※※※

 地盤の解析は、午後の早い時間に行うと伝えられていた。


 朝の一件ののち慈雲じうん達と追悼墓碑で分かれ、軽く数件現場を回って肩慣らしをしてきた黄季おうき氷柳ひりゅうは、集合場所である泉仙省せんせんしょう泉部せんぶ長官室に向かっている。


 ──うー……何っでただの付き添いである俺がこんなに緊張してるんだぁー!


 ソワソワと落ち着かない内心を持て余しながら、黄季はチラリと隣を歩く氷柳を見上げる。


 常と一切変わらない無表情のまま真っ直ぐに前だけを見据えて歩を進める氷柳は、黄季が見る分には平静であるように思えた。少なくとも、数日前、ばん家で黄季と立ち合った時のような苦悩は見えない。


 ──長官は氷柳さんに『表情が動かないくせに腹芸が苦手』って言ってたけどさ。俺だって腹芸は苦手なんだよなぁ……!


 この落ち着かなさが『地盤解析に臨む氷柳の付き添い』という現状そのものから発生しているわけではないことくらい、黄季にも分かっている。問題なのは課された役目そのものではなく、今から現場に並ぶ面子メンツの方だ。


 ──俺、絶対に思ってることが全部顔に出る! 俺から筒抜けになるくらいだったら、俺は席を外した方がいいんじゃ……!


「黄季」

「ひゃいっ!!」


 足を止めないままグルグルと考え込んでいたせいで、とっさに変な声が出た。バッと声の方を振り仰げば、いつの間にか氷柳の視線が黄季に向いている。


「難しく考えずに、私の傍にいろ」


 さらに端的に落とされた声に、黄季は一瞬呼吸の仕方を忘れた。


「お前は、それだけでいい」

「で、でも……」

「慈雲は私に腹芸は諦めろと言った。ならばお前にだって腹芸は求められていない」


 黄季がこんなにも落ち着かないのは、かく永膳えいぜんと繋がっている疑惑がある貴陽きようが解析の現場にやってくるからだ。


 おまけに慈雲を含めた他全員が貴陽を疑っているという事実を知った上で、普段と変わらない立ち振舞いを心がけなければならない。自分達が貴陽に疑いの目を向けていることを隠しておけるのかという部分も、その上で今まで通りの受け答えが貴陽とできるのかという部分も、黄季にはまったく自信がなかった。


「お前が解析現場に呼ばれているのは、私の護衛という部分が大きい」


 そんな不安が思いっきり顔に出ていたのだろう。


 不意に氷柳は足を止めると体ごと黄季に向き合った。一歩だけ氷柳を追い越してしまった黄季は、その足を引き戻しつつ氷柳に向き直る。


「護衛って……」

「護衛という言葉が不満ならば、安心材料と言い換えてもいい」

「役不足では……」


 思わずポロリとこぼすと、氷柳はピクリと柳眉を跳ね上げた。いつになく鮮やかなその反応が『何を言うか』という不満の表れであると読めた黄季は、一度肩をすくめてから何とか背筋を正す。


「解析に集中していると、全ての意識がそちらに行っている分、どうしても生身が無防備になる。そのことを理解しているから、私は自身の安全が保証されていなければ、解析に集中することができない。結果、解析の精度を欠くことになる」


 つまり『黄季がいてくれれば意識の全てを解析に向けていても安全である』という確信が氷柳にはあるということだろう。万が一その場で何が起きようとも、誰が自分に不意に刃を向けてこようとも、黄季だけは自分を裏切らないし、何があっても守り抜いてくれると、氷柳が全幅の信頼を寄せてくれているということだ。


