パラダイスの亡霊
「……恵一さんとふたりっきりで
挽きたての豆の豊潤な香りが楽園の室内に広がった。聡が慎重な動作で僕のカップにコーヒーを注いてくれる。
「コーヒーを淹れるのに実験用のビーカーを使うなんて、相変わらず変わり者の親父らしい趣味だな」
「残念、違いますよ、香月先生じゃなく俺の趣味で
――かなり意外な展開だ。
【えへへ、聡くんは私みたいに身体も弱っちくないから……。それにね、放課後や土日も野球の試合や練習で藍と遊んでるほど暇じゃないの】
藍はいつもの困ったような笑顔を見せながら弟について話してくれた。いま思えば彼女は生まれつき病弱な自分と弟の聡を比べて、自分の両親に対して負い目を感じていたのかもしれない……。
そして意外に思った
「……さっきから黙って俺の顔を見つめてどうしたんですか? あっ、うっかり忘れてました。コーヒーは藍お姉ちゃんと同じく恵一さんも苦手でしたよね。すぐに別の飲み物に取り替えます」
「あっ、ううん。別に僕は苦手じゃない。むしろコーヒーは大好物で毎日飲んでいるほどだよ」
コーヒーが藍の苦手な飲み物なのは当然知っている。彼女の好きな飲み物はハーブティーなんだ。小学生のころ楽園でそれをネタに藍をからかったやり取りを懐かしく思い出す。コーヒーが飲めないなんてお子ちゃまの証拠じゃん!! 偉そうに言う僕の左手には、ご当地のブランドである甘い練乳入りの黄色と黒のパッケージ缶に入ったコーヒーが握られていたっけ。大人になって振り返ってみればどっちもどっちのお子ちゃまに違いはないだろう。
しかしコーヒーが苦手なんて、そんな勘違いを聡はなぜ僕に問いかけるのだろうか?
「……恵一さん、本当にすみません、あなたを試すような質問をしてしまったことをまず謝罪させてください。いまこの場所に香月先生はいらっしゃらないので、これから俺の偽らざる気持ちを
「聡くん、こちらの見当違いかもしれないけど、
「ふうっ、恵一さんにはやっぱり敵わないな。よく藍お姉ちゃんが言ってましたよ。心配を掛けまいと平静な態度を装っても、あなたにはすぐに見透かされてしまうって」
机を挟んた差し向かいからこちらを見つめる聡の真剣なまなざしに、僕は無言でうなずいてみせる。
「……話を聞く前にまずは乾杯をしようか、聡くん」
「はい、恵一さん」
持ち手のないビーカーに注がれたコーヒーをこぼさぬよう、まるで子猫の身体を上から持ち上げるような指先のしぐさでガラス容器をそっと持ち上げた。傍らの机の上に置かれた例のプロット帳を万が一でも汚さぬよう空いている右手で横の位置にずらす。
――さくらんぼが自分の記憶を失ってまで僕に伝えたかった藍の真実。行方不明になった
「「乾杯!!」」
お互いの手に持ったビーカーのふちをあわせる。かちりと楽園の室内にガラス特有の軽い共鳴音が響いた。
次回に続く。
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