いまの僕には君以外、考えられないんだよ。

「……恵一けいいちさん、さとしです。いまの通話内容が聞こえましたか? これまで眠っていたはずのさくらさんが急に意識を取り戻したんです!!」


 僕とさくらんぼの通話に割り込んできた二宮聡にのみやさとしのうわずった口調からも、地上でサポートの任務にいている彼の興奮ぶりがイヤフォンまで伝わってくる。その様子はただ単に妹の意識が戻っただけではなさそうに思えた。


 ――まったく驚いたな。ここまで親父の読み通りになるなんて。


 二年間に起きた交通事故の後遺症による記憶喪失、そして昏睡こんすい状態を繰り替えしていた。僕の妹が回復する見込みは、入院先である最新の医療設備を誇る君更津きみさらず中央病院でも難しいと説明されている。安静が必要な状態のさくらんぼを今回の計画に参加させた親父の真意を最初から知っていたとはいえ、半信半疑だったのが僕の正直な気持ちだ。


「……さくらんぼ、お前の書いたがすべての答えなんだよな」


「えっ!? 恵一さん、いったい何を言っているんですか!!」


「恵一お兄ちゃん!!」


 最新型のインカムマイクには、つぶやきのような僕の小声までしっかりと捉えてしまう。まだ事情がよく呑み込めていない聡の戸惑った返答に妹の声が重なった。


「聡くん、いまは説明している時間がないんだ!! この通話回線にさくらんぼも参加させることは出来るかい?」


「は、はい。マイクの予備がありますから。……桜さん、これを耳に掛けて下さい。通話の発信ボタンは俺が遠隔操作でコントロールしますので、そのまま恵一さんに繋がります」


 さすがに状況の把握が素早いな。今回のサポート役は親父の見立てどおり聡が適任だろう。通話回線に新規参加者が登録された軽快な電子音がこちらの耳もとに鳴り響く。これでさくらんぼも僕たちと一緒だ!!


「はああっ!! ……ふうっ」


 んっ、このイヤフォンから聞こえてくる息使いは何なんだ!?


「……大きく深呼吸しないとぼやけた頭に酸素が巡らないから。聡くん、いきなりお願いして悪いけど、あなたが耳に着けているイヤフォンを外してもらえるかな」


「えっ、桜さん。俺のイヤフォンをですか? いまは大事な計画の遂行中なので通話用の機器を勝手に外すわけにはいきません!!」


「そっか、そうだよね。あいお姉ちゃんの救出作戦だもんね。じゃあミュートでもいいよ」


「それなら構いませんよ。……久しぶりですからね、兄妹だけで話したいこともあるでしょうし」


「ありがとう、聡くん」


 ……地上から通話は聡が回線をコントロールしている。いまはすべての通話が双方向で出来るハンズフリーモードに設定しているんだな。彼とさくらんぼの交わす会話がとてもクリアに聞こえる。それにしても妹はなぜ聡のイヤフォンだけをミュートにさせたんだ?


「……桜さん、準備が出来ました、俺の耳にはふたりの会話は聞こえません。どうぞ話してみてください」


「おはよう、恵一お兄ちゃん、いまのご機嫌はいかが?」


「……おいおい、それはこっちが先に言いたいセリフだぞ。いきなりおなじみの茶番劇かよ。どれだけさくらんぼのことをさ。心配したと思ってんだ」


 努めて明るい声を出そうとしてもさくらんぼの声を聞いた途端、思わず感極まってしまい言葉につかえてしまう。胸にこみ上げる物を抑えきれない。


「お兄ちゃん、私ね。眠っているあいだ、ずっとあの人の声を聞いていたの」


 の声、っていったい誰のことだ!?


「さくらんぼ!! もしかしてその声の主は……」


「そう、恵一お兄ちゃんにも聞こえたはずよ。行方不明になった藍お姉ちゃんの呼びかける声が」


「……藍が僕に呼びかける声!?」


 これまで僕が聞いた彼女の声は夢なんかじゃなかったんだ。あの桜が満開の太田山公園で自分の名前を呼ばれた気がして振り返った過去の記憶がよみがえる。大切な想い出が散るように桜の花びらが舞う景色には藍の姿はなかった。だけど決して幻聴なんかじゃない。僕にむかって手を振る彼女の姿がはっきりとまぶたの裏に焼き付いて離れなかった……。


「私がぼんやりとした世界にいた時間。こっちではおおよそ二年間か……。けっして退屈じゃあなかったよ。藍お姉ちゃんとも会っていたから寂しくなんかなかった。ふふっ、自分のことよりも他人を優先する心配性なところは相変わらずで、さくらんぼのそばにいてくれた時間も長かったんだよ。三人で遊んでいた小学生のころみたいにお話しをいっぱいしたんだ……」


 大切な家族を語るような妹の口調はとても優しさに満ちていた。そして妹の口から明かされる空白の二年間。藍はこの世界線に間違いなく存在していたんだ。記憶喪失に陥ったさくらんぼの心配までしてくれたなんて……。現在の藍の存在はきわめて曖昧な物かもしれない。僕が元々いた世界線で彼女に触れて覚えた感触。身体の重さがまったく存在しなかったみたいに。


 だけどはっきりとした想いを持って僕や妹のそばに寄り添ってくれていたとしたら……。


 ――どれだけ君は優しいんだ。僕が藍を完全に見失っている瞬間も君は僕を見つけていた。いや、僕だけじゃない。さくらんぼや親父も、弟の聡だって、藍に関係する僕たちの喜びや悲しみの表情も全部見逃さずにいてくれた……。


