思えば最近、様々なことが一気に起こりすぎた。


 まず泉仙省せんせんしょうの呪具保管庫の結界が破れ、煉帝剣れんていけんが姿を消した。それから氷柳ひりゅうが妖怪に操られた退魔師によって刺され、黄季おうき浄祐じょうゆうから氷柳の相方の座をかけて翼位よくい簒奪さんだつを叩き付けられた。何だかんだで簒奪を退けたら浄祐が壊器かいきしてしまい、その浄祐を退魔したら今度は氷柳の屋敷が何者かによって破壊されてしまい、さらには忌地いみちであった土地が根こそぎ浄化されていた。おまけに氷柳はその犯人を八年前に国を救うために死んだはずである伝説の退魔師・かく永膳えいぜんであると断言している。


 ──正直、お腹一杯なんですけど……


 黄季は処理しきれない展開に頭を抱えながらチラリと氷柳を見遣った。


 今この屋敷跡地には、泉仙省から氷柳と黄季を追いかけてきてくれた慈雲じうん貴陽きようが合流している。氷柳と付き合いが長い二人はこの土地の因縁も、地脈の流れや張り巡らされていた結界の詳細についても承知していたらしく、今は三人がそれぞれの方法でこの場所に何が起きたのかを調査しているところだった。役に立てない黄季は簒奪と浄祐の退魔で暴れ回っていたこともあり、待機がてら休憩しているようにと言い渡されて放置されている。


 ──まぁ、確かに今は役には立てないし、体力が回復していれば別の場面で役に立てるかもしれないけども。


 付き合いの長さは、黄季の努力でどうこうできるものではない。この土地に特筆すべき因縁があったことは先程知らされたばかりだし、張り巡らされていた結界に関しては黄季には到底理解できない領域の内容だった。


 己の才と努力だけではどうにもならない領域があるということを、『武術』という一点においてのみ突き抜けた才を持っている黄季は体感として知っている。


 今、泉仙省屈指の実力者達が調査していることは、明らかに黄季で役に立てる範囲の事柄ではない。『ここは劣等感に苛まれるよりも前向きに体力回復に励もう』という意識の切り替えはしっかりできているつもりだ。


 ──それにしても……


 適当な瓦礫に腰掛け、紫鸞しらんを腕に抱え込んだ体勢で黄季はぼんやりと空を眺める。少し日が傾いた空は、それでもスコンと底が抜けたかのように澄み渡っていた。簒奪に決着がついて気が抜けたからそう見えるのか、この土地がただの土地に還ったから以前よりも空が澄んで見えるようになったのかどっちなのだろうかという考えが、黄季の意識の片隅を転がっていく。


 ──郭永膳が生きていたとしても、何でいきなりこのお屋敷に現れて、土地を浄化して、氷柳さんに挨拶もなしで再び行方をくらませることになるんだ?


 漏れ聞こえてくる話だと、郭永膳は氷柳の相方にして主人、さらに兄弟子でもあったという話だ。この屋敷に二人で住んでいたという話も、何かの折に聞いたような気がする。


 郭永膳を直接知る人間から漏れ聞こえてくる話には、どれも根底に氷柳への深い執着が伺えた。氷柳にしたって八年間も独りでこの屋敷に引き籠もることになった原因は郭永膳を亡くしたことにある。二人の関係について当時の状況も詳しい内容も知らない黄季だが、漠然とその関係性は『共依存』と呼ぶに相応しいものなのではないかと感じていた。


 そんなことを考えるたびに、黄季の胸にはモヤリとしたものが広がる。


「……」


 氷柳が屋敷の外に出るようになってから時折感じる、モヤリとした名状しがたいモノ。


 その感情の正体を、黄季はいまだに見つけられずにいる。


「黄季」


 その靄を握り潰したくて、黄季は無意識のうちに袍の胸元を握りしめる。


 その瞬間、まるで計ったかのように涼やかな声が黄季を呼んだ。ハッと顔を上げれば、氷柳が常と変わらない優雅な歩みで黄季の元へ近寄ってくる。


「氷柳さん!」

「待たせたな。一通り、今調べたいことは何となく調べがついた」


 黄季が立ち上がって残りの距離を詰めると、氷柳はゆったりと歩みを止めた。その後ろには慈雲と貴陽の姿もある。


 その三人ともの表情がいまだに硬いままだと気付いた黄季は、一度コクリと空唾を飲み込んでから口を開いた。


「何か、分かりましたか?」

「それほど何かが分かったわけではない。ただ……」


 言葉を途中で躊躇わせた氷柳は後ろにいた慈雲へ視線を流す。氷柳からの視線に小さく頷いた慈雲は、表情と同じく硬い声で氷柳から言葉を引き継いだ。


「魏浄祐を使って呪具保管庫から煉帝剣を盗み出し、ここの土地を結界ごと浄化して、ついでに屋敷も破壊していったのは永膳で確定だろうっつーことは、まぁ分かったって言っていいんじゃねぇの?」


 なぁ、と慈雲はさらに隣にいる貴陽に話を振る。その言葉に貴陽も緩く頷いた。


「霊力の残滓は、残っていなかったけれども。逆にこれだけ綺麗に痕跡が消せる呪術師で、かつここに展開されていた悪趣味としか言いようがない複雑極まりない結界と陰の気を纏めて無に帰せる退魔師。……そんなの、古今東西に永膳さんくらいしかいないだろうからね」

