※※

 もはやどこを歩いているのか分からなくなってきた瞬間、パッと目の前が開けた。双玉比翼の先導に大人しく従っていた黄季おうきは、先に見えた光景に思わず声をこぼす。


「廟……?」


 左右を建物の背面に囲まれた空き地に、王城には不釣り合いな廟があった。突き当りは敷地の端にあたるらしく、廟の背後には空と、整然とならぶ都の景色が見えている。


「そ」

「黄季、お前は知らなかったか」


 黄季の声に肩越しに振り返った威行いぎょう文玄ぶんげんの髪が、吹き抜ける風にフワリと揺れた。


 そう、ここまで来る道中は迷路のような建物に阻まれて空気の流れを感じなかったのに、この場所には心地よい風を感じる。


「ここはな、『追悼墓碑』って呼ばれてる場所だ」

「先の大乱で亡くなったのに亡骸を見つけてやれなかった関係者をな、一緒にとむらってやろうって造られた場所だ」


 二人の言葉に黄季は無言のまま目をみはった。そんな黄季の隣で氷柳ひりゅうも微かに目を見開く。


「……知りませんでした。王城の中に、そんな場所があったなんて」

「ま、当時の関係者しか行き着けないように造られてっからな」

「ここへ来るまで、やったら道が分かりづらかっただろ? あれ、わざとなんだわ」


 説明を口にしながらも、二人は足を止めない。廟に向かって軽快に進んで行く二人の後を追いながら、黄季は素直に首を傾げた。


「わざと?」

「……なるほど。迷陣か」


 そんな黄季に半歩遅れる形になった氷柳が小さくつぶやく。ささやくような音量でありながら四人分の足音を越えて耳に届く涼やかな声に、黄季は氷柳を振り返った。


「迷陣、ですか? 結界の存在は感じなかったんですけども……」

「呪力を用いなくても、結界は張れる。錯視や感覚の狂いを用いて、特定の場所を通りがかりの人間に認識させない技……技術のひとつ、だな」


 それをかく家では退魔術を用いたくらましの結界とは区別して『迷陣』と呼んでいたのだと、氷柳は手短に説明してくれた。


 ──えっと……感覚的には分かる、かも。


 武術にも、相手の意識に隙を作り出す技というものが存在している。それを建築などに応用したものなのだろうと何となく理解した黄季は、氷柳の言葉に小さく頷いた。


「そ。涼麗りょうれいの言う通りだな」

「犠牲になった同朋達には、せめて静かに、安らかに眠ってほしい。その眠りを妨げられたくはない。そんな願いはみんな一緒だったから、静かな場所を用意するために王城中が知恵を絞ったって話だぜ」


 黄季と一緒に頷いた双玉がさらに言葉を付け加える。迷陣が何であるかは知っていても、廟が造られた経緯いきさつは知らなかったのだろう。わずかに目を細めた氷柳は、双玉の言葉を噛み締めるかのようにわずかに顎を引いた。


「ここには、文官も武官も呪官もまつられてる。人けに呪力を用いない迷陣が採用されたのは、徒人ただびとでもここに来られるようになんだわ」


 躊躇ためらうことなく廟へ歩み寄った双玉は、表門へ続く階段を揃って登ると、閉められていた扉に手を添えた。それぞれ片方ずつ扉に手をついた状態で黄季達を振り返った双玉は、唐突にニヤリと人が悪い笑みを浮かべる。


「まぁ、それが意図せず『呪力探査に引っかからない密談に向いた場所』を作り出してくれたんだけどな」

「え?」


 二人の表情の変化が意味するところを理解できなかった黄季は、思わず無防備なまま目をしばたたかせる。だが泉仙省せんせんしょうの大兄貴達はそれ以上の説明をすることなく、揃って腕に力を込めると廟の扉を大きく開け放った。


