彼女の重み

「……恵一くん、待った?」


 犬の散歩から戻った藍はとても嬉しそうだった。マスターの作った革のリードの持ち手をしっかりと手首に絡めている。自分の足元を元気よく走り回るショコラがどこかあらぬ方向に行ってしまいそうで心配なんだろう。だけど子供の頃、彼女が僕に良く見せたお馴染みの困り顔ではない。いつもより口角の上がった微笑みが何よりの証拠だ。本当に犬が好きな様子がその表情から見て取れた。


「ショコラくん、駄目!! そんなにリードをグイグイ引っ張っちゃ、首が苦しくなっちゃうよ……」


「あははっ、ショコラくんってば。飼い主さんの所に早く行きたいからって、テンション高過ぎ。このお店が見える前はとてもお利口さんだったのに。でもその仕草かわいいねぇ!!」


 妹のさくらんぼの言うとおりショコラはとても興奮していた。ちょこまかと藍の足元を走る姿は愛くるしいが、リードが伸びる範囲を忘れて全力疾走するので、勢い余って自ら首を吊りそうになってしまう。でも諦めずに後ろ足だけで器用に立ったと思ったら、また反対方向に走り出す。その姿は人間に例えると小柄なフットボール選手さながらに見える。ゴールにトライを決めようと、タックルを避けながら足元をジグザグに走る。


「ワン、ワン!!」


 ショコラ選手の華麗なフットワークが、モールの広場に炸裂し、藍のワンピースから伸びる華奢な白い足にリードが絡まる。この時ばかりは丈夫な革製があだになり、ピンと張ったロープ状態のリードに彼女は足を引っ掛けられてしまった。その拍子にバランスを崩し、大事そうに握っていた指先が解ける。勢いよく解き放たれたショコラの首輪から伸びる白いリードが生き物のように床をのたくった。隣にいたさくらんぼが同時に金切り声を上げる。


「藍お姉ちゃん、危ない!!」


「きゃあっ……!?」


 考える前に身体が動いていた。立ち上がった勢いで椅子が倒れ、固い床で乾いた音を上げて転がる。視界の中でスローモーションのように藍の身体が宙を舞う。彼女の纏った薄桜色の花模様ワンピース、その柔らかなスカートの裾がゆっくりと広がった。


 ……いつもの悪夢と同じ光景だ。どんなに手を伸ばしても彼女には届かない。あの太田山公園の満開の桜の花が散ってしまうように。藍がほの暗い奈落に落ちてくのを僕は止められないんだ……。


 でも今回は夢なんかじゃない。自分が後悔しない選択をするんだ!!



「あいっ!!」


 叫びながら無我夢中で地面を蹴った。シャツの袖口が捲れるのも構わず、僕は藍に向かって精一杯に左腕を伸ばした。彼女を守れるなら、利き腕の一本でも悪魔に差し出してやる!! 不自由な右腕だけになったって構わない……。


「くっ……!?」


 勢いよく床に滑り込んだ僕の身体の上に折り重なるように倒れこむ彼女。とっさに激しい痛みを覚悟した。だか藍の身体は驚くほど軽かった。


 まるでがないみたいに……。


「……け、いいちくん?」


 藍は僕を見つめていた。自分の身に何が起きたか分からない表情で、やがて黒目がちの大きな瞳にゆっくりと光彩が戻ってくる。


「藍、大丈夫か?どこか怪我してないか……」


「……う、うん、大丈夫だよ、ありがとう。恵一くんこそ、身体は平気なの?」


「どこも痛くないよ。昔から言ってるだろ。僕は頑丈だって。藍ぐらい、いつでも受け止められるから……」


 抱きとめた身体から腕を離して、仰向けのまま僕はそう言った。床にぶつけた身体の痛みで、表情が歪まないように注意しながら。

 

「恵一お兄ちゃん、藍お姉ちゃん!! 二人とも急に転倒するから死んじゃったかと思ったよぉ……」


「香月さん、大丈夫ですか!? うちのショコラのせいで申し訳ない……」


 マスターとさくらんぼが慌てて僕達のもとに駆け寄ってくる。騒動を起こしたショコラもマスターの足元に佇んでいた。心なしか耳や尻尾までうなだれて、どうやら反省しているみたいだ。


「キュウウウン……」


 ショコラがゆっくりと藍の側まで来て、真っ直ぐに見上げながら小さく鳴いた。じっと見つめるつぶらな瞳は本当に悲しんでいるようだ。そのままモフモフの身体をすり寄せながら抱っこをせがんでくる。慈しむような仕草で抱き上げた藍に向かって、ショコラはピンと立った可愛い尻尾をピコピコと嬉しそうに動かした。