 言外に示された絶対の信頼に黄季は思わず目をみはる。そんな黄季に反論を許さないまま、氷柳は畳み掛けるように言葉を続けた。


「お前は、何があっても私を守ってくれるだろう?」

「もちろんです」


 その信頼に応えられる絶対の自信があったわけではない。それでも、断言の声は腹の底から強く響いた。


 ──覚悟だけなら、誰にも負けない。でも……


 何があっても、氷柳を守る。もう氷柳だけを戦わせるような真似はしない。その決意はいつだってブレることなく黄季の中心にある。


 だがその決意を貫き通せるだけの技量が今の自分にあるのかどうかと問われると、黄季は首を縦にも横にも振れなかった。


 ──郭永膳相手には殺されかけてあのザマだし、他のことでも役に立ててないし……


「お前がお前自身を信じられないならば、お前を信じている私を信じろ」


 ここ最近の己の不出来を思い返して、知らず知らずの間に顔はうつむいていく。


 その瞬間、いつもと変わらず淡々とした、だがいつもとはほんの少しだけ響きが違う声が落とされた。


「私からの信頼は、貴重だぞ?」


 その言葉にハッと黄季は顔を跳ね上げる。さらにその先にあった表情に、黄季は思わず息を呑んだまま動きを止めた。


 宝玉にたとえるには温かくて、花に喩えるには素朴な。


 氷柳の顔に浮かんでいたのは『やれやれ、仕方のないやつだな』とでも言わんばかりの、呆れを含んだ微笑ほほえみだった。いつになく柔らかく、色濃く感情が溶け込んだその表情には、氷柳が黄季にだけ向ける慈しみと軽口が同居した気安い空気がにじんでいる。


 ──氷柳さん……


 その表情が今の氷柳との関係性を表しているような気がして、ジワリと涙腺が緩んだのが分かった。


 弟子としてだけではなく、相方としても、一人の人間としても信頼してくれていることは知っている。そうでなければ、そもそも自分は氷柳の片翼には指名されていない。ここまでの諸々でその信頼を損なっていれば、氷柳は容赦なく黄季を現場から外したはずだ。


 そういう氷柳の気性は十分に承知しているつもりだ。それでも黄季は『だから自分は胸を張って氷柳の隣にいれば良いのだ』と開き直れるほど、自分に自信を持つことができずにいる。


「お前の『強さ』というのは、目に見える『強さ』だけではないと、私は思う」


 息を呑んだまま呼吸を忘れている黄季に、氷柳は柔らかな口調のまま言葉を続けた。内心を口にする言葉がいつになくなめらかに出てくるのは、きっとそれが言語化に悩むことがないくらい、いつも氷柳の胸にある言葉だからだろう。


「お前の『強さ』は、周りも強くしてくれる」

「周りも、強く?」

「現に私は、お前の『強さ』で強くなれた」

「?」


 だが残念なことに、その言葉を詳しく説明できるだけの語彙は備えていないらしい。


「え? それはどういう……」


 理解が及ばない『氷柳語録』に思わず黄季は首を傾げる。だが氷柳はそれ以上に説明を重ねるつもりはないらしい。『言いたいことは言い切った』とばかりに満足の気配を漂わせた氷柳は、黄季を迂回するように足を運ぶとさっさと歩みを再開させる。


「えっ、ちょっ! 氷柳さんっ!?」

「とにかくお前は、そのままでいい」


 一連の発言を一方的に締め括った氷柳は、黄季を待つことなく歩を進め続ける。だから黄季は大人しく氷柳の後を追うしかない。


 ──氷柳さんが言う俺の『強さ』ってのは、よく分からないけども。


 それでも、他でもない氷柳が『私を信じてそのまま傍にいろ』と言ってくれたのだ。とにかく黄季はその言葉に応えるべく、いつも通り氷柳の傍にあるしかない。


『何ができるかは分からないけど! やれることをやる!』と密かに気合いを入れ直す黄季を横目で見ていたのか、隣に並んだ氷柳が微かに笑みを浮かべたような気がした。黄季がそれを横目で確かめてみれば、フイッと氷柳の視線は前へ戻される。その横顔に表情らしき表情はなかったが、それでもやはり黄季には氷柳がまとう空気に微かな笑みの気配が残っているような気がした。


 その空気が不意に、スッと引き締まる。あと数歩で長官室の前に出ることに気付いた黄季も、深く息を吐くと揺れ動いていた心を無理やり鎮めた。


「……行けるな?」


 低くささやかれた声は、黄季の耳にだけ届いたはずだ。だから黄季は小さくあごを引いて、同じ響きの声で応える。


「はい」


 小さくも芯のある返答は、どうやら氷柳のお気に召すものであったらしい。


 最後に小さく笑みを閃かせた氷柳は、その笑みを掻き消してからコンコンッと入口横の壁を叩いた。到着を主張してから間を置かず部屋の中に踏み込めば、室内から二対の視線が一斉に飛んでくる。


