※※

 老師、と呼ばれるようになった者は、泉仙省せんせんしょうが入っている棟の一番奥の小部屋を仕事部屋として与えられる。


 日当たりのいい小部屋は、楽隠居を決め込むにはいい部屋だ。


 だが実際の所、その心地良さは部屋に居着く老師のためというよりも、相談事を持ち込む人間が必要以上に陰気にならなくてもいいようにという配慮のもとに整えられている。


「……お前さんらに請われて、あの屋敷を鑑定した結果じゃが」


 だが今この部屋には、そんな配慮が無意味に思えるくらいに殺伐とした緊張感が張り詰めている。


わした結果も、お前さんらとそう大して変わらんかった。あの場所は、ただの土地に還っておる。いっそ不自然なくらいに、あの場所には何も感じん」


 窓を背にするように置かれた揺り椅子に老師が腰掛け、その前に慈雲じうん貴陽きよう涼麗りょうれいが並んだ形だった。


 懐かしさを覚える配置に、涼麗は微かに瞳を伏せる。


 八年前、あの大乱が起きるまでは、よくこんな風に整列させられたものだ。


 あの頃は場所が長官室で、涼麗の隣にはさらに永膳えいぜんがいた。向けられるのは説教や小言が大半で、後は任務に関することばかりだったような気がする。四人とも揃ってうん老師からの呼び出しの式文に怯えては、翡翠の燐光が視界を掠めるたびに震え上がっていたものだ。


 ──そんな日々を、懐かしく思う時が来るなんて。


「まるで何もかもが食い尽くされたかのようであった。……あの場所は、空白になった」

「術者の痕跡も、見つかりませんでしたか」


 感傷を噛みしめる涼麗の隣で貴陽が声を上げる。瞼を閉じたままの目で真っ直ぐに薀老師を見つめる貴陽の表情はいつになく張り詰めていた。


 そんな貴陽を見つめ返し、薀老師はゆるゆると首を横へ振る。


「おかしいくらいに、あの場には、何もない」

「不自然である、と?」

「そうじゃな。だからこそ」


 そこで一瞬だけ声が切れたのはきっと、自分達の中にもある葛藤を、薀老師も抱えているからなのだろう。


 それでも『老師』と呼ばれるようになった泉仙省最長齢の退魔師は、その葛藤を越えて口を開く。


「あれは、永膳以外に誰も成せぬわざであろうよ」


 薀老師の言葉に慈雲が奥歯を噛み締めたのが気配で分かった。同じく杖を抱えた貴陽の指先に不自然に力がこもる。自分も自分で、袂の中に隠した両手に無意識の内に力がこもって手のひらに鈍く痛みが走った。


「あの屋敷は、三代前の皇帝陛下の御代の頃、三華さんかの一角であったりゅう家の持ち物であった。最後の主は、本家当主の妾妃。当主が隠して囲っていた妾妃の存在が本妻に知られ、妾妃は送り込まれてきた本妻の手勢によってむごたらしく殺された」


 あまりにも凄惨な殺され方であったのに加えて正妻の怒りが凄まじく、当時の当主は碌な弔いも片付けもせず屋敷を放置したらしい。残された妾妃の怨念は凄まじく、屋敷一帯の土地は次代の手に渡る頃には忌地いみちと化していた。


 当初は柳家の醜聞を隠すために私的に雇われた呪術師達が対処をしていたという。だがじわじわと力を増していく忌地に、雇われていた呪術師達は次々と匙を投げて逃げていった。


 にっちもさっちも行かなくなった忌地を、次代はさらに息子に押し付けたらしい。新しく当主となった青年……事を起こした当主から見ると孫に当たる人物は、年季が入ってさらに手に負えなくなった忌地の存在を知った瞬間、体面をかなぐり捨て、四鳥しちょうの一角で交流があったすい家にすがった。ある意味孫が一番賢明だったと言える。


「その因縁を正しく知り、正しくほどける者でなければ、ああも綺麗にあの場所を浄化することは適わん。そしてその因縁を知る者は、ここにいる者を除けば永膳しかおらんはずだ」


