※※※※

 叩き付けられる衝撃に、意識が揺れる。


黄季おうきっ!!」


 それでも何とか意識を繋ぎ止められたのは、鋭い声が黄季の耳を叩いたからだった。


「っ……!」


 フラリと上体がかしぐ。それを一歩後ろへ足を引くことで立て直した黄季は、砕けてしまった結界の代わりに新しい結界を召喚した。間一髪で間に合った結界は、続けて叩き付けられた業火を辛くも跳ね返す。


「ふぅん? やるようになったじゃん、黄季君」


 その様を見た黄季は、続けて内側にもう一重守りの結界を展開した。内側の結界が組み上がった瞬間、外側の結界は業火に押し負けて砕け散る。


 ──っ! 明らかに俺の結界が力負けしてる。このままじゃしのぎきれない……っ!!


 業火と乱れ舞う燐光で視界がさえぎられていても、紡がれる言葉を聞いていれば貴陽きようが春風の中にいるかのように穏やかに微笑んでいることが分かる。これだけの業火を使役していても、貴陽にはまだまだ余裕があるのだ。


「落ち着け」


 突きつけられる力量差と目の前に迫る命の危機に、黄季の心臓がヒヤリと冷える。


 だがその焦りは、すぐ後ろから響くささやき声を聞いた瞬間に霧散した。


「初手の圧と見目の派手さで実際よりも実力があるように相手に錯覚させる小技は、貴陽の得意とするものだ。初手を耐えきればお前でも十分に凌ぎきれる」


 黄季の背に隠れるように構えた氷柳ひりゅうが、乱れ舞う業火を透かして貴陽に視線を注いでいるのが気配で分かる。反撃のすきはかりながら言葉を紡ぐ氷柳に、黄季は前を見据えたまま浅くあごを引くことで応えた。


こう先生……穏便に話し合う道は、ないんですか?」


 今や地下室の中は呪力の乱流が吹き荒れている。自身が展開する結界を巡る力と、気の乱流の動きを把握した感覚を手放さないように注意しながら、黄季は低く問いかけた。


 ──空間が限られた地下室。火は空気を消費する。……状況と場所が悪すぎる。煌先生からの攻撃を凌ぎきれたとしても、他の要因が死に繋がりかねない。


 そこそこ広さがあるとはいえ、退魔師が暴れるには空間が足りない。ましてやここは泉仙省せんせんしょうの地下だ。派手に暴れれば崩落を招いて自分達が生き埋めになるばかりか、地上で何も知らずに業務に励んでいる仲間を巻き込むことになりかねない。


 さらに言えば、この場所では地盤の核である術式が展開されているのだ。このままここで互いに退魔術をもってやり合えば、地盤にも少なからず影響が出るだろう。


 ──対かく永膳えいぜん戦において、地盤は相手の策を見抜くために必要不可欠な道具であるはず。ここで下手を打って破壊されるわけには……!


「……多少技量が上がっても、それじゃあダメダメだよ、


 不意に、貴陽の声の調子が変わった。聞き覚えのある響きに、黄季は反射的にグッと奥歯を噛みしめる。


「考えてることが顔からダダ漏れだ。それじゃ相手の意表を衝けない」


 翼位よくい簒奪さんだつを叩き付けられ、泉仙省から孤立していたあの日々の中で、この声を聞いていた。


 厳しくて、理不尽で、無茶苦茶だったけれど。黄季を徹底的に鍛え上げて、あの場に立つに耐えうるまでに導いてくれた人の声だ。


 その声が、今は黄季達の対角から響く。


「来なよ。どれくらい成長したのか、久々に見てあげるから」


 ヒュオッと鋭い音とともに振り抜かれた杖の軌跡に沿って業火が割れる。淡紫と紅が混じる燐光が散る向こう側で、貴陽は師としての言葉を紡ぎながらも、どこまでも毒花の笑みを浮かべていた。


「……氷柳さん」

「貴陽がああ言う以上、逃げが許される状況ではない」


 視線をらせば、それが致命的な隙になる。


 それが分かっている黄季は、貴陽から視線を逸らせない。代わりにそっと囁くと、黄季の背後から黄季と同じように貴陽を見据えていた氷柳が固い声で囁き返してくる。


「……どこまでが予定通りなのかは知らないが」


 その氷柳が、一瞬だけ視線を貴陽から逸らしたのが気配で分かった。


 恐らく向けた先にいたのは、いつの間にか展開されていた結界と業火で分断された慈雲じうんだろう。『邪魔しないでよね』とばかりに展開された貴陽の結界で隔離されている慈雲だが、黄季が気配を読み間違えていなければ、慈雲はそれらがなくてもいまだに傍観の姿勢を崩していないはずだ。


 ──つまり長官の中で、この流れは予想の範囲内だったってことか?