 廟の周囲を抜ける風に乗って、フワリと線香の香りが広がる。追悼の香りで満たされた廟の中には、蝋燭だけでは払いきれない闇が広がっていた。


 その闇の奥で、フワリと何かが揺れる。


「よっす、慈雲じうん

「連れてきたぜ」


 それが慈雲が纏う淡青色の袍であると黄季が理解した時には、前を行く双玉が気軽に声を上げながら廟の敷居をまたいでいた。一瞬、場の雰囲気に呑まれて身動きが取れなかった黄季を、後ろにいたはずである氷柳が追い越していく。


「威行さん、文玄さん、ありがとうございました。朝から手間かけさせてすんません」

「いいってことよ」

「使える手札はちゃんと使わねぇとな」


 黄季を招くように揺れる白衣びゃくえが視界に入った瞬間、黄季の足も前へ踏み出していた。一歩目が前へ出れば、先に中へ入った一行を追って黄季の足も自然と小走りになる。


「慈雲、わざわざ何なんだ」


 中が薄暗いせいで入口からのぞいた時は広く見えた廟内は、実際に中に入ってみると見た印象ほど広くはなかった。


 その最奥にあたる壁の前に慈雲はいた。廟の中を突っ切り慈雲の前まで進んだ氷柳は、片手を腰に置くと胡乱うろんげな声を上げる。


「話ならば長官室でもできただろう」


 ──胡乱げというか、これは心配が半分、連行の目的が長官からの呼び出しって分かって安心したのを覚られたくないっていうのが半分って感じかな?


 氷柳の声の響きからその内心を推し量った黄季は、氷柳の半歩後ろに控える形で足を止める。そんな氷柳と黄季へ向き直った慈雲の口元に、常と変わらない不敵な笑みが翻った。


「長官室だと、どこぞの誰ぞかに話を盗み聞きされるかもしんねぇからな」


 慈雲の発言を聞いた氷柳がピクリと眉を跳ね上げる。その意図がどこにあるのか察した黄季も、ヒヤリと心臓が冷えたような気がした。


「ここなら呪力探査に引っかからねぇ上に、地脈的にも更地に近い。万が一細工をされても一発で見抜けるし、何よりはこの場所の存在を知らねぇだろうからな」


『八年間眠ってた上に、いたむという感情を知らねぇあいつには、絶対に見つけられねぇ場所なんだよ』と続けられた言葉で、慈雲が誰を差してそう言っているのかは黄季にも分かった。同時に、本来ならばこちらの本拠地である長官室がそこまで相手に筒抜けになっている状態なのだということに、恐怖に近い寒気が全身を這い回る。