「おー、やっと来たか」

「随分ゆっくりだったんじゃない?」


 長官室には、すでに慈雲と貴陽が揃っていた。卓について書類に目を通していた慈雲の傍らに貴陽が控えているのを確認した黄季は、氷柳の陰で小さく肩を揺らす。


「現場復帰初日だというのに、誰かさんが随分張り切って仕事の予定を入れてくれたからな」


 対する氷柳は常と変わらない口調で返しながら、自然体のまま奥へと踏み込んでいく。その雰囲気にハッと我に返った黄季は、氷柳にならうように後を追った。


「勘を取り戻すのに丁度良かっただろ」

「心配されずとも、元より鈍ってなどいない」


 ──長官も氷柳さんも、全然普段と変わらないというか……


 軽口を叩きあう二人を眺めながら、黄季はチラリと貴陽を見やる。


 光に当たると紫の艶を見せる独特な色の髪を頭の後ろで尻尾のある団子状に結った貴陽は、今日も杖を片手に穏やかな表情で二人の軽口に耳を澄ませているようだった。相変わらず氷柳の位置を捕捉する首の角度は的確で、本当に貴陽は視力を失っているのかと首を傾げたくなる。


 ──……ん?


 そんなことを思った瞬間、意識の端を何か違和感がかすめたような気がした。だがそれが具体的に何に対する違和感なのかが分からなくて、黄季は思わず目をしばたたかせる。


 ──髪型……は、最近ずっとあんな感じだし。服装も、杖も、いつも通り……だよな?


 貴陽を疑ってかかっているせいで、何もかもが怪しく思えてしまうだけなのだろうか。そうであるならば、そんな思い込みは今すぐ払拭しなければならない。


 ──思い込みは術者の目を曇らせるって言うし……


 氷柳と慈雲のやり合いはまだ続いている。だが黄季の意識は貴陽への違和感に引き寄せられていた。自分の意識に引っかかったものが違和感なのか思い込みなのかを判じようと、黄季は無意識のうちに貴陽に視線を注ぐ。


 その視線に、きっと貴陽は最初から気付いていたのだろう。


 不意に貴陽は黄季へ顔を向けた。さらに瞼を押し上げて真っ直ぐに黄季を貴陽は、その花のようなかんばせに滴るような笑みを載せる。


「っ!?」


 その毒花のごとき微笑みに、……いや、に、黄季の背筋を寒気が駆け抜けた。


 ──え? もしかして今のこう先生、目が……


「んじゃ役者も揃ったし、始めますかね」


 違和感の正体を覚った黄季は、反射的に氷柳へ視線を投げる。


 だが黄季が何か行動を取るよりも、パンッと手を打った慈雲が口火を切る方が早かった。ハッと黄季が慈雲へ視線を投げた時には、貴陽の顔は慈雲の方へ向け直されている。


「慈雲。本当にここで解析をするのか? やるなら他の場所の方がいいと思うんだが」


 言葉とともに腰を上げた慈雲が窓際の卓に置かれた地盤に歩み寄る。その光景を卓の前で足を止めたまま眺めながら、氷柳が低く声を上げた。


「ここは何かと物が多い。解析中に万が一があって場が荒れた場合、色々と被害が出るんじゃないのか」

涼麗りょうれいにしてはまともな意見だな」


 慈雲の出方を探るような氷柳の声に、慈雲はあくまでいつも通り飄々ひょうひょうと答える。無言のまま眉尻を跳ね上げた氷柳の内心は『私にしてはまともとはどういう意味だ』といったところだろうか。


「まぁ、正確に言うと、現場はここというか、隣というか、下というかなんだが」

「は?」

「まぁとりあえず『ここ』じゃないとダメな理由がちゃんとあるんだわ」


 軽やかに答えながら、慈雲は地盤に手をかざす。そんな慈雲の手から鈍色の燐光がこぼれ落ちた瞬間、ガコンッと何かが外れるような音がどこからか響いた。


「っ!?」


 ──部屋の中からじゃない。隣の部屋?