「向こうは二人とも、この流れを読んでいたはずだ。ならば乗るしかない」


 黄季の内心が聞こえているかのように氷柳が囁く。その声にも黄季は浅く顎を引いて応えた。


「地盤の術式は」

「もはや守る意味がない」


 先程の解析術で、地盤は永膳の呪力が混じった貴陽の呪力を受けている。貴陽が解析術を介して地盤の術式に介入している可能性もある以上、今この瞬間、何よりも地盤の術式の保護を優先する意味はないという意味だろう。


「貴陽を押さえる。それがこの場で私達の身を守る一番の方法だ」

「分かりました」

「手加減が通じる相手ではない。本気で行くぞ」


 氷柳のその言葉に、黄季は呪剣を足元に突き立て、両手を打ち鳴らすことで応えた。


 パンッと力強く響いた音は、壁で反射されると再び黄季の下に集う。その音を吸い込むかのように、呪剣にポウッと琥珀の燐光が宿った。


「『つどえ 名もなき主がお前に告げる』!」


 無秩序に混ざり合って嵐を起こしていた力が、黄季の号令を受けて黄季の統制下に組み込まれる。その感覚を逃さないように意識を張り詰めながら、黄季は腹の底から声を張った。


「『お前の衣は我がとばり 包み隠せ くうしゃてん』っ!!」


 呪歌が成った瞬間、背後で空気が動く。だが黄季の視界に飛び出していった氷柳の姿は映っていない。


「『我が身をかくまえ』」


 さらに黄季は畳み掛けるようにもうひとつ目眩めくらましの呪歌を重ねた。


「『水煙すいえん』っ!!」


 ──普段の煌先生は、呪力の流れを読んで物の位置を把握しているって……!


 二重の呪歌と立ち込める水煙、さらに乱れ舞う気の乱流と燃え盛る業火によって、氷柳の存在は視覚的にも呪力的にも探知できないようになっている。


 貴陽の最たる技量は結界術だ。その硬さは氷柳の攻撃呪さえ難なく凌ぎきるという。


 間合いを開けた退魔術の応酬ではこちらに分がない。一番手っ取り早いのは、貴陽が苦手としている近接物理戦闘に持ち込むという方法だ。


「甘いな」


 だが立ち込めた水煙の向こうで、黄季と氷柳の考えを嘲笑あざわらうかのように貴陽が笑みを浮かべたのが分かった。


 同時に、杖が鋭く振り抜かれる。


 何もない空間を薙いだはずである杖は、バシリと鋭い打擲ちょうちゃくの音を上げた。次いで低い舌打ちを聞いた黄季は、貴陽が難なく氷柳の奇襲を打ち払ったのだと知る。


「あのね。甘いんだよ、二人とも」


 さらに貴陽は手元の動きだけでクルリと円を描くかのように杖を回転させた。水煙をかき消していく杖は何もない空間を薙いでいるはずなのに、なぜかキンキンキンッという鋭い金属音が上げる。同時に貴陽の足元にはどこからともなく現れた飛刀がポロポロと落ちていった。


「僕は普段確かに呪力の流れを読んで視覚の代わりにしているけど、それだけで全てを把握しているわけじゃないんだよ? 黄季だって、視覚が塞がれていても戦うことくらいできるでしょう?」


 ──そうか、音で……!


 視界から姿をかき消そうとも、呪力探知を防ごうとも、氷柳の存在そのものが消えたわけではない。氷柳が動き、飛刀が飛べば周囲の空気は動くし、少なからず音もする。


 視力を失っていた貴陽の耳は、常人よりも鋭敏だったはずだ。その音で貴陽は氷柳を迎撃している。


 ──でも、煌先生に氷柳さんの物理攻撃を防げるほどの武術の腕前はないはずじゃ……!?


