※※

 楽土にいるであろう父さん、母さん、爺様、婆様、それに兄貴達へ。


 事件です。うちに氷柳ひりゅうさんがいます。


 ……重要なことなので、もう一度言ってみますね。


 鷭家うち氷柳さん我が目を疑う美人がいます……!!


「ど、どうぞ!」


 今朝いつも通りにくぐり、今晩もいつも通りにくぐる予定だった我が家の大門を大きく開き、黄季おうきは背後を振り返った。


「何もない家ですが、我が家だと思ってくつろいでくださいね!」


 そこにいた氷柳ひりゅうは無言で屋敷を見上げていた。物珍しい光景に見入っているというよりも、その様は完全に見慣れない場所に連れてこられて固まっている猫である。


 それでも氷柳は何とか首を元に戻すとギクシャクと軽く黄季に頭を下げた。


「オジャマシマス」

「ど、どうぞ……!」


 ──おん長官とこう先生に言われたこと、律儀に守ってる!


『黄季、お前、正気か? 知ってると思うが、こいつ、家事どころか自分のことさえろくにできねぇ人間だぞ? 退魔においては『救国』だの『尊師』だの呼ばれてる人間だが、私生活においてはクソデカくて愛想のカケラもねぇドラ猫みてぇなやつだぞ?』


『良かったらうちに来ませんか?』と口にした黄季に、慈雲じうんは思いっきり真顔でそう訊ねてきた。同期で氷柳の生態をよく知っているからこその発言だとは分かっているが、今思い返しても中々に酷い……いや、凄い発言だと黄季は思う。


『ドラ猫とは何だ、ドラ猫とは』

『少なくとも、家事能力は人より猫寄りだろうがよ。そもそもお前、黄季との同居に乗り気なの、どーせ『これで三食黄季の作る飯食べ放題!』とか呑気なこと考えたからだろうが』

『う』

『黄季君、今でも一人暮らし大変でしょう? 自ら進んでこんな苦労抱えなくてもいいんだよ? うちなら人手も有り余ってるし……』

貴陽きよう、お前まで……!』


 その後もやいのやいのと慈雲と貴陽の心配は続いたが、『師弟ですし』『何かと状況が物騒なので、相方としても身近で護衛できた方が安心できますし』『多分家事に必要な労力はそう変わらないというか、今まで通いでやってた分が自宅で一括になるだけなので、むしろ楽になります!』『同居してた方が氷柳さんを仕事に引っ張っていきやすいと思うんですよね』という黄季の数々の返答により、氷柳は無事に鷭家への居候が決まった。


 恐らく慈雲に一番効いたのは最後の言葉だろう。黄季と氷柳が接触を禁止されていた七日間、慈雲は氷柳の無断欠勤に大変手を焼いたらしいので。


『いい? 涼麗りょうれいさん。初めておうちに行く時はちゃんと『お邪魔します』って挨拶してね?』

『家事で役に立てねぇなら生活費くらいちゃんと払えよ? てか前金で今全財産黄季に渡しとけ』

『家主の許可がないのにフラフラお屋敷の中勝手に歩き回っちゃダメだからね!』

『お前は黄季の師匠ではあるが、自宅では店子たなこでさらに家事までやってもらうんだからな? ちゃんとそこわきまえてねぇと叩き出されるのはお前だからな?』


 居候することが決定した後も、氷柳はとにかく慈雲と貴陽の言葉に揉みくちゃにされていた。


 普段の氷柳ならば無表情のまま聞き流しそうなものだが、近しい仲間達の言葉は聞き流せなかったのか、それとも氷柳にも何か思う所があったのか、氷柳は怒涛の注意喚起にきちんと耳を傾けていたらしい。


『いや、そこまでお気遣いいただかなくても……』と思いつつ止めることもできずに固まっていた黄季の前に氷柳が押し出されてきた時には、氷柳は今のような『借りてきた猫』のような状態になっていた。


 ──むしろそんなに緊張されると俺まで緊張するんですが……!