 柳家に縋られた翠家は、現場を一目見ると泉仙省に話を回した。翠家に話が回ってきた時点で、あの土地は翠一族のみでどうこうできる代物ではなくなっていたのである。


『都全体に影響を及ぼしかねない忌地であるため、泉仙省にて管理を願う』とした傍ら、翠一族の血縁である薀老師の元には、翠本家から詳しい事情説明と『忌地を封じるため、即急に専属の術師を手配せよ』という密命も回っていた。


 その命を受けて薀老師が白羽の矢を立てたのが永膳だった。


 前々からかく本邸を出たがっていた永膳は、屋敷に絡んだ因縁を知らされた上で住み込みでの任務を快諾。拉致に近い形で連れ出されて強制的に同居させられた涼麗と、二人に近しい間柄で屋敷を訪うことを許されていた慈雲と貴陽は、永膳の暴挙を心配した薀老師から個別に屋敷にまつわる因縁を聞かされている。


「僕としては、そこも疑問なんです」


 当時でさえ伏せられていた話だ。ましてやあの大乱を経て柳家は断絶し、翠家も事情を知っていた者は軒並み戦死している。薀老師が生き残れただけでもまだ良かった方だろうというのが涼麗の所感だ。


「永膳さんは、八年前、あの屋敷にまつわる因縁が解けなかったから、住み込みという形で付きっきりで地脈の調整をする生活をしていたんですよね? 涼麗さんも、僕も、慈雲も、何回か挑戦して、ことごとく失敗しました」


 貴陽の声は硬い。空気に溶けていかなかった言葉が床の上を跳ねる幻聴が聞こえてくるかのようだった。


 その声音のまま、貴陽は問いを紡ぐ。


「あの人が灰の中から還ってきた。そのこと自体には、僕は疑問を感じません。あの人ならば、やろうと心に決めていたなら、本当にそれくらいはやれる」


 静かに言い切った貴陽を、薀老師はただ静かに見上げていた。貴陽と並んだ慈雲が貴陽ではなく薀老師に視線を向け続けているのは、慈雲もまた貴陽に同意ということだろう。


「ですが、八年前にできなかったことを、今の永膳さんがあっさりやってのけたということが気にかかります」


 郭永膳は、八年前の時点で、誰もが認める優秀な退魔師だった。


 だがその隣には並び立つ者として涼麗がいて、他にも腕が立つ術師達が泉仙省には揃っていた。その中には、永膳を言葉でさとせる慈雲がいて、分野によっては永膳をしのぐ腕前を持つ貴陽がいて、上司として薀老師が存在していた。


 全員で囲めば、永膳を完全に止めることができた。討つことも、恐らくできた。


 だが、今は。


「永膳さんが、八年前より技量を上げた、もしくは人智を外れた力を得て還ってきたというならば、今の泉仙省にはそれを止められる手立てがありません」


 大乱で腕が立つ術師は軒並み狩られた。貴陽は現役を引退せざるを得ない状況に追い込まれ、薀老師も最盛期からは遠ざかっている。次世代が育ちきるにはいまだに時が必要だ。残された涼麗と慈雲だけでは八年前の永膳を押さえるのでやっとというところだろう。


 あの時よりも永膳が手に負えない存在になっていたならば。


 何より、一連の事件から想像するに、今の永膳にこちらの言葉は届かないだろう。元からこちらの主張が通るかどうかは永膳の機嫌次第といった節はあったが、確実に敵側に回ってしまった今では主張が通る余地がどこにもない。


「薀老師は、その辺りのこと、どう見ますか?」


 緊張に張り詰める貴陽の問いに、薀老師はすぐには答えなかった。


 しばらく貴陽を無言で見つめていた薀老師は、不意に涼麗へ視線を向ける。


「涼麗。お前さんは、その辺り、どう見た」


 来るだろう、とは思っていた。


 永膳が絡んだ時点で、自分はどうあっても傍観者ではいられないのだから。


「永膳は八年前、解けなかったのか、

「え?」

「は?」


 貴陽と慈雲の間抜けな声が同時に響いた。さらに二人分の視線がまとめて涼麗に突き刺さる。


「……正確なところは、聞かされていません。見ていた分には、『解けなかった』です」


 一度瞳を閉じて、深く息をついてから、開く。


 もう揺らがなくてもいいように。


「ただ、あれが演技であったとしても、話は通るかと」


 屋敷が更地に還ったあの日から、ずっとずっと考え続けてきた結果を口にした瞬間、サッと顔色を変えたのは同期二人の方だった。


「はぁ? ちょっと待てよ涼麗!」

「どういうことなの? あれが解けた? 解けたのにあえて解かずにあそこに住んでたの? 正気で?」


 慈雲と貴陽は、永膳が結界の基盤を作る前の屋敷の惨状を知っている。実際に何度か浄拔も試みたことがある二人だ。をどうこうできたことも衝撃ならば、どうこうできたにもかかわらず、快適で贅沢な暮らしができた郭本家を出て、涼麗と二人、あえて不自由をしながらあの屋敷に住んでいたという状況も理解できないに違いない。