「奥の手は何でも隠しておくものさ。それに」


 常と変わらない穏やかさで言葉を紡ぎながら、貴陽は体の前に杖を立てる。そこに氷柳が突っ込んだのか、貴陽の手元から鈍い打撃音が響いた。氷柳の動きを完全に読んでみせた貴陽は、杖を動かさないまま下半身の動きだけ自分の前の空間をスイッと払う。


「身内にはことほか甘いからね、涼麗りょうれいさんは。これだけ動きが鈍れば、僕でも簡単に凌げる」


 たったそれだけの動きで、貴陽の足元からはダンッという重い音が響いた。動揺したせいで黄季の集中が切れたのか、目眩ましの術が解けて床に叩き付けられた氷柳の姿がジワリとにじむように現れる。


 その展開さえ読めていたかのように、貴陽は間髪をれずに杖を振り上げた。


「氷柳さんっ!!」


 それを見た瞬間、黄季は考えるよりも早く呪剣を手に前へ踏み込む。


「で、黄季はそんな涼麗さんに甘い」


 杖は振り下ろされなかった。


 代わりに黄季の視界を先程よりも鮮やかな業火が埋める。


 ──え、


 氷柳に向かって杖を振り上げたのは、黄季を誘い込むための罠。実際の貴陽は黄季の踏み込みと同時に炎術を発動させ、大きく後ろへ飛び退すさっている。


 ──っ! 防御が間に合わな……っ!!


 足を止めようにも勢いが殺しきれない。このままでは自ら炎の中に飛び込んでしまう。結界で凌ごうにも、展開速度よりも黄季の体が炎に突っ込む方が早い。


「黄季っ!!」


 迷いが一瞬思考に隙を生む。


 その瞬間、グイッと後ろ襟にかかった力で黄季の体は引き留められた。黄季の袍の後ろ襟を掴んだ手は、なりふり構わず乱暴に黄季を後ろへ投げ捨てる。


 黄季の体は考えるよりも早く素直にその力の流れに従っていた。自ら重心を後ろへ倒し、さらに背中を丸めて後ろへ回転。足から着地し、低く身構える。


 そのまま視線を上げると、今度は黄季を背に庇うようにして氷柳が前に立っていた。その背中がいつになく緊張を帯びている。同じ緊張が自分の体を強張らせていることを、黄季は自覚していた。


 ──退魔術や武術の手癖。考え方、対処の仕方。……煌先生には、完全にこっちの動きが読めている。それに……


「あのね、二人とも。僕が対処できることは、永膳さんにだって対処可能なんだよ? そんなことでどうやって永膳さんとやり合うつもり?」


 貴陽がこちらを『降すべき敵』と認識しているのに対し、黄季と氷柳はいまだにそこまで内心を割り切れてはいない。その迷いが動きの差に現れてしまっている。


『本気で行く』と言っておきながら実行できていない自分達の姿に、黄季はグッと歯を食いしばった。


 そんな黄季達の前で、貴陽は呆れたように息をつく。手の中で杖をもてあそぶ貴陽は、まるで黄季と氷柳に稽古をつけているかのような雰囲気まであった。『敵』として、まず歯牙にもかけられていない。


「それがたとえ誰であったとしても、自分達の前に敵として立ちふさがった以上は、情けも容赦も捨てなきゃ。二人ともさ、もっと色々できるはずでしょ?」


 対等の立場に立つことさえ許されていない。


 その圧倒的な実力差に歯噛みした瞬間、黄季はふと貴陽の物言いに違和感を覚えた。


 ──煽ってるように聞こえるけど。でも。


「特に。お前、中途半端なままじゃ、何もできないまま、また死ぬよ?」


 歯がゆさも違和感も噛み締めたまま、黄季は真っ直ぐに貴陽を見据える。


 そんな黄季の視線を真っ向から斬り捨てるかのように、貴陽はスッと杖を剣のように構えた。その切っ先は正面から相対した氷柳ではなく、その後ろに庇われた黄季へ向けられている。


「亡き家族の遺志を振り切って武具を手に取る覚悟を決めたならば、『最善』を求めなければならない。今のお前じゃ永膳さんに剣の切っ先は届かない。そのことをお前は身をもって学んだんじゃないの?」


 その杖先に剣の切っ先を向けられた時以上の圧を感じるのは、杖先以上に鋭い視線が黄季に据えられているからだ。


 ただの知り合いでも、医官でも、先輩後翼退魔師でもなく。


 黄季の第二の師として、貴陽が黄季に言葉を向けているからだ。


涼麗さんの片翼その場所に立ち続けるために、お前が取るべきモノは何?」


 その言葉に貴陽の真意を察した黄季は、思わず状況を忘れて目をみはった。


 ──助言、だ。これ。


 恐らく、師としての貴陽から与えられる、最期の言葉。


『師父』として。『この人の相方でいたい』と願って、血反吐を吐いてでももがき続けた先達として。


 貴陽はこの土壇場で、黄季に大切なことを伝えようとしている。


 同時にその言葉は、氷柳に対しても重要な助言であったはずだ。


 ──氷柳さんはお人好しだってことを、きっと煌先生は俺よりもよく知っているはずだから。


 氷柳にとって、周囲を行き交う人間は背景の一部にすぎない。そんな氷柳だからこそ、ひとたび背景から浮き出た人間には執着を示す。


 たとえ相手が今は敵だと頭では理解できていても、感情の部分が割り切れない。『その甘さが周囲を死地に巻き込むのだ』と、きっと貴陽は我が身を以て証明してみせたのだろう。


