※※※※

「っはぁ〜、にしても酷い目に遭ったぜ」


 パタリと背後で扉が閉まった瞬間、慈雲じうんは盛大に溜め息をきながらボヤいた。片手を肩にあて、コキコキと首を鳴らしながら肩を回している姿はどこか年寄りじみて見える。


「風呂は使わせてもらえねぇわ、ほんっとにマジで俺とお前だけに片付けさせるわ……。気を利かせて風呂から早めに帰ってきてくれた黄季おうきや下っ端達を強制的に先に帰らせるとか、老師の俺達へのイジメ、ちょっと徹底しすぎじゃね?」


 窓から見える景色は、夕闇に染まっていた。真夏のこの時期の夕焼けは息の根がしぶとい。もうしばらくはこの薄闇が続くことだろう。


「気を利かせてくださった、の間違いだろう」


 慈雲の後ろに続いて長官室に入った涼麗りょうれいは、慈雲と数歩の間合いを残して足を止めた。空気に溶かすようにひそやかに言葉を紡げば、慈雲の動きがピタリと止まる。


「保管庫に、お前や私以外を近付けたくなかった。あるいは、保管されている呪具をつまびらかにされたくなかった。……そういった理由があったからじゃないのか」


 夕闇に沈む泉仙省せんせんしょうは、いつになく静まり返っていた。


 そう、今の泉仙省は、酷く人気ひとけがない。夜であっても人が詰めている泉仙省が、だ。


 その原因は、呪具の暴走と、にある。


『呪具保管庫の結界に異常が生じ呪具が予期せぬ暴走を起こしたのは、おん慈雲およびてい涼麗の喧嘩が遠因である』とうん老師は断定し、罰として無茶苦茶になってしまった泉仙省一階部分の片付けを慈雲と涼麗の二人に課した。誰かが手伝っては罰則にならないからと他の人間には手伝いを禁じ、どうせ仕事にならないのだから今日はもう早上がりにしなさいと、他の人間を帰らせた。


 ──私の術を止めるだけならば、もっと他にやりようはあった。 


 第一線からは退いた薀老師だが、その理由の最たる所は大乱の折の責を負ってのことだ。その腕が衰えていないことは、復帰の挨拶をした時にすでに察している。


 薀老師はあの瞬間、鎮火にかこつけてわざと現場を水で洗い流したのだ。恐らく薀老師は最初から、一連の事件の原因が慈雲と涼麗にあるとは思っていない。


 後始末を慈雲と涼麗の二人だけにさせるために。現場からなるべく早く他の人間を排除できるように。


 そのために術を行使し、事の原因が二人にあるとあえて罪をなすりつけた。


「事の原因は何なんだ。お前には何か、予想がついているのか?」


 涼麗は腕を組むと静かに慈雲を見やる。


 そんな涼麗の視線の先で、慈雲が涼麗を振り返った。


「いやぁだねぇ、勘が鋭いやつって」


 軽い口調で答える慈雲の顔には、口調に似つかない酷薄な笑みが浮いていた。そんな慈雲に涼麗は瞳をすがめる。


 大乱の時、慈雲はよくこんな笑みを浮かべていたな、と。


 そんな独白が、胸の内を転がっていった。


「あそこの結界の理論は、涼麗、お前の屋敷の結界とほぼ同じだ。中に置いた物の呪力を利用して結界を展開している。結界を張った当人を基点としない、半永続的な物だ。中に置いた物の力が強ければ強いほど、結界の強度も上がる。『燕華えんか公主の呪いの帯』があえて保管されていたのは、あいつが帯びてた呪力を結界展開に利用していたからだ」