「貴陽は現役時代、結界術に関しては永膳と伯仲、探索陣に関しては永膳を凌ぐと言われてた後翼こうよく退魔師だ。その貴陽がそう言うなら、間違いねぇと俺は思う」

「で、でも……」


 三人ともがそう言うならば、恐らくそれは真実だ。


 だが黄季は矛盾する現実に反論の声を上げずにはいられない。


「その……郭永膳は、八年前に……」

「大乱に終止符を打つために、王城を焼き払った炎のど真ん中で死んだ」


 あやふやになった語尾を引き受けたのは、意外なことに氷柳だった。ヒヤリとしたその声に改めて氷柳を見遣れば、氷柳はユラユラと揺れる瞳を伏せてどことも言えない場所を見据えている。袂の中に隠された手が両方とも強く握りしめられたのか、白衣びゃくえの袂が微かに揺れた。


「……そのはず、だった」


 ──……氷柳さん。


 思わず氷柳に向って伸びかけた手を、黄季はグッと力を込めて元の場所に押し戻す。何と言葉をかければいいのか分からないまま、黄季は視線をわずかに伏せた。


「まぁさ、あの人の考えることって、昔から全っ然分かんなかったし、僕としてはあの人が灰の中から帰ってきたところでぜ〜んぜん不思議ではないんだけどもさ」


 その硬い緊張を破ったのは、唐突に調子を変えた貴陽の声だった。


 全てを投げ出すかのような砕けた雰囲気で声を上げた貴陽は、さらにパンパンッと鋭く手を打ち鳴らす。発言以上に唐突なその仕草に他の三人が目をしばたたかせながら貴陽に注目すれば、貴陽はビシリと氷柳に指を突きつけた。


「それよりも涼麗りょうれいさん。訳が分からないお騒がせ野郎の意味分かんない行動理由よりも、とりあえずもっと切羽詰まった分かりやすい問題から考えてみたらどう?」

「は?」

「ちょ、貴陽、おま……この状況をそんな風に放り出していいのか?」

「はい、うるさーい。考えても仕方がないことは一旦保留! 僕達でここまでしか分からないなら、後はうん老師に御足労願ってご意見伺うくらいしかやれることないでしょー?」


 氷柳と慈雲の戸惑いを軽くいなした貴陽は、無表情のまま困惑する氷柳へ容赦なく現実を突きつけた。


「涼麗さん、今晩からどこに泊まるの? まさかこの瓦礫の中で寝るとはさすがに言わないよね?」


 その言葉にパチパチと涼やかな目元を瞬かせた涼麗は、しばらく経ってからようやく目を丸くした。


 どうやら郭永膳の影に意識の全てを持っていかれていて、そこまで考えが回っていなかったらしい。もっともそれは慈雲も同じだったようで、慈雲も似たような顔で目を丸くしていた。


 ──そうじゃん! 氷柳さん、自宅を木っ端微塵にされちゃってるんじゃん!


 元々氷柳はその神々しいまでの外見に似合わず、自宅があばら家同然でも全く気にならない野生児ではあるが、さすがに屋根も壁も瓦礫と化してしまったこの場所で暮らし続けるのは酷だろう。今までは強力な結界がある意味防犯の役に立っていたが、今はその結界もない。


 そんな場所にこんな美人を置いておくのはあらゆる意味で危険だ。いくら当人が都屈指の退魔師でそんじょそこらの人間では太刀打ちできない強者であっても、それが分からず勘違いする人間はどこにでもいるものなのだから。


 ──というか、心配すぎて俺の身が持たない!!


「慈雲の家は下町の狭小独り暮らし用だし、官舎に入るのもどうせ嫌なんでしょう?」


 衝撃に言葉を失う三人を他所に、貴陽の言葉はポンポンと続いていく。


「どうする? うちなら広いし部屋も余ってるけども」

「今でもお前、煌家本宅住まいなのか?」

「今でもも何も、煌一族本家の名義上の当主は僕なんだけど? 実務は貴姫ききに一任しちゃってるけどさ」


 さらに初耳の情報まで気軽に喋ってしまう貴陽に氷柳が眉間にシワを寄せる。その表情は氷柳にしては珍しいことに分かりやすく『嫌だ』という内心を表していた。


「お前の家は性に合わん。お前の家に世話になるくらいなら、ここで暮らした方がまだいい」

「えぇー? さすがの涼麗さんでもそれはやめた方がいいと思うよ? てかどこで寝るの? 瓦礫の上?」

「寝椅子は無事だった。あれだけでも無事なら私は十分……」

「あ、あの!」


 氷柳の意思が良からぬ方向に向いたことを察した黄季は、反射的に氷柳と貴陽の間に割って入っていた。二人の視線が自分に向いてからハッと我に返ったが、もう後には引けない。


「あ、その……。良かったら、うちに来ますか……?」


 黄季は、おずおずと挙手しながら上目遣いに氷柳を見遣った。まさか黄季がそんなことを言い出すとは思っていなかったのか、氷柳どころか貴陽と慈雲まで目を丸くする。


「えっと、俺の家、外れにあるんで王城からは遠いんですけど、元々大家族だったし、道場もやってたし、空間的にはかなり余裕があるというか……」


 一人で暮らしているから気兼ねもいらないし、周囲の建物もまばらで他家の生活音も気にならないし、案外この屋敷での暮らしに近い環境にあるのではないかと、黄季はモニョモニョと続ける。


「その、もちろん、氷柳さんがいいならば、ですけども……」


 出過ぎた提案だったかと、黄季は恐る恐る氷柳を見上げる。


 その瞬間黄季は、深い漆黒の瞳の中にキラリと鋭い光が走る様を見たような気がした。

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