 ──最近でこそ割とな状態ではあったが、居着いた当初はまさに『瘴気の底』という状況だったからな。


 さらに言えば、掃除がされないまま放置されていた屋敷は、血臭や腐臭こそしなかったものの、床板や壁、果ては天井までどす黒いシミがそのまま残されていた。初めてあの屋敷に踏み入った時、上機嫌で散策するついでに怨霊を薙ぎ払っていた永膳の後ろで、さすがの涼麗も『本当にここに住むのか』と永膳の正気を疑ったことを覚えている。どんな環境に置かれても気にせず生きていける涼麗が、だ。


 ──まぁ、怨霊の類は入居時に永膳が一括して祓ったし、一度血を吸っていたせいかその部分から崩落していって、黄季おうきが出入りする頃には全て残っていなかったわけだが。


 そうでなければさすがに黄季に見つかって大騒ぎになっていたことだろう。


「解けたのに解けなかった振りをしていたならば、理由はひとつしかないだろう」


 一瞬だけ緩んだ気を引き締め、涼麗は今に意識を引き戻した。


 無意識のうちにすがめられた瞳に怜悧な光が宿ったのが鏡を見なくても分かる。


「郭本邸から出る口実を失いたくなかったから、だ」


 その発言に一瞬怪訝けげんな表情を浮かべた二人は、次いで何とも言えない渋い顔を涼麗に向けた。


「それは……マジか」

「涼麗さんとの二人暮らしを実現するためなら、瘴気の底にある殺人現場に住んでもいいって……うん。永膳さんなら言ってもおかしくないね、うん」


 永膳は昔から……それこそ涼麗と初めて出会った時から涼麗に固執していた。その執着を永膳は一族の者にも、外部の者にも隠していなかった。だから郭永膳を直に知っている者ならば、いかにその執着が凄まじかったを誰もが知っている。


 そして当の涼麗は、それに加えて永膳のその執着を郭一族が良く思っていなかったことも知っていた。そのいざこざにどれだけの人間が巻き込まれ、どれだけの人間が消えていったのかも。


 永膳は恐らく、かなり早い段階から涼麗を連れて郭の屋敷を出る算段を立てていたのだろう。だが永膳は当主の嫡子で優れた術師だった。次期当主と目されていた永膳が本邸を出て外で暮らすなど、周囲は決して許さなかっただろう。


 永膳が屋敷を離れた口実が、泉仙省から正式に命じられたでなければ。


「同じように、あれがわざわざ八年もかけて炎の中から還ってきたというならば」


 その事実を踏まえた上で、さらに続けて涼麗は言葉を吐き出した。


「狙いは、私以外の何物でもないかと」


 その言葉に、場の空気がしんと、また一段冷え込む。


 涼麗の言葉が自惚れの類から出たものだったから、ではない。


 それが真実的を射た発言で、そうであるならば永膳は事を成し遂げるまで決して止まらないと、場にいた全員に理解できたからだ。


 ──あいつならば、あるいは。


 今度こそ涼麗を完全に手中に収めるためならば、笑顔のまま一国を焼き払うことくらいはやってのけるだろう。


 そんな永膳の気性を嫌になるほど理解させられていたからこそ、八年前のあの時、涼麗は永膳の行動が理解できなかったのだ。


 ──私を置いて、むざむざ己が国の犠牲になる道を選ぶなど。


 涼麗が知っている郭永膳ならば、絶対にない。そう思っていながら永膳の死を受け入れていたのは、あの時行使された大術の詳細を涼麗が知っていて、永膳の落命なくしてあの術の発動はないと突きつけられていたからだ。