 涼麗の静かな瞳を見据えたまま、慈雲はどこか笑みを忍ばせた声音で言葉を紡ぐ。


 昔から、慈雲はこうだった。どうしようもなく嫌なことを目の前にした時、慈雲はこうやって冷笑を帯びた声を出す。


 だから、本題を聞くよりも前に、聞かされるのは『どうしようもなく嫌なこと』なのだと分かっていた。


「あそこの結界の基点に使われてたのはな、煉帝剣れんていけんだったんだよ」


 だがその言葉は、そんな覚悟なんて薄紙のように破り去っていく。


 煉帝剣。


 そのたった一言で、涼麗の頭の中は真っ白になった。


「……どう、して」


 こぼれ落ちた声は、酷く干上がっていた。自分の声だと、とっさに分からなかったくらいには。


 そんな涼麗から、ついっと慈雲が視線をらす。さらされた横顔には表情らしき表情は何も浮かんでいなかった。


「……黙っていて、悪かった」

「……っ!!」


 気付いた時には、ツカツカと間合いを詰めて慈雲の胸倉を掴み上げていた。だが氷柳より背丈も厚みもある慈雲の体は小揺るぎもしない。


 あの日、あの業火の中で、涼麗が慈雲の腕を振り解けなかった時と同じように。


「なぜ」


 激情が胸の内で荒れ狂って、何も言葉になってくれない。


 そんな中から、涼麗は無理やりすくい上げた言葉を吐き出した。


「なぜ永膳えいぜんの得物がここにあったっ!?」


 かつて涼麗と相方が『氷柳ひりゅう煉虎れんこ』と称されるようになった由来の一部。引いては自分達が『氷煉比翼』と呼ばれるようになった元。


 炎術を得意とするかく家に代々伝えられてきた重宝。


 そして、涼麗の元相方であった永膳が、常に身に帯びていた得物。


 煉獄の炎を宿す大剣。


 煉帝剣。


「……本来ならば、お前か郭家に返すのが筋だった。だが大乱後、郭家は断絶していたし、お前はすでに行方知れずになっていたからな」


 涼麗の手を外そうと思えば、慈雲にはそれができたはずだ。


 だが慈雲は己の胸倉を掴み上げる涼麗の手を外そうとはしなかった。襟で首を締め上げられたまま、慈雲は淡々と言葉を紡ぐ。


「焼き払われた王城の瓦礫の中から、煉帝剣だけが見つかった。帯びてた呪力が高かったせいか、煉帝剣だけは、無事でな。呪力の余波で誰も近付けないって話だったから、俺と長官……薀老師で、現場まで出向いて、封印して、泉仙省まで持ち帰った」


 淡々とした声を聞いている間に、己の手が震えていることに気付いた。


 煉帝剣だけは、無事だった。


 裏を返せば、他は無事ではなかったということ。


「……っ」


 キリッと、噛み締めた奥歯が不愉快な軋みを上げたのが分かった。


「……どこから」


 何と問えばいいのか。何を口にすべきなのか。


 悩んだのは、一瞬だった。


「煉帝剣は、どこから、出てきたんだ」


 そんな涼麗を見下ろす慈雲の瞳が、痛みに細められたような気がした。


紫龍殿しりゅうでんの、ちょうど玉座があった辺りだと、王宮再建のために集められた匠が言っていた」


 その言葉に、涼麗は顔とともに瞳を伏せた。慈雲にすがりそうになる前に両手を離し、きつく奥歯を噛み締めることであふれ出しそうな激情に耐える。


 現場に立つ永膳は、いつだって煉帝剣を背に負っていた。前翼ぜんよくなのに後衛向きの飛刀を得物にしていた涼麗と、後翼こうよくなのに前衛向きの大剣を得物にしていた永膳は、よく周囲から『逆の方がいいんじゃないか』とからかわれたものだ。その声を全て蹴散らして、自分達は現場に立っていた。


 炎に巻かれた王城の、その瓦礫の下から煉帝剣が出てきたというならば。……疑うまでもなく、永膳だって、そこにいたはずなのだ。


 永膳は、間違いなく、あの炎の中で、死んだのだ。


「煉帝剣は、郭家の重宝。ましてや最後の使い手が『煉虎れんこ』と称された永膳だ。……先の大乱の経験から、俺達は泉仙省の呪具保管庫には絶対に破られない結界を張りたかった。だから煉帝剣を結界基点に選んだ。中に収めた物品の呪力を結界に巡らせ、自重で結界が強固になる術式を仕込んだんだ」