 藍、君が僕の幸せを誰よりも考えてくれている存在だったんだ。だから悲しい出来事の多いこちら側の世界線に来ては駄目だと、きみさらずタワーのらせん階段の踊り場に設置したBCLラジオ改の周波数に合わせて、悲痛な警告のメッセージを届けてくれたに違いない。


「……」


「黙っていても兄妹の以心伝心いしんでんしんってやつ。お兄ちゃんの気持ちが手に取るように分っちゃうのは、これまでウザいと思うのも多かったけど、今回だけは神様に感謝するよ。それに泣くのはまだ早すぎるから。このきみさらずタワーで遊んでいたときみたいに自信満々で自分勝手。でもみんなを引っ張るリーダー的な存在。私の憧れた格好いい恵一お兄ちゃんはどこに消えちゃったの!!」


「さくらんぼ、お前は……」


「だから、泣くのは藍お姉ちゃんを救い出してからにとっておくの。私がプロット帳に書いたとおりの結末になるはずだから」


 例のプロット帳に書かれた物語か!? やっぱり親父の推測が当たった!! さくらんぼはその目で見て来たからあんな詳細な内容が書けたんだ……。


「さくらんぼ、お前は過去にきみさらずタワーの屋上展望台で見たんだな。藍がにあう瞬間を……」


「……いまはノーコメント。余計なノイズを恵一お兄ちゃんに与えるとロクなことがないし。私の身体はもう大丈夫だから。それより藍お姉ちゃんには時間がないの。急いで展望台に向かってあげて!!」


「わかった急ぐよ。お前が教えてくれたみたいに二対の像の真ん中に立って藍に呼びかけるんだよな」


「うん、きみさらずタワー突端にしつらえられた悲恋の銅像。ヤマトタケルとオトタチバナヒメ、その向かい合うふたりの銅像の真下にある方位を示す円形のプレートの前に立つのを忘れないで。こちらからはその位置からの呼びかけしか藍お姉ちゃんの耳には届かないから」


「わかったよ、お前の言う場所にBCLラジオ改のクーガーを設置するのも忘れない。今回の僕はもう間違えないよ。藍が本当に大好きだった場所は最上階にある展望台からの眺めだ!!」


 僕が記憶の改ざんまでしていた理由わけ。過去に藍が神隠しにあった場所。それがよく三人で登ったきみさらずタワーの最上階だったんだ。小学生時代の僕はとても卑怯だった。妹も巻き込んだ藍の失踪事件の重大さ。あまりの罪の意識に耐えきれなくてトラウマと一緒に事実を改ざんしてまで隠蔽いんぺいしていたんだ……。


 きみさらずタワーについて想いを巡らせると、不意に過呼吸になったのもそんな事件の影響が大人になっても如実に表れていたんだろう。


「そこまで恵一お兄ちゃんが思い出したのなら安心だけど、念には念を入れて最後にさくらんぼからの特別なエールを送るよ!!」


「なんだよ、お前からのエールって? 嫌な予感しかしないんだけど」


 こちらにはお構いなしでさくらんぼが言葉を続ける。耳を傾けながらも階段を登る足は止めない。背後から盛大な拍手が聞こえてくる。現在、太田山公園内で開催されている桜祭り。その目玉である【鐘ヶ淵かねがふち梵鐘ぼんしょう】実写映画化イベントも順調に進行しているようだ。スマートウオッチの時刻に視線を落とすと予定よりも押している。どうやら原作者である僕の親父、香月誠治郎かつきせいじろうの舞台挨拶も成功したようだ。映画イベントの開催時間が押しているのも引き延ばし作戦が順調だった証拠だな。ほっと胸をなでおろす。


「じゃあ、恵一お兄ちゃん、良く聞いていてね。いくよ!!」


 ああっ、桜祭りの歓声に気を取られて完全に油断してしまった。慌ててさくらんぼの通信に耳を傾ける。


「……はああっ!! すうっ」


 さくらんぼがまた大きく深呼吸する音がイヤフォンに届いた。


『恵一おにいいいちゃあぁぁぁ~~~ん!! ファイト!! ぜったい藍お姉ちゃんを救い出してしっかり告白するんだよ!! これはさくらんぼとの約束!!』


「うわっ、ヤバい!?」


 すっかり油断していた僕は妹からの熱いエールに驚いて危うく階段を踏み外しそうになってしまった。感度の良いイヤフォンのおかげで鼓膜が破れたかと思うほどの大声だった。


「……ふうっ、これでスッキリした!! 聡くん、どうもありがとうね」


「さ、桜さん、だから俺にイヤフォンをミュートしておけ。って言ったんですね。いまの大声で訳が分かりました」


 僕にエールを贈る何て言いつつ、飛び切りのかつで気合を入れたんだな。まったく、さくらんぼらしいな。そして僕は妹が無事に生還できた喜びを噛みしめる。

 だけど安堵するのはまだ早過ぎる。いまだ救われていない姉弟が目の前には存在しているのだから……。


「ふたりともありがとうな。おかげさまで目が覚めたよ。いまはごちゃごちゃ悩んでいる場合じゃない。藍をこの世界に連れ戻すことだけを考えるよ。……聡くん。必ず君とお姉さんを会わせる。そして元の幸せな生活を彼女に過ごしてもらうんだ」


「……恵一さん。姉貴をよろしくお願いします」


 彼の短い返答に込められた強い感謝の念がマイクを通じてこちらまで伝わってくる。


 心地よい夜風が僕の首筋を通り抜ける。いよいよ今回の最終目的地だ。視界が一気に開け、君更津きみさらず市のきらびやかな夜景のむこう側に漆黒の東京湾が広がる。


 きみさらずタワー最上階にある展望台。ここで藍は僕が来るのを待っているはずだ……。



 次回に続く。

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