「……ショコラくんを叱らないでください。私がリードの扱いに慣れていないから。逆に飼い主さんに心配を掛けてごめんなさい……」


 藍がマスターに向かって深々と頭を下げる。その様子を腕の中で神妙な顔でショコラが見つめる。本当に空気が読める賢い犬なんだな。


「……藍さん、想像通りの素敵な女性ですね。お目にかかれて光栄です。先程は名乗らずに失礼しました。首輪屋の店主、古野谷と申します」


 僕と同じようにマスターが帽子を取って藍におじぎをする。散歩前にも藍と会っているのに、まるで初対面みたいな挨拶だな。


「……はい、二宮藍です、こちらこそよろしくお願いします。あっ、私の名前はもうご存じでしたね。古野谷さんは」


「香月くんにはマスターと呼ばれてますので。藍さんも同じで構いませんよ……」


「じゃあ私もマスターさんって呼びますね……」


 マスターに、さん付けなのが彼女らしいな。


「マスターさんかぁ、ですね、私もそう呼んでいいですか?」


 さくらんぼが二人の間に割って入る。でもこの明るさに救われる。何て言ったらいいのか。僕と違って社交的で物怖じしない性格だ。初対面でもどんどん仲良くなれる羨ましいところがある。僕と藍だけだったら、次々に起こる難問に対処出来なかっただろう。


「……桜ちゃん、ぽいなんて失礼だよ!!」


「ふふっ、構いませんよ。面白いですね、妹さんは」


「マスター、私は香月桜です。この無愛想な恵一お兄ちゃんの可愛い出来の良い妹です。以後お見知りおきを!! そうだ、マスターも私のことはさくらんぼって呼んで下さいね」


「こらっ!! 誰が無愛想な兄貴だ。マスター、こいつの言うことは信用しないで下さいね」


「分かりました。さくらんぼさんですね。お兄さんとも仲がよろしくて何よりです……」


「はいっ!! マスターもショコラくんと相思相愛ですね。さっき暴れたのも、早くマスターの側に行きたかったからですもんね」


「……私とショコラが相思相愛ですか。そうかもしれませんね。どちらかと言えば彼に教えられることが多いです。犬の年齢を人間に換算すると、ショコラのほうが先輩ですから……」


「ええっ!! そうなんですか。ショコラくんはいま何歳位!?」


「桜ちゃん、犬の年齢は一歳で人間の成人と同じで、その後は身体のサイズで違うけど、ショコラはトイプードルだから小型犬になりますよね。マスターさん?」


「藍さんの言うとおりです。ショコラは生まれてから七年ですので人間の年齢に換算すると四十代半ばくらいですね」


「ええっ、ビックリ!? ショコラくん、モフモフな可愛い顔してイケてるおじさんなんだ。ふ~ん、イケおじ犬かぁ。あっ、マスターも渋いですよ。イケおじコンビです!!」


「さくらんぼさん、ありがとうございます。こんなおじさんを褒めても何もありませんが……」


「ワン、ワン!!」


「ショコラくんも仲間に入りたいんだね。よしよし……」


 まるでマスターに合いの手を入れたみたいな、ショコラの吠え声に思わず全員で吹き出してしまう。抱っこしている藍の手をペロペロと舐める愛くるしい姿を見ていると思わず和んでしまった。ショコラは究極の癒やし犬だな……。


「……香月さん、ちょっと」


 女の子二人が、ショコラを構っている様子を目を細めて眺めていると、マスターが僕の耳元で呟いてくる。そっと目配せしているのが目の前の二人に聞かせたくない話だと分かった。彼女達から少し距離を置いて話を始める。


「マスター、一体どうしたんですか?」


「香月さん、先程見せて頂いたお父様のメモの件もありますので。まだ藍さん達には聞かれないほうが良いと思いまして……」


 親父のメモか。あれとなにか関係がある話なのか?


「……見えなかったはずの藍さんの姿が、私にも見えたと話しましたよね。その理由が分かりました。先程香月さんが彼女を助けた際にはっきりと確信しました。そして私の亡くなった家内が見えたことにも関係している物があります。それがあって初めて第三者の私にも可能になったんです……」


 マスターは一体、僕に何を話そうとしているのか。亡くなった人と再会出来るという、その答えは何なのか!?



 次回に続く。

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