「……保管庫の結界の件ですが」


 冷気とともに広がった沈黙を破ったのは、感情が抜け落ちた慈雲の低い声だった。


「現場を直に見た明顕めいけんふう民銘みんめいに調査をさせました。内側から反転陣を仕込まれていたあの結界は、内外の反発によってほころびが生じていた。その綻びを突く形で結界を切ったのがあの二人です」


 慈雲の声に一行の視線が慈雲へ流れる。貴陽ごしに見上げた慈雲の顔は、声音と同じく表情らしきものが見当たらない。


「その報告を踏まえて諸々考えた結果……煉帝剣れんていけんに仕込みがされていた可能性が高いかと」


 その顔をじっと見上げていた薀老師は、底冷えする声音で慈雲をただした。


魂込たまごめたぐいを疑っておるか」

「はい」


 肉体とは、魂魄こんぱくを収めるための器だ。肉体と魂魄は本来密接に繋がっており、その繋がりが断たれれば魂は楽土へ渡り、肉体は土へ還る。それが自然のことわりだ。楽土へ渡れず現世を彷徨さまよう魂がやがて周囲の陰を吸うと妖怪や幽鬼へ堕ちることになり、退魔師が対処することになる。


 肉体が死んでも、魂魄が死んでも、人は生きてはいけない。


 だが優れた術師の中には、肉体を生かしたまま魂魄のみを抜き取り、他の器に移し替える術を持つ者がいる。魂魄が新たな器の中で生きていれば、肉体が滅びることもない。本来は激しい損傷を受けた肉体を長い時間をかけて癒やすために編み出された呪法だという。


「煉帝剣自体が強い炎気を帯びた呪具です。仮にその中に魂魄が入り込んでいたとしても、煉帝剣の炎気に混じって判別することは難しい」


 慈雲が何を言わんとしているのか察した涼麗は、息を詰めたまま目を見開いた。そんな涼麗に気付いているだろうに、慈雲は薀老師を見つめたまま淡々と言葉を続ける。


「己の魂を煉帝剣に移し替えた状態で、あの大術を発動させる。肉体は灰に還るかもしれないが」

「……肉体の方にも先に何かしら術式を施しておけば、完全に灰になったとしても、年月をかければあるいは再生可能……って?」


 慈雲の言葉の先を貴陽が引き受ける。己が口にした言葉を思案しているのか、珍しく貴陽の眉間にはシワが寄っていた。


「あの大術の発動に加えてそんなことまでしたら、魂魄の方も完全に無事とは言えないかもだけど。……身に馴染んだ煉帝剣の呪力に包まれた状態で、呪具保管庫なんて呪力に溢れた場所に置かれていれば」