「……お前が、そこまで警戒すると、いうことは」


 黄季が必死にその寒気を振り払った瞬間、氷柳が重く口を開いていた。その中に微かな躊躇ためらいがあったことは、きっと慈雲も見抜いていたはずだ。


「それだけ警戒しなければならない話し合いの場に、貴陽きようを呼んでいないと、いうことは……」


 躊躇いながらも続けられた言葉に、黄季は息を詰めて氷柳を見やる。その脳裏にぎったのは、数日前に聞いた氷柳の苦悩の言葉だった。


『あいつらが互いのことだけを見つめたまま地獄に飛び込む様は、見たくない』


 ──氷柳さん……


 言葉に詰まりながらも問いかけることは止めようとしない氷柳の横顔には、隠しきれない苦さがあった。あるいはそれは『苦しさ』と表現した方が正しいのかもしれない。


 それでも氷柳は必死に言葉をかき集めて、重くて仕方がないだろう唇を動かし続ける。


「お前は、貴陽を……」

「……涼麗りょうれい


 氷柳は慈雲から視線を逸らさない。対する慈雲も氷柳を真っ直ぐに見つめていた。


 そんな慈雲の顔にジワリと驚きに似た感情が広がり、やがてそれは出来の悪い弟を見守る兄のような苦笑に変わる。


「お前さ、表情が動かねぇくせに、昔っから腹芸は苦手だよな」

「……は?」

「最近、ただでさえ下手だった腹芸がさらに下手になったんじゃねぇか? ま、お前に限って言やぁいいことなんだろうけども?」

「慈雲……!」

「お前はさ、そのままでいてくれよな」


 ユラリと氷柳から怒気が立ち昇るのを見た黄季は、口を挟めないままアワアワと二人を交互に見やる。


 その瞬間、どこか満足そうな声で慈雲は呟いた。


「昔よかお前、きちんと『生きてる』って感じがするからよ」


 まさに兄が弟を見る顔だった。あえてその表情を言葉で言い表すならば『安堵』が近いのかもしれない。


 そんな慈雲の表情には氷柳も面食らったのだろう。怒りをにじませていた氷柳は呆気に取られたかのように目をしばたたかせている。


「腹芸が苦手なお前は、そのままお前が感じた通りに、考えたままで動いてくれ。突っ走りすぎたらきっと黄季が止めてくれるだろうし、そのまま突っ走りたいってお前が言えば、黄季なら支えてくれるだろ」


 そんな氷柳に向かって、慈雲は軽やかな口調のまま言葉を続けた。


 ただしその表情は、敵を前にしているかのような不敵な笑みにすり替わっている。


「俺は俺で、腹芸が必要な戦いをするつもりだからよ」


 ──それって、


 結局慈雲は氷柳からの『貴陽は永膳えいぜん方と繋がっているのではないか』という問いを察していながら明確な答えを返していない。


 だが氷柳にとっては慈雲の一連の発言だけで十分だったのだろう。スッと常の無表情に戻った氷柳の瞳には、凛とした芯が戻っている。


「今日の昼から、お前と貴陽で地盤を調べてもらう手筈てはずになってるだろ? その前にお前に説明しときたいことがあったから、威行さんと文玄さんに協力してもらったんだわ」


 氷柳の心の迷いが晴れたことを察した黄季は、小さく口元に笑みを乗せながらそっと身を引いた。そんな黄季のことも視界の内に置きながら、慈雲は改めて口火を切る。


「さて。お前ら二人が現場から外されてる間、こっちも無為に毎日を過ごしてたわけじゃねぇ。伝えてなかっただけで、色々動いてはいた」

「今それを伝えてくるということは、ある程度確定した事実と、それへの対抗策への仕込みが済んだということか」

「まぁ、俺の読みが外れてなきゃな」


 とは言いつつ、慈雲は不確定な憶測を口にするような真似はしないはずだ。自分達が前線から外されていた間に事態は進展していたのだと、黄季は心持ち姿勢を正して拝聴の構えを取る。


「まず、永膳が仕掛けてくるだろう呪詛式の予測がついた。今まで起こった事象と、修祓のために各所に散ってる連中の報告から推測するに、今回の永膳は恐らく呪詛式の起動に都中の忌地に溜まってる陰の気を使うつもりだ」


 八年前、冥翁めいおうが皇帝一族を呪い落とすために呪詛式を起動させた時には、都全体を陰に落とし、その中に囲われた人々で蠱毒を成すことによって、都という器の中にかつてないほどの陰を溜め込ませた。


 だが今回、郭永膳が国を焼き払うために組み上げる呪詛式はそこまで大規模なものにはならないと、慈雲は以前から予測を口にしている。その裏取りができたということだろうか。


「都の地脈の流れ自体は変わっちゃいねぇ。ただ、各所の忌地の力の均衡が大幅に狂ってる。強くなった場所もあれば……涼麗、お前んみたいに、長い間強大な力を保ってきた忌地が、あっさり更地に戻ったっつー動きもあった」


 その言葉に黄季はハッと息を呑んだ。脳裏を過ぎったのは、今まで自分が遭遇してきた各所の異変だ。


 ──そういえば『海』が暴走した時も、西院さいいん大路おおじで妖怪が暴れた時も、現れた妖怪はみんな虎の姿をしていた。


 かつて永膳は炎の虎を使役する術を得意としていたという。そこから取られた異名が『煉虎れんこ』であったはずだ。


 ──まさかあの時からすでに、そこまでの仕込みがされていた? 氷柳さんのお屋敷を破壊したのも、意趣晴らしに見せかけることで、陰の気が根こそぎ消えたことから目をそらすためだったとか?