 黄季は反射的に身構えながら音の出どころを探るように視線を走らせる。そんな黄季の動きにニヤリと笑みを浮かべた慈雲は、地盤にかざしていた手を翻して燐光をかき消すと黄季達の前を横切るように部屋の中を移動した。慈雲が行く先には隣室へと続く扉がある。


「実は『地盤』っつーのは、その碁盤のことだけじゃねぇんだわ」


 隣室へと踏み込んだ慈雲の後ろに貴陽が続く。二人の行動から『ついてこい』と言われているのだと判断した黄季が氷柳を見やると、氷柳はついっと目をすがめてから隣室へ足を向けた。


 その後ろを追うように隣室へ踏み込んだ黄季は、そこにあった光景に目を瞠る。


「あれは展開されてる術の解析結果を分かりやすく示すための装置で、地盤の本体……核に当たる部分はこの下で展開されてる」


 長官室の隣の部屋は、窓際に長椅子が置かれている他は雑然と物で覆われていた。物置然としているが、正確に言えばここは長官の私的な休憩室であったはずだ。


 その部屋の中心、ちょうど物が置かれず床が露出していたと思われる場所に今、ぽっかりと穴が空いていた。その穴をよく見れば、急な階段が地下へ伸びているのが分かる。


 階段はどうやら長官室の地下へ降りる形で造られているようだった。どうやら先程の物音は、この穴が開いた音であったらしい。


「都の気の傾きを見る『地盤』は、代々長官室ごと歴代長官に継承されてきた。じゃなきゃ継承できねぇ代物なんだ、実はな」


『これは本来長官の座に就く人間にしか知らされないことだから、内密にな』と冗談めかして説明しながら、慈雲は地下へ続く階段を降っていく。その後に平然と貴陽が続いてしまえば、黄季と氷柳も後を追うしかない。


 ──いやそれ、氷柳さんはともかく、ぺーぺーの新人でしかない俺が知ってもいいことだったんですかっ!?


 黄季は内心で叫んでいたが、知ってしまったものは今更どうしようもない。何よりここまで来ておいて『新人の俺の手には余りますので失礼します』ときびすを返すことなどできるはずもなかった。


 腹を括った黄季は、氷柳の後に従って急な階段に足をかける。


『歴代長官に部屋ごと受け継がれている』と語られただけあって、階段も仕掛けも随分古い物のようだった。いかにも足が滑りそうな造りに内心ヒヤヒヤしていた黄季は、ふと灯りらしき物もないのに視界がやけに明るいことに気付く。


 さらに氷柳の背中越しに階段の先を見やった黄季は、目指す先から柔らかな光が漏れ出ていることに気付いて目を丸くした。


「さて。これが地盤の本体だ」


 先に階段を降りきり、開けた場所に踏み込んでいた慈雲が黄季達を振り返って腕を広げる。


「な? 一人で解析させるには骨が折れるだろ?」


 急な階段を降りきった先には、長官室の数倍は広い空間が広がっていた。切石を敷き詰められて造られた空間は、神域の祭祀場に似た雰囲気を醸し出している。


 その空間一杯に、蛍を思わせる淡い黄緑色の燐光が舞っていた。


 床に走る光の線は、精緻で複雑な陣を描いている。一定の強さで発光する陣の上を、まるで呼吸するかのように明滅しながら同色の燐光がフワリ、フワリと舞っていた。時折青みや赤みが強い燐光がフワリと生まれては陣に吸い込まれるようにして消え、また違う場所から生まれては消えていく。この陣から漏れる光で、階段周囲も視界が明るかったのだと、黄季は頭の片隅で理解した。


 ──すごい……


 美しさに目を奪われると同時に、後翼退魔師としての黄季は展開されている陣の規模と複雑さに圧倒されていた。


 陣は大きくなればなるほど、また複雑になればなるほど維持することが難しい。術者が常時術を行使し続けなくてもいいように陣だけを自立させようとすればなおさらだ。この陣を最初に敷いた人間は、一体どれだけ結界術の理に通じていたのだろうか。


「泉仙省の地下には、こんな大物が隠されていたのか」


 先に足を踏み入れた氷柳も、この光景には驚きを隠しきれないようだった。目を丸くして目の前の光景に見入っていた氷柳は、次いで慈雲に視線を流す。


「だから、なのか」


 確信を得た響きに、慈雲の笑みがニヤリと深くなる。二人だけで通じている話題に黄季が首を傾げると、貴陽が黄季の内心を代弁するかのように口を開いた。


「涼麗さん、何が『だから』なの? というか涼麗さんでも、この陣の存在には気付いていなかったの?」

「かく言うお前は知っていたのか」

「知るわけないよ。僕を泉仙省から追い出した後の慈雲は、何でもかんでも自分だけで抱え込んでるんだから」

「歴代長官が隠し通してきた秘密だぞ。相方といえども簡単に話せるかよ」


 不満そうに唇を尖らせる貴陽を呆れた声でたしなめた慈雲は、背中ごしに陣を示しながら言葉を続ける。


「泉仙省は、沙那さなが建国された当時からこの場所に省が置かれてきた。地盤……地脈陰陽解析陣の他に、厄介な呪物を封じてる結界やら、何やらかんやら色々抱えてきたからな。そうそう簡単に移動できねぇんだわ」