「ゆっくりと周囲の呪力を吸い上げて回復は可能、ってことだ」


 確かに、そうであるならば二人の推論には筋が通る。永膳にそれができる技量があったか否かと問われれば、恐らくあったと涼麗は思う。


 しかしそこまでの魂込は、もはやただの『魂込』とは呼ばない。


「……もはやそれは『黄泉返り』の類だ」


 涼麗の呟きに、場に張り詰める緊張がさらに強くなる。


 死の境界を、人は越えてはならない。


 どれだけ強大な力を持つ者も、どれだけ優れた技量を持つ者も、そのことわりの前でだけは平等であるはずだ。


 その理を越えてしまえば、ヒトはヒトでなくなる。世界を巡る理の中に還っていけない存在と化す。


 それはもはや、ヒトと同じ姿をしていても幽鬼や妖怪と同じ存在だ。


「……どのみち、討たねばならぬよ」


 張り詰めたまま沈んだ空気の中に、低く薀老師の声は落ちた。


 また溶けずに凝り固まった言葉が、床に落ちて跳ねる幻聴を聞いたような気がした。


「あれがどのような思惑を抱いて炎の中へ身を投じ、何を抱いて灰の中から戻ってきたのかは分からん。じゃが」


 その幻聴を断ち切るかのように、薀老師の声は強く響く。


「あれの道理が通って良いはずはない」


 その言葉に三人ともが自然に頷いていた。それぞれ胸にぎる思いはあれども、その部分だけは確かだと三人ともに確かめる。


「あまり時間はありません。それに、このことを表沙汰にするわけにもいかない。黄季と、黄季の同期二人は巻き込む形で……」

「慈雲」


 話の矛先が今後の対策へ移り変わる。


 その瞬間、先程までとは色が違う緊張を載せて貴陽が慈雲の言葉を制した。


「お?」

「誰かここに来る」


 貴陽は瞼を閉じたままの顔を入口の方へ向けていた。


 視力を失った貴陽は、その分鋭敏な聴覚を得ている。涼麗達の耳には届かないざわめきが貴陽には聞こえているのだろう。


「だいぶ慌ててる。二人だね。この足音、は……」


 独白するようにこぼしていた貴陽がハッと顔色を変える。その頃には涼麗の耳にもバタバタと慌ただしい足音が聞こえていた。


「っ……!」


 異変を察知した貴陽が言葉を紡ごうとしたまま息を詰める。


 その瞬間、足音の主達は部屋に飛び込んできていた。同時にフワリと、鉄錆に似たにおいが空気を染め変える。


「失礼します老師!」

「長官達も御在室だと!!」


 飛び込んできたのは、涼麗にも馴染みができた黄季の同期達だった。


 その二人の様子が目に入った瞬間、涼麗の全身からザッと血の気が下がる。


 とっさに声を上げていたのは慈雲だった。


民銘みんめい!? お前どうしたその傷っ!!」


 明顕めいけんに手を引かれるようにして駆け込んできた民銘は、右手で首筋を押さえていた。その手が鮮血に濡れている。他に大きな傷でもあるのか、民銘が纏った紺色の袍はベットリと血で汚れていた。


「中庭で任務に当たっていたら、いきなり現れた人影に民銘が襲われて……っ!!」

「俺の傷は大丈夫です! 首の皮一枚裂けただけで!!」

「じゃあその血は……っ!!」

「黄季ですっ!! 俺を助けてくれた時、黄季、右腕潰されてて……っ!!」


 その言葉に、ヒュッと己の喉が音を鳴らしたのが分かった。どんな戦場に放り込まれても微塵も震えたことがない指先が、この短時間でカタカタと震え始めたのが分かる。


「利き手使えなくなってるくせに、黄季が現場に残るって! 俺達が残っても殺されちゃうから……っ!! ち、長官達、老師の部屋に集まってるはずだから、よっ、呼んで来いって、俺ら、のことっ、逃してくれて……っ!!」


 別れ際の黄季の窮地を思い出したのか、民銘の顔がグチャグチャに歪む。痛みと混乱に呑まれた声は、涙に沈みかけていた。


 そんな民銘を支えた明顕が、必死に動揺を押さえながら言い募る。


「民銘より頭ひとつ背が高い、大剣使いの男です。黒い外套をスッポリ頭から被っていたから顔は見えませんでした。でも、長い黒髪と、白い衣がチラッと見えました」


 その証言に、部屋の中の空気が凍り付いた。


 民銘よりも頭ひとつ背が高いならば、慈雲とほぼ同じかそれ以上。


 大剣に、長い黒髪。


 そして、白衣びゃくえ


 涼麗と揃いの。涼麗と、永膳にのみ許された色。


「っ!」


 気付いた時には部屋を飛び出していた。自分の後ろに慈雲が続いたのが気配で分かる。民銘の手当を老師に頼んでいたのか、貴陽は出遅れたようだった。


 普段は長いと感じたことがない泉仙省の廊下が、今ははるかかなたまで続いているような気がする。


「……っ!!」


 恐らく永膳は、全てを見透かしているはずだ。


 ずっと隣に永膳以外の人間を置いてこなかった涼麗が、己から指名して黄季を隣に置いたことも。永膳以外を己の世界に立ち入らせず、外の世界と接する時は永膳を通していた自分が、自ら望んでその世界の外へ出たことも。ずっとずっと人形じみた生き方をしてきた自分が、わずかなりにも人らしい生活をしていることも。


 知っていて、あれだけのことをしたならば。


 ──無事でいてくれ……っ!!


 あの傍若無人で傲岸不遜な絶対君主は。涼麗の全てであったあの人は。


 きっと涼麗だけではなく、涼麗が選んだ相手も許さない。


 建物を飛び出し、角を折れ、それでも勢いを殺さず中庭の中へ駆け込む。


 その瞬間目の前で繰り広げられた光景に、涼麗は思わず呼吸を忘れた。


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