ひとすじの希望
「……さくらんぼ!!」
こちらの問いかけに彼女はゆっくりと顔を上げる
「……!?」
車椅子に乗せられていたのは確かに僕の妹の
「……あなたは誰ですか?」
「僕が分からないのか?」
「……」
「そうか、分かったぞ。これは何かの冗談なんだろう。なあ、さくらんぼ。いつもの茶番劇ならもう十分に驚いたからお前も満足しただろう。この辺で終わりにしてくれないか」
相手を怖がらせないようにつとめて優しく語りかける。しかし逆効果だったみたいだ。さくらんぼはおびえた表情から一転して
「言っている意味が分らない。私はあなたのことなんか知らない!!」
――記憶喪失!? 先ほどの
「さ、さくらんぼ、いったいどうしちまったんだよ……」
まるで赤の他人をみるような冷たい視線に困惑してしまう。妹の態度は完全にこちらを拒絶している。その場で呆然と立ち尽くす僕の隣で、聡が悲痛な表情を浮かべながら深いため息をつく姿がこちらの視界の端に映る。
「……もういいだろう、
これまで車椅子の背後で沈黙を守っていた親父が口を開く。いつもの
「
「……ああ、聡くん、気を使わせて悪いな」
聡が病室から立ち去った。僕たち親子の対面に同席するのを遠慮したのだろう。細やかな気配りが出来るのも彼の姉である藍に似ているな。
「どうやら桜はまた眠ってしまったようだな。恵一、いきなり驚かせてすまなかった」
「……さくらんぼ!?」
先程までおびえていたはずの妹はいつの間にか眠っていた。思わず車椅子のそばに駆け寄ってしまう。真近で見るさくらんぼの寝顔はとても穏やかに感じられ、僕はいったん安堵の息を漏らした。
「親父、さくらんぼはいったいどうしちまったんだよ? まるで電源スイッチが切れたみたいにいきなり眠ってしまったぞ。それに僕の顔を見てもまったく分からないなんて……」
思わず親父に質問を矢継ぎ早に投げかけてしまった。
「……恵一、これからお父さんのする話を落ち着いてよく聞いて欲しい。お前が別の世界線からこちら側にやって来た
「なっ……!?」
親父がいきなり口にした驚愕の事実に僕は二の句が継げなくなってしまった。
「どうして桜が突然、睡眠状態に陥るのかは不明だ、まったく原因は分かっていない。いまは意識を失った際の急な転倒を防ぐため、車椅子で介助をしている状況だ……」
「それじゃあ、僕のことがまったく分からないのも何か関連があるのか……?」
「恵一についての記憶だけじゃない、俺も含めて桜は過去の記憶を完全に失っているんだ」
さくらんぼはやっぱり記憶喪失になってしまったのか……。こちら側の世界線ではいったい何が起こっているんだ!?
「これまで起こった事実だけを簡潔に抜き出して伝えるぞ。桜がこの状態になったのは約二年前からだ。これから伝える内容は恵一にとってかなり酷な話になるかもしれないが……」
親父は肝心な所で続きを言いよどんでしまう。なぜさくらんぼの記憶喪失について僕に告げるのをそんなにためらっているのか?
「……こちら側の世界線では二年前の四月一日に
「藍が行方不明だって!?」
四月一日。日付けの妙な符合。満開の桜が咲き誇る太田山公園で、亡くなったはずの幼馴染、二宮藍が成長した姿で僕の目の前に現れた日だ。こちら側の世界線で彼女は同じ日に行方不明になっているとは……。まったくの偶然とは思えない。
「まあ、最後までちゃんと俺の話を聞け。最愛の相手を失った香月恵一。この場合はこちら側の世界線に存在するもうひとりのお前のことを指している。失意に暮れた恵一は半狂乱になって彼女を探し回った。そしてその捜索の最中に
あの県道沿いにある大きな交差点か!? 昨日、楽園の前から何げなく眺めた風景に僕が感じた嫌な予感が的中してしまうとは……。
「そんな残酷な運命ってあるかよ。藍だけじゃなく、さくらんぼまで……」
ちくしょう、僕の身代わりになってさくらんぼがこんな変わり果てた姿になってしまうなんて。運命のいたずらにしてはひどすぎる。君更津中央病院の病室で僕がみた夢の中で藍に叫んだ言葉がリフレインする。
【馬鹿なことを言うな!! そんな横暴な神様は僕が絶対に許さない】
やり場のない怒りがこみ上げてくる。どうしてさくらんぼがそんな目に遭わなければならないのか……?
「お、親父、じゃあさくらんぼが治る見込みはないのか!?」
「不幸中の幸いで事故の傷も癒えて桜の身体的にはまったく別状はない。脳波もいたって正常だ。しかし記憶喪失と、いきなり昏倒状態になる件については不明のままだ。昏倒後から睡眠に移行する間隔も次第に長くなってきている。担当の医者も手の施ほどこしようがないとの見解だ。ただしその見解は現代医学での話だ……」
「ただし、ってその含みを持たせた口ぶりは何だよ? 親父、何かさくらんぼの症状に関して医者が解明出来ていない秘密でも知っているんじゃないのか!!」
「恵一、自分の目で確かめてみろ、きっと桜もそう望んでいるはずだから」
そう言って親父から手渡されたのは、さくらんぼの作ったプロット帳だった。
「何なんだよ、親父。さくらんぼについて大事な話をしている最中だぞ。小説のプロットなんか後回しで構わないんじゃないのか?」
「……恵一、いいから黙って中を見てみろ」
以前、売れない純文学作家である親父を心配して妹が流行りのラノベのエッセンスを草案にしてまとめた苦心の一冊だ。こちら側の世界線にも同様な物が存在していたんだ。僕は感慨深くプロット帳の
「こ、これは……!?」
次回に続く。
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