 その事実に、意識が沈みそうになる。


 だがそんな涼麗の思考を救い上げたのは、後に続いた慈雲の言葉だった。


「あそこの結界はな、並の術師が外から術式をぶつけただけじゃ破れねぇんだよ。勝手に緩むなんて、もっとありえねぇ」


 慈雲の言葉に涼麗は顔を跳ね上げる。


『煉帝剣』という言葉に全てを持って行かれて気が回っていなかった。だが我に返ってしまえば見過ごせない事実が、自分達の前に転がっている。


「あの保管庫から煉帝剣が外に持ち出されねぇ限り、あんな風に結界が切れることはまずありえない上に、誰かが意図して呪具を暴走状態に入れない限り、あんな風に呪具の全てが暴走するなんてこと、起こりうるわけがねぇんだよ」


 今の呪具保管庫に


 その存在を知らされていなかったとしても、煉帝剣が封印された状態であったとしても、保管庫に煉帝剣が存在したのであれば、涼麗は保管庫に踏み込んだ瞬間、存在に気付けたはずだ。だが涼麗は保管庫で作業を続けていた間、一切その気配を拾っていない。今生きている人間の中で、一番煉帝剣の気配を知っているはずである涼麗が、だ。


「誰が」


 再び干上がったのどで紡げたのは、その一言だけだった。


 そんな涼麗にまた慈雲が皮肉げな冷笑を浮かべる。


「分かったら、苦労はねぇわな」


 そのまま慈雲は窓際の卓に視線を流した。その卓の上には対局途中の碁盤が置かれている。


 慈雲が誰かと対局していた物が、そのまま放置されているわけではない。これは碁盤を都の大地、白石を陽、黒石を陰になぞらえて都を巡る地脈の陰陽を見張るための呪具だ。


 その盤面に、不意にどこからか石が増えた。カツリと小さく音を立てながら新たに置かれた石は黒。陰を帯びた土地が、今この瞬間都に増えたという証だ。


 盤面に不自然に散った石は、黒石がやや優勢に見える。すなわち今、この沙那さなの都は、陰の気に傾きつつあるということだ。


「向こうさんは、俺やお前、薀老師に気付かれずに保管庫に侵入し、煉帝剣を持ち出す技量があったってことだ。……ハッ、ほんっとに嫌になるぜ。そんな腕があるなら泉仙省うちで働いてくれっつーの」


 慈雲の視線の先を追って碁盤を見つめた涼麗は、既視感のある光景に瞳をすがめる。


 この感覚は、あの時に似ている。


 あの大乱が起きる以前。不穏な空気をはらみながらも、王城内が芳醇な果実の甘さに酔い痴れていた、あの頃に。一足先に腐って落ちようとしていた民草から目を背け、腐り落ちる直前の一番甘美な果実に、王宮の人間が先を争って食らいつこうとしていた、あの頃に。


 あの頃も、この碁盤には、似たような配列で石が並んでいた。


「……お前が私を泉仙省に復帰させたかった、最たる理由はこれか」


 ただ違う所があるとすれば、あの腐敗が起きるべくして起こったものであるのに対し、今は腐敗など起きる余地もないという所だろう。


 一度灰に帰したことで振り出しに戻ったこの国は、健やかな芽を芽吹かせたばかりだ。王も官吏も民も、前を向いて走ることに忙しく、文化という果実が実を結ぶのも、それが熟して影から人々の性根が腐り始めるのも、まだまだ先のことであるはずだ。


 そんな状況であるというのに、八年前と同じ兆候が見えると言うならば。


「おーよ。ま、現状一枚上を行かれちまってるけどな」


 誰かが意図的に、この状況を作り出している。


 そうとしか、考えられない。


「さぁ、涼麗。俺と楽しく暗躍しようぜ? 八年前の再来を防ぐためによ」


 心底嫌そうに、心底全てを見下すように、慈雲が笑う。そんな慈雲の顔を、涼麗は常の無表情で見つめていた。


「さもなきゃ、この国はもう一度、全てが灰に還るぜ?」


 そんな二人を、色を濃くした夕闇だけが見つめていた。


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