「……各所の忌地を密かに繋ぎ、溜まっていた陰を一処ひとところに寄せ集めている、ということか?」

「そこに直接手が打てるほどの確証は見つかってねぇんだけどな。見えてる事実から繋ぎ合わせて考えると、ほぼ間違いないはねぇよ」


 八年前の呪詛式は強力で規模も大きかった分、発動に強大な陰の気が必要だった。その仕込みには呪詛師の生涯がほぼ丸ごと費やされていたという。


 しかし今回の永膳にそこまでの時間はなかった。いくらかつての永膳が優れた退魔師であったと言っても、この短時間であれだけの陰の気を集めることは不可能と見て間違いない。そもそもあそこまでのことをされていたら、都の術師は皆黙っていないだろう。


 いかに永膳といえども、地脈と己の霊力だけで一国を焼き払うほどの大術を行使することは不可能だ。


 手っ取り早く短時間で強大な陰の気を欲するならば、確かに忌地の陰の気を転用するのは効率的だと言えるだろう。


 ──とはいえ、忌地の陰の気をそのまま自分の呪詛式に直接流し込んで使おうなんて、郭永膳でなきゃ思いつかないし、実行もできないんだろうけども。


「確かに、都中の忌地……『海』に溜まった陰の気までもを使い果たせば、呪詛式をひとつ起動させることはできるだろうが」


 自分の独白に自分で不愉快になった黄季はひっそり苦虫を噛み締める。そんな黄季に気付いているのかいないのか、片手を口元に添えて思案げに瞳を伏せた氷柳が口を開いた。


「それでも、都ひとつを根こそぎ焼き払う規模での展開には、火力が足りない」

「だな。恐らく王城を焼き払うので手一杯だ」


 黄季には忌地に溜め込まれた陰の気がいかほどのものなのかも、呪詛式の起動にどれほどの陰の気が必要なのかも分からない。


 だが冥翁の呪詛式の詳細を知っている二人に、大乱を生き残った双玉までもが氷柳の発言に頷いているのだから、その試算には何かしらの根拠があるのだろう。


「で、そこから思うに、だ。永膳は今回、二段階式で国を焼き払うつもりなのかもしれない」

「二段階式?」


 慈雲の言葉に黄季が声を上げると、慈雲はひとつ頷いてスッと人差し指を伸ばした。


「まずは王城の囲みを利用して、王城を封鎖する結界を展開。中に詰めた官吏、後宮の住人、さらに皇帝一族ごと、王城の敷地内を焼き払う」


 王城の敷地を焼き払うくらいの呪詛式ならば、試算上今の都が抱えている陰の気だけでも発動は可能だ。さらに初手で国政中枢部を瓦解させてしまえば、残るのは無力な烏合の衆のみ。


