部せんぶの現役比翼の中で最古参にあたる一対だ。その由来となった赤輝石と青輝石、両方が揃って通された完全に同一の佩玉が、紺で揃えられた装束の腰元で仲良く揺れている。


 ──確か位階は六位の上だけど、袍の色が分かれるのが嫌だから、特例で紺袍のままなんだっけ?


 泉部の退魔師は、基本的に前線で戦う前翼と、後方支援を担う後翼で相方を組む。どの対も担う割合に差はあれども、前翼が攻、後翼が守を担うという役割分担は変わらない。


 そんな中、双玉比翼だけはその割振りが異なるのだという。


 曰く、どちらもが前翼であり、どちらもが後翼。攻守も前後も固定せず、状況に応じてより最適解が得られるように役割を入れ替えながら捕物を遂行していく。


 対が赤ならば己は青。対が青ならば己は赤。


 個に赤青を縛らず。我らは一対にて赤青。


 これすなわち赤青双玉なり。


 それが泉仙省最古参の一対『双玉比翼』の名の由来だという。


 ──一回実際に見てみたいんだよなぁ、景先輩と玉先輩の立ち回り。


 完全に攻守を分業してしまう猛華もうか比翼と対極にある一対だということは理解できている。だが『状況に応じて前翼と後翼の立場を入れ替える』という立ち回りがどういったものなのか、黄季はいまだに想像ができていない。自分が氷柳の相方に抜擢されて、実際に現場に立つようになった今の方が、現実を知っている分より一層『状況に応じて立場を入れ替える』という離れ業の使い方が分からない。


「……こんなところで、何をしているんだ……です」


 黄季は突如とつじょ現れた二人の勢いに押されながらも、日頃から抱いている疑問を今日も頭の片隅で転がす。


 そんな黄季の後ろから、常よりも低い氷柳の声が聞こえた。珍妙な言葉遣いに思わず肩越しに氷柳を振り返れば、氷柳は眉間にうっすらとしわを寄せて双玉比翼を見上げている。


「何か、用があるのか……ですか? 先輩方」


 ──え、氷柳さん? 何なんですか、その変な言葉遣い。


「え」


 聞いたことがない氷柳の言葉遣いに、黄季は思わず目を丸くする。


 そんな黄季の向こう側で、威行と文玄の声が揃った。黄季が顔を元の位置に戻すと、二人も揃って目をみはっている。


「涼麗が俺達に口きいた」

「こいつが入省してから十四年間で初めてじゃね?」

「えっ!?」


 今度は氷柳を振り返る番だった。


 一体どういうことなのか、と氷柳を見上げれば、氷柳はますます眉間に皺を刻んでいる。無表情は若干崩れ気味で、その下から顔をのぞかせているのは『苦虫を噛み締めたような』と形容されるたぐいの表情だった。その表情から察するに、どうやら威行と文玄が言っていることは間違っていないらしい。


 にしても。


 ──十四年間も……てか氷柳さんの場合は八年間の空白があるわけだけども! でもそれでも差し引き六年間も、年次が近い先輩と直接口をきかずに過ごすことなんてできるもんなんですかっ!?


 氷柳は慈雲じうんの同期だ。黄季の記憶が確かであるならば、双玉比翼は慈雲の三年次上の先輩だったはず。『新人の頃はよく面倒見てもらったなぁ』という慈雲の言葉も何かの折に耳にしている。新人の頃から何かと氷煉比翼の世話を押し付けられていたという慈雲と双玉比翼の距離が近かったならば、氷柳と双玉比翼の距離だって遠くはなかったはずだ。


 だというのに、氷柳が双玉比翼に対して直接口をきいたのが初めてとはどういうことなのか。


「いやこいつさー、昔はまーじで喋らなかったから」

「そ。必要なことはみーんな永膳えいぜんやら慈雲が代弁しちまいやがるから」


 黄季が驚愕を口にしなくても、二人には黄季の内心など手に取るように分かっているのだろう。黄季と一緒になって氷柳を見つめる双玉比翼がポンポンと実に気軽に言葉を紡ぐ。


「あれって、一種の甘やかしだったよな」

「そーそー。慈雲にゃ言ってあったが、下手に当人に厳しく言って機嫌損ねられても厄介だったし」

「強くは指導できなかったんだよな」

「そ。だーれもな」

「だから……ですから!」


 そんな二人の言葉を、氷柳の不機嫌な声が遮った。いや、これは『不機嫌』というよりも『いたたまれない』の方が近い声音なのか。


「朝からこんな所で張っていたのはなぜなんだ、と訊いている! ……ます!」


 言葉を投げ合う二人が途中から声音に笑みを忍ばせていたことに氷柳も気付いているのだろう。はっきりと眉を跳ね上げて両腕を組んだ氷柳は、キッと二人を睨み上げる。


 ──とは言いつつ、無視して通り過ぎることも、強行突破もしようとしない辺り、氷柳さんから先輩達への好感度って、案外高いんじゃないかな?


「お。張ってたってバレてら」

「分かってたのか。さすが涼麗」


『何だかんだで敬おうっていう気持ちもあるみたいだし』と黄季が考える後ろで、二人が笑みをすり替える。『張っていた』という言葉にハッと息を呑んだ黄季は慌てて双玉比翼を振り返った。


「どういうことですか?」


 張っていた。つまり二人はここで黄季と氷柳を待ち構えていたということだ。


 泉仙省が誇る屈指の一対である双玉比翼は、決して暇人などではない。常に前線に在り続ける道を選んだ双玉比翼は、現場から現場へ渡り歩くような日々を送っていて、泉仙省にも中々帰還できないはずだ。そんな二人が早朝のこんな場所でのんびりと黄季達の出待ちをしているなど、本来ならばあり得ないことである。


「俺達の可愛い後輩である慈雲ちゃんに頼まれちゃあねぇ」

「断りきれねぇってもんよ」


 黄季の問いにニヤリと人の悪い笑みを浮かべた双玉比翼は、拳から伸ばした親指を己の背後に向かって振った。そんな何気ない仕草までもが、本当に間に鏡を置いているかのようにピタリと揃う。


 さらに二人は口を開くと声を揃えた。


「ツラぁ貸せや、鳳凰師弟」


 物騒な台詞と聞き慣れない……だが自分達を指しているのだと分かる呼称に、黄季は思わず氷柳を見上げる。


 黄季の視線を受けた氷柳は、眉間の皺も組んだ腕もそのままに、ただ無言で双玉比翼を睨み付けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る