「その諸々を守るために、いくつもの仕掛けが元から泉仙省には施されていた。『だから』大乱で王城の大半が焼け落ちた中、泉仙省は無事だったんだな? ……ということだ」

「ついでに言えば、再建を機に色んな部署が配置換えになる中、泉仙省の場所だけが移されなかったのも『だから』なんだけどな」


 慈雲と氷柳によって説明された言葉に、黄季は驚くと同時に納得もしていた。


 ──そういえば出仕を再開したばっかの頃の氷柳さん、言ってたもんな。『再建されたせいで地理が分からん』って。


 大乱の折、最終決戦地となった王城はほぼ全域が炎に呑まれている。王城内の建物は玉座が置かれていた紫龍殿しりゅうでんも含めて灰に還り、ほぼほぼ更地と化した。都の中にいればどこにいても見えた王城のいらかが見えず、ただただ見晴らしのいい小高い丘だけがあった大乱後のあの光景を、黄季は今でもぼんやりと覚えている。


 ──泉仙省の建物って、確かに他の省庁に比べて年季が入ってるような気がするなぁとは思ってたけども。


 まさか、あの大火を耐え忍んでいたのだとは、思ってもいなかった。


「それと、私がここの陣の存在に気付かなかったのは、泉仙省全体で他にも様々な陣が起動しているのと、厄介な呪具がいくつも保管されているからだ」


『一際呪力の流れが複雑であるからであって、私の力量不足ではない』という不服を訴えたいのだろう。若干不満そうに目をすがめた氷柳がひたと貴陽を見据える。その視線を感じ取ったのか、貴陽は『はいはい』と答えるかのように軽く肩をすくめた。


「で? お前は本当にこれを私と貴陽の二人きりで解析しろと言うのか?」


 貴陽のその反応で、氷柳の溜飲は下がったのだろう。あるいはそこを論議している場合ではないと思い至ったのか、氷柳は腕を組むと改めて慈雲に視線を据える。対する慈雲も対抗するかのように腕を組むと煽るように片眉を跳ね上げた。


「んだよ、できねぇっつうのか? 天下のてい涼麗サマが?」

「頼む立場で偉そうにするな。どう考えても規模が大きすぎるだろう」


 確かに、と黄季も思わず頷いた。


 あの碁盤と実際の都の気の流れのズレを読み解く、というだけでも難しそうだったのに、いざ蓋を開けてみれば解析すべきはこんなに大きくて複雑な陣であるという。『こんなの話が違う』と匙を投げても本来ならば許されるはずだ。


 だが状況と立場が氷柳にそれを許さないということも、ここまでの流れから黄季は理解できている。


「……この陣とお前は、呪力的に繋がりがあるのか?」


 口では文句を言いながらも、それは氷柳も同じだったのだろう。


 深く溜め息をついた氷柳は、カツ、コツ、と足音を響かせながら部屋の中へ踏み出した。壁際に沿って陣を迂回しながら歩みを進める氷柳は、視線を陣の中心へ向けている。しんと凪いだ瞳は真剣味を帯びていて、氷柳がすでに陣の構造を読み解こうと呪力の流れを注意深く観察していることが分かった。


「繋がってはいない。歴代の長官は、あくまでこの空間を守ってきただけだ。通路を開く鍵として霊力の認識はさせているが、陣は完全に自立していて俺とは一切繋がっていない」


 氷柳の問いに答えた慈雲は、次いで貴陽に視線を投げた。『お前から何か質問は?』という無言の問いかけに、貴陽は緩く頭を傾げてから小さく首を横へ振る。特に説明は不要、ということだろう。


「とにかく、この陣が碁盤に表示している結果と、実際の地脈の傾き、そこにズレがないかどうかが分かればいいんだな?」


 壁際に沿って反対側まで回った氷柳は、足を止めないままさらに慈雲へ問いを投げた。


 陣を挟んで部屋の反対側からチラリと慈雲を見つめた氷柳は、さらに続けて貴陽へ視線を投げ、もう一度確かめるように慈雲を見やる。それが『本当にこの解析に貴陽を噛ませていいんだな?』という最終確認であることを覚った黄季も、氷柳の視線の先を追うように慈雲を見つめた。