 氷柳の先を進みながら黄季はチラリと背後を振り返る。見慣れた我が家の中に氷柳がいるのは、何だか出来が悪い絵を見ているような気分だった。とにかく氷柳が周囲の景色から浮いて見えるというか、氷柳の美麗さが際立ってそこだけ何だか視界が明るく見えるような気がする。


 ──視界がおかしい……。何か視界がおかしい……!


 目がチカチカするような気がした黄季は顔を前に戻すとゴシゴシと目元をこすってみる。それからもう一度ソロリと後ろを振り返ってみたが、やはり目の異常は消えなかった。どうやら『氷柳が自宅にいる』という状況に慣れるまでこの目の異常は治らない仕様らしい。


「えっと……」


 勢いで連れてきてしまったものの、正直言って何をどう手配したらいいのかも分からない黄季はもにょっと声を上げながら再度背後の氷柳を振り返る。


 ──ひとまず、使ってもらう予定の部屋に案内するべきなのか? って言っても、別に先に置いてきた方がいい持ち物とかもないみたいだし……


 そんなことを思いながら氷柳の方を見遣った瞬間、黄季は微かに聞こえてきた音に思わずハタハタと目をしばたたかせた。


「その、氷柳さん?」


 黄季が小首を傾げながら声をかければ、氷柳は『何だ?』とでも言うように無言で黄季に視線を返す。実際に言葉にしなかったのはいつになく緊張しているからだろうし、いつになく表情のない顔が強張っているのも右に同じ、なのだろうが。


 ──俺の聞き間違いじゃないなら、今の音って……


「もしかして、お腹空きました?」


 本来であれば、氷柳は食事というものをあまり必要としない体質だ。それは周囲の気脈を勝手に吸い上げて食事に代えることができるという氷柳の特殊体質ゆえなのだが。


「…………………」


 黄季が思わず氷柳の腹に視線を落とすと、氷柳は無表情に若干の戸惑いを載せながら己の腹に片手を当てた。神妙な視線を黄季に据えた氷柳は、そのまま祭祀文章でも読み上げ始めそうな厳かな雰囲気で言葉を紡ぐ。


「なるほど、空腹……?」

「……っ!!」


 ──そうかこの人『空腹状態』を体験したことないのかっ!!


 特殊体質である氷柳は、生まれてこの方『食事』よりも『周囲の霊気を吸い上げる』という方法に頼って命を繋いできたらしい。つまり氷柳にとって『食事』というものは一般人における間食のようなもので、霊気が満ちた空間にいれば腹が減るという現象とは無縁だった。


 そんな氷柳だが、黄季の料理を口にするようになってからは『食事というものも悪くはない』という方向に考えが変わったらしい。ここ最近、それこそ簒奪が成立する前まで氷柳はほぼ毎日黄季の料理を食べていたから、最近の氷柳の原動力は吸い上げた気脈と実際に口にした食事の総和だったと言える。言うならば通常の食事に加えてしこたま間食もしていたのが簒奪が始まるまでの最近の氷柳だ。


 しかしこの七日間はその食事の供給がほぼ断たれ、氷柳は再び気脈だけを吸い上げて生きている状態だった。つまり一般人に喩えて言うならば、氷柳は飽食期からいきなり減量期へ強制的に叩き込まれたことになる。


 その上で氷柳は煉帝剣れんていけん捜索のために力を振るい続け、さらに地脈の流れを根こそぎ浄祐じょうゆうに喰われた現場で退魔に臨んだ。それだけでもかなり体内の貯蓄は目減りしていただろうに、さらにそこに屋敷の爆破と忌地いみちの完全浄化が重なった。


 他人から見れば陰の気の溜まり場であった忌地だが、氷柳にとってあの忌地は強力な気が溜まる良好な餌場であったという。気の供給源を断たれた状態でさらに体力を削って調査を続行していたのだ。鳴くことを知らなかった氷柳の腹のムシだって悲鳴のひとつやふたつ上げ始めてもおかしくはない。


