過呼吸

「……香月さん、顔色がすぐれないようですが、どこか具合でも悪くなりましたか?」


 マスターから呼びかけられてようやく現実に引き戻される。僕を覗き込む心配そうな顔をゆっくりと見上げた。長い時間考え込んでいたのか広場の大時計の針も随分と進んでいる。アウトレットモールの閉店時間まで一時間を切っていた。


「……すみません。お願いを思いだそうとしたんですが、いくら考えても上っ面だけのことしか浮かびません。あの日から僕はほぼ毎日、大田山公園に通いましたが本音を言えば藍を弔うと言うより、壊れてしまった自分の心を修復するためいわばリハビリみたいな行為だったのかもしれません……」


「……香月さん」


「マスター、ただ、気になることが一つ……」


「気になることですか?」


「太田山公園に行くと必ず二人できみさらずタワーに登ったんです。僕は毎回よく飽きないなと展望デッキから藍をからかいました。それでも彼女はニコニコ笑っていたんです。一段下の階段の踊り場で必ず同じ場所に立ちいつも変わらぬ笑顔で!! そのことが頭に焼き付いて離れないんです……」


 ……はあ、はあ、息が苦しい。一体何が起こったんだ。僕は過呼吸のような状態になり椅子から身を起こした。


 このまま死んでしまうのではないか!? 真っ黒な恐怖にまるで心臓を掴まれたような感覚に囚われてしまった。


「香月さん、落ち着いてください!! 私の指が見えますか? 今から指折りでカウントしますので、それに合わせてゆっくりと息を吸ってください」


「……ひっ、はっ!?」


 喉の奥を痙攣させながら僕は必死で頷いた。言語化出来ず無様な音だけが漏れる。マスターの指に合わせて大きく深呼吸する。他人の身体のように実感がないが、視界の隅で深呼吸に合わせて胸が上下に動くのが見えた。


「……もう大丈夫です。そのまま肩を動かして深呼吸を続けてください」


 歪んだ視界が次第に鮮明化してくる。僕は苦しさのあまり涙を流していたのか!?


「……マスター、僕の身体に何が起こったんですか」


「香月さんは緊張による一時的なパニック障害で過呼吸を引き起こしたんです。生命いのちに関わることはありませんから安心してください」


 僕は藍のことを考えすぎて身体に変調を起こしてしまったのか!? こんなことは初めての経験だ。命に別状は無いと言われてもまだ恐怖で震えてしまう。


「……心配を掛けてすみません。何とか落ち着きました」


「良かった。一時はどうなることかと思いました」


「マスターの適切な判断のお陰です。ありがとうございました」


「香月さんのお役に立てて何よりです」


「でも過呼吸の対応があんなにスムーズに出来るなんて感心しました。やっぱりマスターは何でも知ってますね」


「いえいえ、たまたまアウトレットモールの店舗で合同の救護訓練があったんです。そこで習った成果なんですよ」


 マスターは普段の柔和な笑顔に戻って僕に言った。


「この季節になると、モール内で気分が悪くなるお客さんも多いので、救護訓練も必要なんですよ」


 そう言ってマスターが指さした方向には、救護用のAEDが設置されていた。確かに三月後半から何度か夏日みたいな陽気もあった。特に女性のお客さんの多いアウトレットモールでは、必要なスキルかも知れない。


「……これをどうぞ」


「あ、ありがとうございます」


 マスターが僕にペットボトルの飲料水を手渡してくれた。確かに喉がカラカラだ。キャップを開け、一気に飲み干す。身体全体に水分が染み渡るようだ。


「……こんな状態になった香月さんには酷かも知れませんが、太田山公園に藍さんと訪れてみてはいかがですか。そしてもう一度、きみさらずタワーの展望台に登って」


「マスター、もう一度あの場所へ行くんですか!? それもきみさらずタワーに登るなんていまの僕には……」


「香月さん!?」


 椅子の肘掛けに置いた手が小刻みに震える。僕にはその理由が分かっていた。もう一度、太田山公園に藍を連れていくのが怖いんだ。七年前、永遠に会えないと思った彼女と再会できた場所。でもまた藍は僕の目の前から消えてしまうんじゃないのか? アウトレットモールで見たあの儚い夢のように……。


「……僕は怖いんです。また藍を失うんじゃないかと。あの公園に彼女が現れた秘密があるとしたら、別の何処からかは分かりませんが、例えばトンネルのような物を使ってこちらの世界に来たとしたら。また消えてしまうことだってあるはずだ!!」


 僕は周りを気にせず叫んでしまった。また過呼吸にはならなかったが、通路を行き交う買い物客が怪訝そうにこちらを注視しながら通り過ぎる。やっかいごとに巻き込まれまいと目を合わせないようにするのがこちらからも見て取れた。なぜだろうか、散歩中のワイヤーフォックステリアが不思議そうに僕の顔を見つめていた。


「……」


「……香月さん、私にはこんな場面で偉そうなことは言えません。逃げちゃ駄目だとか。物語みたいなセリフも嘘くさいです。ただ一つ言えるのは後悔だけはしないでください。我々は明日という未来にしか行けません。過去をやり直せたら、そう思うことも人生には当然ありますが、何度もやり直せるイージーモードに私は何の魅力を感じません。その時の選択肢を選んだ自分に恥ずかしくてとても顔向けが出来ませんから」


 静かな口調の中にも力強さを感じさせる。マスターの言葉が僕の胸に、ズシリと響いた。


「……マスター」


「……はい」


「ひとつ教えてもらってもいいですか」


「何でしょうか?」


「亡くなった奥さんがもう一度目の前に現れたとしたら、マスターならどんな言葉を掛けますか?」


「香月さん、どうしてそんな質問を……」


「亡くなった相手に、いまの状況をどう伝えたらいいのか悩んでいます」


 僕はマスターに藍について全て話したと言ったが、まだ一つだけ伝えていないことがあった。上着のポケットからくしゃくしゃの紙片を取り出し、ゆっくりとした動作で彼に差し出した。


「……香月さん、このメモはいったい!?」


「そうです。このメモには藍の秘密が書いてあります。マスターがいまの自分と同じ立場だったら相手にどう伝えますか?」


「私は……」


 マスターが答えを言おうとした次の瞬間。よく通る鈴の音のような鳴き声が広場に響き渡る。


「わん、わん!!」


「恵一くん、お待たせ!!」


「恵一お兄ちゃん、ゴメンゴメン。ショコラくんがお散歩から中々戻ろうとしないから、帰って来れなかったよ!!」


 さくらんぼ達が散歩から戻ってきた。黒いトイプードルの看板犬、ショコラが息を弾ませながらこちらに向かって駆け寄って来た。出かける時と入れ替わりに帰りは藍がワンちゃんのリードを持っている。


「……香月さん、藍さんが着ているのは薄桜色のワンピースじゃないですか?」


 突然のマスターの言葉に僕は驚いてしまった。藍の姿は見えない筈なのに何故、彼女が着ている服が分かるんだ!?


「私にも見えます、ショコラを散歩する藍さんの姿が……」


 何故だ、マスターは、彼女達が散歩に出掛ける時、確かに藍の姿は見えていないと言っていたのに……。



 次回に続く。

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