「ああ」


 二対の視線を受けた慈雲は、コクリと一際重々しく顎を引く。


「解析の手法はお前らに任せる。俺はそういう繊細なのは苦手だからな。結果さえ分かればそれでいい」


 慈雲の仕草に目をすがめ、言葉に耳を澄ました氷柳は、慈雲の覚悟を引き受けるかのようにコクリと顎を引いた。その言外のやり取りがはらむ重さに、黄季は思わずコクリと空唾を飲み込む。


「と、いうわけだ、貴陽。細かいところは任せる」


 部屋を一周して慈雲と貴陽の傍らに戻った氷柳は、常と変わらない淡々とした口調で告げると貴陽に片手を差し出した。そんな氷柳に向き直った貴陽は、手のひらを下にして差し出された氷柳の手を己の左手で掬い上げながら『呆れた』と言わんばかりに息をつく。


「んもぅ、結局慈雲も涼麗さんも僕任せなの?」

生憎あいにく、俺は前翼退魔師なんでな。後翼が受け持つ分野は、どっかの誰かさんに一切合切かっさらわれたせいで不得手なんだわ」

「私は元々、慈雲から『力と感覚を貸してやってくれ』と言われただけだ。つまり最初から主導はお前ということだろう?」

「ちょっとぉ? 僕、もう泉仙省の人間じゃないんですけどぉ? こき使うの、どうなんですかぁ?」

「泉仙省の人間ではなくなっても、お前は今だって慈雲の相方だろう?」


 ぷくぅ、と頬を膨らませた貴陽に、氷柳はさも当然とばかりに告げる。


 その瞬間、ピクリと微かに貴陽の手が震えたのを、黄季は確かに見た。


「その一点だけは、何があってもたがわないと、私は信じている」


 黄季から見えるのは、普段以上に静かな表情で貴陽を見つめる氷柳だけだ。氷柳と向き合うように立っている貴陽は黄季に背中を向けていて、その表情は黄季には一切見えていない。


 だが氷柳の言葉を受けた瞬間、黄季にはなぜか貴陽が今にも泣き出しそうな顔で笑ったのが分かったような気がした。


「何それ」


 先程までと一切変わらない声で、貴陽はおどけるように氷柳に答えた。


 ただキュッと、すがるように、氷柳の手を取った手に力が込められる。


「他の点でも、信じてよね」


 貴陽が口にした軽口は、それで最後だった。


 一度氷柳の手を捧げ持つように繋がった手を引き寄せた貴陽は、杖を己の右肩に預けるように立て掛けると、空けた右手を陣へ差し伸べる。手のひらを下にして伸ばされた手から、淡い紫色の燐光が散った。


「『ゆるりゆるりとく糸の 端と端とを捧げ持ち 機織はたおる乙女の仕立布 フルリフルリと紐解けば』」


 同時に貴陽の唇からは耳慣れない音律の呪歌が紡がれる。


 その音色と貴陽の霊力が陣に触れた瞬間、貴陽の足元から染め替えられるように陣を構築する燐光が色を変えた。


「っ!?」


 目の前で展開されている光景に、黄季は壁際に控えたまま息を呑んだ。


 蛍の光を思わせる淡黄緑色だった光は、貴陽の足元から伝播するかのように次第に全体を淡紫色に変じていく。その色が普段よりも白っぽく見えるのは、貴陽が行使する力の中に氷柳の霊力が混じっているせいなのだろうか。


 ──これが、解析術?


「『ほどけた糸の繭玉を へ巻き戻し機織はたおりて 清き絹布けんぷを織り給う けがれそそぎし白妙しろたえの まこともって献ずべし』」


 朗々と紡がれる貴陽の呪歌によって、場に張り詰める緊張が高まっていくのが分かる。慈雲は本当に傍観に徹するつもりなのか、いつの間にか黄季の傍らまで下がってきていた。退魔術を行使する時とはまた違う緊張に、黄季は息を詰めたまま貴陽と氷柳を見守る。