「氷柳さん、こっちです」


 黄季は考えるよりも早くハシッと氷柳の手を取ると大門から奥へ進み、通路の突き当りを左へ折れた。


 元々石畳が綺麗に敷き詰められていた中庭は、荒れて石畳がめくれてしまったのをいいことに部分的に畑に改造されている。


 そんな小さな畑を右手に見ながら屋敷の一番南側に設えられた建物に入った黄季は、入ってすぐの空間にデンッと置かれていた長卓の前の椅子に無理やり氷柳を座らせた。無表情ながらも完全に戸惑っていると分かる氷柳を食卓前に放置した黄季は、さらに奥にある厨の中へ分け入るとゴソゴソと戸棚の中を漁る。


「黄季?」

「すみません、氷柳さん。最近俺もあんまり料理に手がかけれてなくて、今すぐに食べられそうな物ってこれくらいしかなくて」


 食堂の奥にある厨を一通り漁って黄季が見つけ出してきたのは、間食用に貯蔵してあった干し果実達だった。麻袋に入れられていた干し杏や干し棗、干し葡萄は、どれも旬の時期に黄季が近場に自生している木から集めて自分で干して作った物だ。『手料理』とは言えないが、間違いなく『手作り品』ではある。


「あ、あとこれ!」


 さらに黄季は食卓に置きっぱなしになっていた籠をズイッと氷柳の手元へ寄せた。小さな籠の中には茘枝ライチが山盛りにされている。


「最近あまりにも市に行けてなさすぎて、顔馴染の八百屋のおばちゃんが一昨日、心配して様子を見に来てくれたんですけど、その時にお裾分けしてもらっちゃって。えっと、この鱗状の皮を指で剥いて食べると美味しい果物です」


 困惑が消えない氷柳にとりあえずすぐに食べられそうな食材を押し付けた黄季は、食堂の隅に置かれていた籠を背に負うと力強く宣言した。


「すみません、ちょっと買い出しに行ってくるんで、氷柳さんはここで小腹を満たしつつ留守番してもらっていてもいいですか?」

「黄季? すまない、話がまったく見えていないのだが」

「いいですか、氷柳さん。お腹が空いたら何か食べないとその空腹は酷くなる一方なんです。手頃な忌地がなくなってしまった今、氷柳さんがその空腹から開放されるためには、とにかく何か食べる必要性があります。でも今ここにはいい感じの食料がありません」


 何せここ最近、黄季はひたすら貴陽にしばかれ倒されていてろくな食生活を送っていなかった。食料に気を配っていられる余裕もなかったから、何かを作ろうにもまず材料からしてまともな物がない。


「半刻ください。必ず氷柳さんの胃袋を満足させてみせます!」

「ちょっと待て。なぜいきなりそんなやる気に……」

「自分でもよく分からないんですけど、何か今ものすっごく氷柳さんに料理が作りたい気分なんでっ!」


 いや、本当は分かっている。


 ──浮足立って落ち着かない所に急にやるべきことが落ちてきたんで、それにすがりたいんです多分っ!!


 ある種の現実逃避であることは分かっている。というよりも、気付かない振りをしていただけで、何なら黄季の方が氷柳よりもこの状況にはしゃいでいるだけなのだ、多分。経緯から言ってはしゃいでいていいはずがないということは分かっているのだが、予想もしていなかった非現実に心が浮足立って仕方がない。


 料理でもして一度頭を冷やさないと何をしでかすか分からない、というのが半分。後は純粋に氷柳を空腹のままではいさせたくないという思いもある。


「すみません、留守番よろしくお願いしますすぐに帰ってくるんでっ!!」

「黄季っ!?」


 氷柳にビシッと一礼してから黄季は食堂を飛び出す。


 チラリと一瞬だけ見えた背後では氷柳がポカーンと呆気に取られた顔をしていたが、それをゆっくり観賞する間もなく、黄季は市に向かって駆け出していた。

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