 ──それが郭永膳との取引に巻き込まれてしまった煌先生が、最期にできたことだったから。


「思考を止めるな。常に考え続けろ。に執着するならば、他は些事だ。一般的な最適解じゃなくて、その場所に対する最適解を導き出せ」

「……お前にとっての『最適解』が、この結末なのか?」


 無意識にそこまで考えた瞬間、黄季の背筋にゾッと悪寒が走った。


 ──俺……『最期』って……


「お前にとって何よりも執着する場所は『慈雲の隣』なんじゃないのか」


 同じ悪寒を、きっと氷柳も感じているのだろう。袖に隠された氷柳の手がギッと強く拳を握る。余計な力が込められた腕が小さく震えているのが、背に庇われた黄季には分かった。


「今のお前の行動は、自らその場所を投げ捨てることにならないのか? お前がこんなことをして、慈雲が許すとでも?」

「許さないよね、慈雲は」


 嫌な予感が止まらない。


 だというのに貴陽は、いつもと変わらない顔で笑っていた。


「でも、いいんだ。慈雲が僕を許さなくたって」


 いつもと同じ笑み。いつもと同じ語調。


 まるで日だまりに満たされた簡易休憩室で雑談に興じているかのような風情で言葉を紡いだ貴陽は、スッと左手を眼前に差し伸べた。


 その手の上に、不意に淡紫の燐光が乱舞する。


「っ! 貴陽、お前……っ!!」


 その瞬間、この場に踏み込んでからずっと傍観に徹していた慈雲が初めて声を荒げた。思わず黄季が振り返ると同時に慈雲も前へ踏み出すが、杖から手を離した貴陽がパチンッと指を鳴らす方が早い。その音によって慈雲を隔てる結界がさらに上書きされる。


「……っ!!」


 瞬時に強化された結界に、慈雲は間髪を容れずに召喚した偃月刀を叩きつけた。だがいつだって慈雲の攻撃を素直に透過してきた結界が、今だけは慈雲の攻撃を頑なに弾く。


「涼麗、黄季っ! 貴陽を止めろっ!!」


 攻撃が通らないことを覚った慈雲は結界に拳を叩きつけながら声を荒げた。その鬼気迫る表情に黄季は思わず息を詰める。そんな黄季の様子に気付いているのかいないのか、慈雲の表情が見たことがないほど苦しげに歪んだ。


「そいつが展開しようとしてる術式は……っ!!」

「僕はあの日からずっと、慈雲を許していないから」


 慈雲の絶叫が、貴陽の囁やきにかき消される。


 その瞬間、ヒヤリと氷塊のような寒気が黄季の背筋を滑り落ちた。


「『汝、全てを燃やし尽くすモノ 汝、生者を許さぬモノ 汝、紅蓮の華を咲かすモノ』」


 考えるよりも先に、体が動いていた。


 氷柳の腕を引いて自分の後ろへ無理やり下がらせた黄季は、呪剣を自分の前へ突き立て、さらに懐から数珠を抜く。両手に数珠を絡めて持ち、突き立てた呪剣を起点にありったけの力を集中させるが、その間にも急激な勢いで周囲の呪力が貴陽に吸い取られていくのが分かった。


 ──この感覚……!!


 その間に貴陽からこぼれ落ちる淡紫の燐光は紅蓮の業火に化けていた。業火の中を耐え忍び、かろうじて陣を持続させていた燐光が片っ端から貴陽の呪歌に喰われて姿を崩していく。貴陽が合わせ持つ呪力と場に満ちた霊気以上の力を喰い散らすモノが、この場に描かれていくのが分かる。


 ──上官が壊器かいきした時と同じ……!!


