パラダイスの亡霊

「……恵一さんとふたりっきりで楽園パラダイスに泊るなんて何年振りでしょうね。えっと、俺が中学三年生の夏休み以来だから。まあ細かいことは別にいいか。ゆっくり一晩中語り合うのも久しぶりということで、まずは乾杯でもしましょうか!! なんてお酒じゃなくこれはコーヒーですけどね」


 挽きたての豆の豊潤な香りが楽園の室内に広がった。聡が慎重な動作で僕のカップにコーヒーを注いてくれる。


「コーヒーを淹れるのに実験用のビーカーを使うなんて、相変わらず変わり者の親父らしい趣味だな」


「残念、違いますよ、香月先生じゃなく俺の趣味で楽園ここに置かせて貰ってます。こうみえても理系学生なんで」


 ――かなり意外な展開だ。


 あいの一つ年下の弟、二宮聡にのみやさとし。元々いた世界線では彼と僕との接点はあまり交わらない関係性だった。僕と藍は幼馴染として妹のさくらんぼも加えて三人で良く遊んでいた。このパラダイスでもそうだ。藍が聡を連れて来たことは記憶の限り一度もない。当時の話では聡が少年野球のチームに所属しており、そのなかでも将来有望な選手なので日々の練習が忙しいとのことだった。


【えへへ、聡くんは私みたいに身体も弱っちくないから……。それにね、放課後や土日も野球の試合や練習で藍と遊んでるほど暇じゃないの】


 藍はいつもの困ったような笑顔を見せながら弟について話してくれた。いま思えば彼女は生まれつき病弱な自分と弟の聡を比べて、自分の両親に対して負い目を感じていたのかもしれない……。


 そして意外に思った理由わけは、もうひとつの世界線で聡と僕の関係性がまったく違うということに驚いた。こちら側の世界線に到達した後の断片的な情報から鑑みると彼とは楽園に集まり、くだけた会話を交わすほどの仲の良い関係性になっている様子に思える。これが並行世界パラレルワールドのなせる業なのか。


「……さっきから黙って俺の顔を見つめてどうしたんですか? あっ、うっかり忘れてました。コーヒーは藍お姉ちゃんと同じく恵一さんも苦手でしたよね。すぐに別の飲み物に取り替えます」


「あっ、ううん。別に僕は苦手じゃない。むしろコーヒーは大好物で毎日飲んでいるほどだよ」


 コーヒーが藍の苦手な飲み物なのは当然知っている。彼女の好きな飲み物はハーブティーなんだ。小学生のころ楽園でそれをネタに藍をからかったやり取りを懐かしく思い出す。コーヒーが飲めないなんてお子ちゃまの証拠じゃん!! 偉そうに言う僕の左手には、ご当地のブランドである甘い練乳入りの黄色と黒のパッケージ缶に入ったコーヒーが握られていたっけ。大人になって振り返ってみればどっちもどっちのに違いはないだろう。


 しかしコーヒーが苦手なんて、そんな勘違いを聡はなぜ僕に問いかけるのだろうか?


「……恵一さん、本当にすみません、あなたを試すような質問をしてしまったことをまず謝罪させてください。いまこの場所に香月先生はいらっしゃらないので、これから俺の偽らざる気持ちをはなさせてください」


「聡くん、こちらの見当違いかもしれないけど、君更津きみさらず中央病院で僕たち親子や妹のさくらんぼを見つめるきみの瞳に浮かんでいたのは、悲しみの感情だけじゃない気がしてならないんだ。そう、ううん、何と言って表現したらいいのかな。どこか諦めの色を滲ませている表情かおだった……」


「ふうっ、恵一さんにはやっぱり敵わないな。よく藍お姉ちゃんが言ってましたよ。心配を掛けまいと平静な態度を装っても、あなたにはすぐに見透かされてしまうって」


 机を挟んた差し向かいからこちらを見つめる聡の真剣なまなざしに、僕は無言でうなずいてみせる。


「……話を聞く前にまずは乾杯をしようか、聡くん」


「はい、恵一さん」


 持ち手のないビーカーに注がれたコーヒーをこぼさぬよう、まるで子猫の身体を上から持ち上げるような指先のしぐさでガラス容器をそっと持ち上げた。傍らの机の上に置かれたを万が一でも汚さぬよう空いている右手で横の位置にずらす。


 ――さくらんぼが自分の記憶を失ってまで僕に伝えたかった藍の真実。行方不明になった彼女あいを助けるヒントがこのプロット帳の中に書かれているんだ……。


「「乾杯!!」」


 お互いの手に持ったビーカーのふちをあわせる。かちりと楽園の室内にガラス特有の軽い共鳴音が響いた。



 次回に続く。

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