君去らず、悲恋の物語
「……犬の散歩を頼みたいと二人に言ってくれたのは、僕の為だったんですよね、店主さん……」
「香月さんがお嫌じゃなければ、もう少しお話をしたいと思いまして、それと私の呼び方は店主じゃなく
看板犬ショコラのお散歩を革の首輪屋の店主、古野屋さんと見送った。リードをさくらんぼが持ち並んで歩く藍の足取りも軽やかに見える。欧州の街並みを模して作られたという広場の一画にこの店はある。
「……目上のかたを名前で呼ぶのはさすがに気が引けます。普段は周りから何と呼ばれているんですか?」
「店の常連さん達からは何故だか知りませんがマスターと呼ばれますね。私は気恥ずかしいのですが……」
そう言って店主は口角を上げて照れ笑いを浮かべた。
「マスターか、ピッタリですね。師匠として導いてくれそうだし、これからは僕もマスターと呼びます!!」
「私は一介の革職人です。あまり買いかぶり過ぎないでくださいね。まあ革細工でも一人前と言えるかどうかも分からないですから……」
「そんなことないですよ、僕から見れば凄いです。こんな素敵な首輪を自分の手で作れるなんて。どうやるのか想像も出来ません」
店先に並べられた革の首輪、僕の知る既製品の首輪とは全然違っている。大量生産品にはない風合いが感じられる。雑談の中でマスターから聞いたが、オーダーメイドで飼い主さんの要望を取り入れ、ペットにお似合いなだけでなく、革の選定から縫製、フィッティング全てが快適に過ごせることを重視しているとの話だった。
「……マスターが羨ましいです。何かを生み出せると言うことが凄いです。僕には何も出来ません。怠惰に毎日を過ごしているだけでした。藍が亡くなってからの数年間だけじゃない。高校生になってからも、ろくに部活動もせず未練たらしく毎日公園に通うだけの日々でした……」
僕は自分が恥ずかしくなってしまった。幼馴染が亡くなった現実から逃げていた。それを隠れ蓑にして、これまで何も行動しようとしなかったんだ。こんな不甲斐のない男が藍に相応しいはずがない。亡くなる前日に会った時、彼女は僕に言ってくれた。小学校の帰り道にある河原の土手で、よく変顔して私を笑わせてくれた元気な恵一くんが大好きだって……。
今の僕は、あの頃みたいに藍を飛び切りの笑顔にすることは出来るのか? 自問自答する僕にマスターが、おだやかに語りかけてくれた。
「……香月さん、年長者の独り言として聞いて欲しいのですが、私の年齢くらいになると過去を振り返ってあの時こうしておけば、もっと違った道があったんじゃないか? とか過去を振り返って後悔ばかりしてしまいます……」
「……マスター」
「担当医から家内が末期の子宮癌と宣告されたあの病室でも私は後悔しました。何故もっと早く医者に連れて行かなかったのか、家内はその一年前から腹痛や軽微な不正出血があると言っていたのに。私は当時の仕事が軌道に乗り始めたことを理由にして、家内の身体に起きていた変化をそのまま見過ごしてしまったんです……」
まるで懺悔のようなマスターの話に、僕は返す言葉もなかった。
「……そんな後悔を香月さんにはして欲しくないんです。まだ若いあなたなら、やり直せるはずです。亡くなった藍さんが現れたのも、そう言う意味だと思いますよ。私の前に家内が現れたのは意味合いが違うと思いますが……」
「マスター、奥さんが現れた意味が違うって、どういうことですか?」
「家内はきっと愛犬のショコラを心配して現れたに違いありません。私は 彼女に恨まれても仕方ないですから」
「そんな寂しいことを奥さんはしないと思います」
「香月さんは優しい人ですね。あの頃の私に一番欠けていたのはそういう思いやりの心だったのかもしれません」
マスターは力無く僕に笑ってみせた。
「……これは私の推論にしか過ぎませんが。あなたに藍さんの姿が見えたように私に家内の姿が見えたのは、彼女への想いが強かったからだと思います。香月さんのお父様が言った平行世界かは分かりませんが、大田山公園にある桜の木の下に毎日通った時、あなたは何を願いました?」
……藍との思い出深い大田山公園で願ったことだって!?
「僕があの公園で何をお願いしたか。ですか?」
「そうです、香月さんは意識していなかったかも知れませんが、心の底から毎回、強く願ったことがあるはずです」
「僕は……」
……七年前、藍が亡くなった後、半年はあの公園に行けなかった。義務教育の学校だけは抜け殻のようになりながらも通っていた。しかし以前のような明るい性格には戻れなかった。そして仲の良かった友達とも次第に疎遠になってしまった。
親父やさくらんぼにも随分迷惑を掛けたが、二人は僕を辛抱強く見守ってくれた。そんな日々が続き、あっという間に一年が過ぎた。僕はまだ藍の死を認めずにいた。墓前に手を合わせるどころか隣の家にお線香の一本も上げに行かずじまいだった。
「……そうだ、あの日も桜が満開だった」
ちょうど彼女が亡くなってから一年目のある日、僕は親父達を心配させないようアリバイ作りみたいに自転車で出掛けた。行く当てもなく彷徨う内にいつしかあの公園へと向かっていた。
僕の住む住宅街を抜けて坂を下った先に君更津駅前へと向かう国道とぶつかる。僕と藍の家族ぐるみで良く出掛けたハンバーグのおいしいレストラン。亡くなった母の代わりに我が家の家事をするさくらんぼに付き合わされた大手のスーパーマーケット。その先には現在は店じまいしてしまったが三人で良く通ったファミコンショップが視界に入った。そんな些細な記憶まで鮮明に蘇ってくる。
「……あの日、僕は無意識に大田山公園へと向かっていたんです。国道から見上げた先には、きみさらずタワーの先端が見えました」
「きみさらずタワーですか。確か塔の先端には悲恋物語の銅像がありましたよね」
「はい、よくご存じですね。あの頃の僕は何の銅像か知らなくて、埴輪と乙姫様と勝手に名付けて藍から怒られました」
「ははっ、確かに髪型は埴輪像みたいですから、それに乙姫様みたいな
「そうですね。藍からは恋の森のシンボル像を間違える僕は、ロマンもへったくれも無いって言われました……」
きみさらずタワーは太田山公園の中にあり、ちょうど桜の木を見下ろせる位置に建っている。展望台も兼ねていて銅像のある塔の先端の高さは二十八mにもなる。その頂上からの眺めは君更津市街はもとより、東京湾を一望出来る程の絶景だ。この展望台からの眺めが藍はとても好きだった。でも彼女が変わっていたのはパノラマみたいに全周を見渡せる頂上ではなく一段下の階段にある踊り場から見る景色がお気に入りだったな。
「……香月さん、出来れば当時を思い出してみてください。藍さんがその公園に現れた手掛かりがあるかも知れません」
「……はい」
……何故、彼女はあの展望台の場所が好きだったんだろう。過去を追想する僕の脳裏にはあの頃の笑顔が鮮やかに蘇る。円形になった階段の踊り場で手すりにもたれながら微笑む満ち足りた横顔。海風が彼女の髪を揺らす。
『恵一くん、私、ここから見た景色が一番好き!! えっ、
本当の理由を聞く前に、藍は僕の前から永遠にいなくなったんだ……。
次回に続く。
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