「『汝は紅蓮の万軍 その行く先に敵は亡く その行く後に影も無し』」


 無秩序に荒れ狂っていた炎までもが、いつの間にか貴陽の呪歌に吸い込まれていくかのように流れを変えていた。その中にパキンッ、パキンッ、と響く、聞くだけで本能が凍りつくような音はきっと、貴陽が削ってはいけないを削って術を行使している証だ。


「貴陽! テメェッ、やめ……っ!!」

「慈雲の首か、地盤の陣かって言われたらさ。実質一択みたいなものだよね」


 全ての力が喰らい尽くされていく中でも、貴陽が慈雲を守るために紡いだ結界だけが微塵も揺らがない。


 その向こうから慈雲の怒号が響いた瞬間、一瞬だけ貴陽の笑みが泣き笑いのように歪んだような気がした。


 だが黄季にもはやそれを気にしていられる余裕はどこにもない。


「手土産持参で合流しろって、呼びつけられちゃったんだよね。……だから、ここでサヨナラだ」


 貴陽が展開する術式が全てを……貴陽の命さえ食い散らしていく中、必死に術式から呪力をかすめ取って結界を紡ぐ。一瞬でも崩れれば、貴陽の呪歌が成るよりも前、呪歌の余波だけで即死はまぬがれない。


 ──耐えろ……!


「『咲き誇れ その美しき花弁を以て楽土安寧を導かん 白蓮華』っ!!」


 絶叫にも似た祈りは、黄季の胸の内だけに響いた。代わりに口からは守りの呪歌がほとばしっている。


 対する貴陽は、どこまでも静かに呪歌を歌いきった。


「『喰らい尽くせ 紅蓮ぐれん焦炎しょうえん火界かかいけっかいじゅ』」


 穏やかとさえ言えるその言葉が、音となって世界に落とされた瞬間。


 黄季の視界は、紅蓮の炎で埋め尽くされていた。


「……っ!!」


 地盤展開に使われていた呪力と場に流れていた地脈、そこに貴陽の霊力と命までもが加えられた炎術は、その場にある何もかもを飲み込み、噛み砕き、炎に変えていく。ヒトが行使できる技量を越えた圧倒的な暴力が、意思も何もなく『ただそこに存在している』というだけで黄季に襲いかかる。


 ──……っ、凌ぎきれない……っ!!


 己が展開する結界が、ジワジワと焼き切られていくのが分かる。その感覚に背筋を伝う冷や汗が止まらない。


 ──このままじゃ……!!


 明らかに、凌ぎきれない。炎が勢いを失うよりも、黄季達が炎に呑まれる方が早い。


 その明確な死の圧力に、絶望がジワリと心に染みる。


 それでも黄季の心が折れなかったのは、下がりそうになる背中を受け止めてくれた腕の熱と、前へかざされた己の腕に添わせるように翻った白衣のたもとがあったからだった。


「しばらくたせろ。できるな?」


 こんな時でも涼やかに響く声が的確に指示を出す。同時に注ぎ込まれた白銀の霊力により、削られ続けていた結界が瞬時に力を取り戻した。


「慈雲っ!!」

「っ……!」

「ボサッとするなっ! お前は心中を許される身分じゃないだろうっ!!」


 氷柳が注ぎ込んだ呪力を術式に巡らせるように意識を集中させ、結界を安定させる。黄季が全霊を込めて結界を再構築している間に、氷柳は振り向きざまに飛刀をなげうっていた。


 氷柳の霊力が込められた飛刀が業火を斬り裂き、紅蓮の炎の中に一筋の退路を切り開く。黄季がそれに気付いた時には、氷柳が黄季を肩に担ぎ上げ、一直線に退路を突き進んでいた。氷柳の呼び声に一瞬躊躇ためらった慈雲が、迷いを振り切るように氷柳に従ったのが響く足音で分かる。


 ──っ、最後まで、きちんと集中しないと……!


 撤退は氷柳に任せ、黄季は呪剣を起点として展開された結界の維持に集中する。


 そんな黄季の視線の先で。


 業火が燃え盛るその奥で、一瞬、貴陽が纏う萌黄のうちぎの隣に、紅蓮の炎よりも禍々しい白衣びゃくえが翻る幻影が見えたような気がした。




  ※  ※  ※




 地下であれだけの業火が荒れ狂ったというのに、幸いなことに泉仙省の地上部にはほぼ被害が出なかった。ただ、長官室に置かれていた碁盤が消え、置かれていた場所に黒く焦げた跡だけが残された。


 鎮火が確認されてから地下室の確認がされたが、現場からは貴陽の死体も、地盤の術式の痕跡も、一切何も出なかった。


 その報告を、黄季は氷柳とともに、他ならぬ慈雲から聞くことになる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

比翼は連理を望まない 安崎依代@『比翼は連理を望まない』発売! @Iyo_Anzaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