「さらに王城を焼き払って得た陰気……正確に言えば、王城で出た大量の人死が生む陰を呪詛式に吸わせて、次段にあたる都全体を焼き払う呪詛式を発動させる」

「えっ!? そ、そんなこと……!!」

「計算上は、可能だな」


 二本目の指を伸ばした慈雲の説明に、ゾッと黄季の背筋に悪寒が走った。思わず反射的に声を上げると、慈雲ではなく氷柳から答えが返る。


「皇帝一族が背負う陰と、後宮という場所が抱えた陰は、下手な忌地よりも強い。その陰を呪詛式に組み込めるならば、……確かに効率がいいな」


 顔を慈雲に向けたまま視線だけを黄季に流した氷柳は、淡々と冷静に言葉を紡いでいた。その横顔からは氷柳の脳内で今なお呪詛式に対する試算が展開されていることが分かる。


 ──そうだ、冷静さを忘れるな。


 その横顔で、常に言い聞かされている教えを思い出すことができた。


 退魔の現場では、平静さを失った者から死んでいく。その教えは、戦う場所が捕物現場でなくなっても有効なはずだ。


「そうだな、効率はいい。……ただし、その第一弾にあたる呪詛が、あるべき場所で、あるべきように発動すれば、だけどな」


 黄季は意識して深く息を吐く。


 そんな黄季の前で、相対した慈雲がニヤリと笑みを深くした。それに和するかのように、慈雲の傍らにいた双玉も似たような笑みを浮かべる。


 その表情を見た氷柳が、ハッとわずかに目を見開いた。


「位相をずらすということか?」

「ずらすよりも反転させた方が確実かと思ってな。呪詛式もろとも、陰の気もまとめて異界に叩き込むことにした」


 慈雲の言葉に氷柳は言葉を詰まらせたまま目を丸くする。だが残念なことに黄季には慈雲が何を目論んでいるのか、氷柳に返された言葉だけでは理解することができなかった。


 ──え? どゆこと?


 氷柳が言った『位相をずらす』というのは、呪詛が規定する範囲を実際の場所から何らかの方法でずらすことで呪詛の力を削るという手法のことだ。しかし『反転させる』やら『異界に叩き込む』やらというのは、一体どういうことなのだろうか。


「永膳が姿を消した異界っぽい光景を見て思いついたんだわ。『この世界で呪詛式を発動させなけりゃ面倒事もねぇんじゃねぇか』ってな」

「……実際問題、できるのか?」

「そのために『期待の新人二人』っていう手足を増やした双玉比翼に暗躍してもらったんだよ」


 険しさを増した氷柳の視線にも慈雲の不敵な笑みは崩れない。それは双玉比翼も同じで、氷柳からの視線を受けた双玉はニヤニヤと不敵な笑みの中に楽しげな色を混ぜる。


「凡人の意地をナメんなよ、涼麗。全力で仕込んできてやったっつの」

「そーそ。俺達、大乱を生き残った凡人はよぉ、涼麗。あの時誓った意地があんだわ」


 声を揃えた双玉は、不意にスッと顔から笑みを消した。


 たったそれだけで、廟の中の空気が冷える。


「事の解決をひと握りの天才に押し付けるようなマネなんざ、金輪際一切しねぇ」


 凛と揃った声には、慈雲の声も混ざっていた。ハッと黄季が息を詰めて三人を見やれば、相対した三人が三人とも笑みをかき消して真剣な表情を見せている。


 その瞳に宿る決意は、抜き身の刃に似ていた。しんと冷えた廟の空気の中に三人の覚悟を推し量る気配が混ざっているような気がするのは、ここが大乱で亡くなった者達が祀られた場所であると聞かされたせいなのだろうか。


「あの時の俺らは、お前達天才にすがって、助けてもらうことしかできなかった」

「情ねぇ話だよな。俺らよりずっと歳下だったお前達に、全部放り投げてトンズラたぁよぉ」


 威行と文玄の言葉を、氷柳は呼吸すらも忘れて聞き入っているようだった。黄季から見える横顔には、素直に驚きが浮かんでいる。


 ──出会ったばっかの氷柳さんだったら、きっとけい先輩達の言葉を聞いても、心には届かなかった。こんな顔は見せなかった。


 だが、今の氷柳は違う。黄季にはそれが分かる。


「……涼麗、俺はな、いまだに考えることがある」


 言葉を失った氷柳に、慈雲が静かに語りかけた。氷柳がぎこちない動きで慈雲へ視線を向け直すと、慈雲の瞳に一瞬、痛みに似た感情がぎる。


「俺が真実、お前らに並べる『天才』であったならば。……あんな決断を、お前にさせることも、なかったんじゃねぇかって。永膳が灰になることも、なかったんじゃねぇかって」


 その言葉に、今度こそ氷柳が息を詰めたことが、隣に並ぶ黄季には分かった。


 ──あ……


『私がやると、自分から名乗りを上げた』


 慈雲では実力的に永膳と氷柳に劣る。実質永膳と氷柳の二択のようなものだった。


『……私が死ぬのが、一番自然だと、思っていた』


 黄季に大乱の裏事情を明かしてくれた時、氷柳は己が大術の行使者に名乗り出た事情をそう口にしていた。


 その裏事情を、当時の慈雲も承知だったとしたら。もしも黄季自身が慈雲の立場に置かれていたら。


 ──『悔しい』なんて言葉じゃ、足りない。


 才にあふれた同期に挟まれていた黄季だから、余計に分かるような気がする。


 文字通り落ちこぼれだった自分と、ずば抜けた天才達に囲まれていたせいで目立たたなかっただけで、素質的に見れば十分自身だって『天才』である慈雲を同列に並べるなんて、烏滸おこがましいのかもしれないけれど。でも。