 ──でも、何なんだろう、この感じ。


 同時に黄季は、そっと眉をひそめた。


 ──俺、完全に門外漢なはずなのに。解析術が行使されているところを見るの、初めてのはずなのに。


 貴陽の歌い出しを聞いた瞬間から、背筋がザワザワと嫌な感じにザワついていた。


 貴陽から視線を感じた時に覚えた明確な寒気ではなく、ただ単に落ち着かない、という曖昧な感覚。それがサワサワと次第に無視できない強さになって黄季の心を揺さぶってくる。


 ──どうしてだろう、俺。


 この呪歌を、もう聞いていたくない。


 そんなことを思った、その瞬間だった。


「っ!!」


 不意に、氷柳と貴陽の間で白銀の光が弾けた。何事かと思わず身構えた瞬間、貴陽と間合いを取るよるに氷柳が後ろへ飛び退すさる。同時に貴陽が展開していた解析術が途絶え、陣を染め替えようとしていた淡紫の燐光がスッと端から消えていった。


「氷柳さんっ!?」


 何事かと黄季は反射的に前へ飛び出そうとする。


 そんな黄季を、傍らに立った慈雲が腕の動きだけで制した。


 ──長官!?


「……貴陽」


 同時に、氷柳が低く声を上げた。重心を落として手の中に飛刀を滑り込ませた氷柳は、明確な敵意を貴陽に向けている。


「なぜ、お前の呪力に、永膳の呪力が混じっているんだ?」


 その言葉に黄季はハッと貴陽を見やった。


 解析術が完成手前で破棄されたことにも、氷柳の突然の行動にも、貴陽は特に驚きを見せてはいなかった。不自然すぎるほどに静かな顔を、貴陽は氷柳に向けている。


 その手元から、フワリと。


 淡紫に混じって、禍々しい赤い燐光が微かにこぼれているのが、黄季にも分かった。


「答えろ、貴陽」


 赤。貴陽の燐光色とは、違う色。


 黄季が知っている中で、その色を操っていた人物はただ一人だけ。


 ──郭永膳の、霊力の色。


 通常、退魔師が身に秘めた霊力には、個々人特有の色が載る。その色は生涯、変わることもなければ、変えることもできない。二色の色が混じり合うなどという現象も、聞いたことがない。


 あるとするならば、それは。


「お前、永膳とどんな取引をしたんだ」


 相手の傀儡かいらいとして、生身が操られている時。


 あるいは、宣誓呪詛式などによって、相手に呪力的に縛られている時。


 何らかの形で他者から呪力的な制約を課されている時、元の燐光色の中に相手の色が混ざる時が、あるという。


「……あーあ、涼麗さんったら。本当に空気読まないんだから」


 貴陽が泉仙省側を裏切って永膳と繋がっているかもしれないという疑惑は、伝えられていた。氷柳も慈雲もその疑惑を抱いていることを知っていた。決定的な証拠がなかっただけで、ほぼ黒だったと言ってもいい。


 だからこれは、いわば予定調和の流れであったはずだ。場にいる全員が、遅かれ早かれこうなることを、どこかで理解していた。


 それでも、その決定的な証拠を突きつけられてしまえば、黄季はこう叫ぶしかない。


「煌先生、どうして……っ!」


 ありきたりな黄季の叫びに、貴陽は小さく笑ったようだった。


「どうしてって、そりゃあ黄季君」


『笑った』と断言できなかったのは、次の瞬間、貴陽が右手で握り直した杖を振り抜いて業火を召喚したからだ。


「決まってるじゃない。泉仙省に勝ち目がないからだよ」


 考えるよりも早く、体は前へ飛び出している。


 氷柳の前に滑り込んだ黄季は、呪剣を抜くと足元に線を刻むように切っ先を振りかぶった。刻み込まれた線から立ち上がった光の壁が、押し寄せようとしていた業火の波を跳ね返す。


「僕ね、どんな手を使ってでも、慈雲だけは守り抜くって、もう決めてるんだ。だからね、黄季君、涼麗さん」


 黄季が結界を展開した背後で、氷柳は間髪をれずに飛刀をなげうっていた。だが結界展開と業火を目眩めくらましにした奇襲を、貴陽は杖の一振りで難なく打ち払う。


「君達は慈雲を守るために、ここで死んでくれる?」


 さらに流れるように振り抜かれた貴陽の左腕が、黄季達へかざされる。


 その瞬間炸裂した衝撃に、黄季の視界が暗転した。



────────────────

※12/28、角川ビーンズ文庫様より

 第1部書籍版

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