 ──ううん、きっと。……世間から見れば十分に『天才』の分類だったからこそ、きっと長官は……


「ただ、後悔なんざ、いくら積み上げても過去は変えらんねぇ」


 ギュッと、胸を締め付けられるような痛みが走る。


 だが黄季が感傷に浸るようないとまを、慈雲は許さなかった。


「俺達はここに名を刻まれた人間が生きるはずだった未来を背負って、先を生きると心に決めた。その未来を勝ち取るために戦うと、ここに誓ったんだ」


 慈雲がピッと伸ばした親指で肩越しに背後の壁を示す。慈雲の背後にたたずむ壁に視線を投げた黄季は、その『壁』がただの壁ではなかったことに今更になって気付いた。


 ──これ……墓碑だ。


 黒曜石がはめ込まれた奥壁は、その全面にわたっておびたたしい量の名前が刻まれていた。おそらくこの奥壁ではなく、廟を支える四辺の壁、全てがこうなのだろう。双玉がここへ案内してくれた時、この廟を『追悼墓碑』と呼んでいたことを黄季は思い出す。


「俺達が積み上げてきた八年をナメてもらっちゃ困るんだよ、涼麗」


 コクリと空唾を飲み込む黄季の隣で、氷柳もこの場の空気と慈雲の言葉に気圧けおされているのが分かった。


 黄季と同じく奥壁に視線を投げていた氷柳が、ゆっくりと慈雲に瞳を据え直す。


 そんな氷柳に向かって、慈雲はいつものように……いつも以上に強気に、不敵な笑みを浮かべた。


「今度は一緒に背負わせろ」


 その言葉に一瞬、氷柳の無表情が崩れたような気がした。黄季から見えている横顔が泣き出しそうに見えたのは、果たして黄季が見た幻覚だったのだろうか。


「……お手並み拝見、と、言わせてもらおうか」


 静かに目を瞠る黄季の視線の先で、氷柳はゆるりと目を閉じた。ふぅ、と軽く息をついた氷柳が次にまぶたを押し上げた時、そこには常の静謐な光だけが宿っている。


「その反転術式について、詳しく教えろ。あえて今それを双玉比翼とともに伝えてきたということは、今日の調査を行う上で、私がそれを承知していた方が都合がいいからなんだろう?」

「話が早くて助かるねぇ、涼麗」


 氷柳が常の調子を取り戻せば、慈雲と双玉が張り詰めさせていた緊張も消える。すっかりいつも通りに戻った一行に、黄季も思わずほっと息をついていた。


 それでも慈雲達の覚悟に触れた心は、より一層緊張を張り詰めさせる。


『俺達が積み上げてきた八年をナメてもらっちゃ困るんだよ、涼麗』


 ──俺が俺の立場からできる援護って、何なんだろう?


 胸に深く突き刺さった言葉に、ふとそんな疑問が湧き上がる。その答えはすぐそばにあるような気がするのに、今の黄季では明確な形を捉えてすくい取ることができない。


「で、話が戻るわけなんだが」


 そんな悩みに一瞬気を取られた黄季は、次に投げ込まれた慈雲の言葉に一気に意識を引き戻された。


「涼麗、お前、腹芸下手だから、腹芸は諦めろ。それを踏まえた上で俺の話を聞け」

「……は?」


 思わず上げた声が、氷柳と重なった。


 ──いや、あの……本当にそれでいいんですか? 長官。


 何だか色々大丈夫なのだろうか、と勘繰ってしまった黄季と、珍しく様々な感情を混ぜた雰囲気を醸した氷柳の前で、慈雲と双玉は変わらず不敵な笑みを浮かべ続けていた。

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