二回目の永遠の別れ

「――ワンワン!!」


「駄目、ショコラくん、お顔はくすぐったいよ!!」


「ショコラって面食いなわんこ君だね。綺麗な藍お姉ちゃんにばかり甘えちゃってさ。でもはしゃぎ過ぎじゃない、何がそんなに嬉しいのかな?」


 僕とマスターから離れた場所で女の子達のにぎやかな声が上がる。その声に思わず注意を逸らしてしまった。


「……香月さん、答えは簡単でした」


「えっ、 答えは簡単って!? 失礼ですが僕にはマスターの言っている意味が分かりません……」


「香月さん、私は亡くなった家内が現れたとき、それは自分の願望が生み出した幻だと思いました。私の犯した贖罪のために都合良く幽霊が現れたのだと……」


「マスター、あなたはそこまで自分を追い込んで……」


「でも違った。家内は本当に存在したんです。幽霊でもなく、あれは恐らく……」


 マスターが声を詰まらせ嗚咽を漏らした。ガッシリとした肩が小刻みに震える様子がこちらからでも見て取れる。


「幽霊でもないって、それはいったい何なんですか……!?」


「……わ、私は何と言うことをしてしまったのか。答えはショコラです。犬を媒介ばいかいにして家内は現れたんです。でも私の狭い理性が邪魔をしたんです。こんなことが起こるはずがない、私は家内を亡くして頭がおかしくなってしまったんだって。いま思えばあれが家内ともう一度逢える最後のチャンスだったのに!!」


「……ショコラが媒介って!?」


 答えを僕はすぐに理解した。そのことに関連して田舎のお祖母ちゃんから過去に言われた話が脳裏に蘇る。



 *******



『恵一、亡くなった人の側に犬や猫を近寄らせたら絶対に駄目だぞ……』


 子供の頃、親戚の葬儀で言われた言葉だ。幼い日のやり取りまで思い出してくる。


『……何で駄目なの、お祖母ちゃん?』


『犬や猫には見えるんだよ。亡くなった人の魂が。そして、あの世に通じる入り口のありかを見つけるのが得意なんだ。そして、そのまま……』


『……そ、そのまま?』


『ぐわっっと!!』


『うひゃあああっ!?』


『……生きた人間も一緒に、あの世に連れて行かれちまうのさ』


 ……幼い僕には思わずお漏らししそうなほどの程の迫力だったな。あの時のお祖母ちゃんの顔は。でもマスターの言うとおり犬や猫が見ている物の正体は幽霊でもあの世の入り口でもないんだ。



 *******



「……すみません香月さん、すっかり取り乱してしまって」


「仕方がないですよ。僕だって正直、あの日亡くなったはずの藍が公園に現れたときは自分の正気を疑いました。マスターの行動は全然、間違っていないです!!」


「ありがとうございます、もう大丈夫です。話を続けましょう」


「僕にも答えが分かりました。亡くなった奥さんが見えたことも。僕達には見えている藍が最初、マスターには見えなかったことも……」


「香月さん、分かりましたか。そこにはショコラが関係しています。これまで幽霊と呼ばれていた現象の事例にも、ある程度整合性が取れます。さきほど拝見したお父様のメモに記されたもう一つの並行世界パラレルワールド。そしてその平行世界に存在する同一人物。こちらの世界で既に故人であっても生前可愛がっていた犬や猫が何らかの媒介になってこちら側に現れさせるんです」


 これは驚愕の事実だ。普段の僕ならこんな荒唐無稽な話は絶対に信じないが、実際に藍を目の当たりにした後では認めざるを得ない。親父の渡してくれたメモの冒頭には意味不明なの数字が記されており、意味ありげに赤いアンダーラインが引いてあった。その後に親父の文章が続く。


【恵一、藍ちゃんが他界してから、お前が太田山公園に毎日通っていたことはお父さんも桜から聞いている。お前の藍ちゃんへの想いは強い思念としてあの公園に渦巻き一つの磁場的存在になったはずだ。有名なSF小説や映画でもある事例なんだ。亡き女性への想いだけでタイムスリップを成功させた話も。ここまで読んで笑うなよ。お父さんは真剣だ。その小説や映画は実際の事件を元にしている。アメリカのある州の空港で不審者が逮捕された。その男は未来から来たと言って初めは相手にされなかったが、その後数年間に起こることを予言してほぼ的中させたんだ】


「……最初、このメモを読んだときは半信半疑でした。だけど藍が現れた件と、マスターの奥様の話と照合するとあまりにも合致することが多いんです」


「そうですね、私も長い間の胸のつかえが取れたようです。亡くなった家内が現れたときも、傍らにはショコラが居ました。そして私が藍さんの姿が見えたときも、そこには……」


「……ショコラが一種の媒介としての働きをして、そこにマスターの亡き奥様への想いが重なり、一種の磁場が形成された。僕のときと一緒かもしれません!!」


「香月さんの場合は、藍さんへの想いが更に強かったんだと思いますが。それ以上に他の理由がある気がします……」


「他の理由って!? マスター一体それは何ですか」


「前にも話した、きみさらずタワーに秘密がある気がします。香月さん、その件は後日、現地に行かれたほうが良いと思います。あの場所に近寄りたくない気持ちはよく分かりますが……」


 マスターは僕に気を使ってくれた。バニック症状を起こしたばかりだ。あの場所に藍を連れて行きたくはない。もう彼女を失いたくないんだ。そして僕は不安な気持ちを振り払うように、親父のメモに視線を落とした。


【そして男は留置された施設から数ヶ月後、忽然と姿を消したんだ……。男は取り調べのとき、言っていたそうだ。亡くなった恋人に会いに来たと。藍ちゃんがあの公園に現れたのはきっとお前の強い思慕の念が彼女を呼び寄せたんだ。もう一つの時間軸で亡くなっていない藍ちゃんを。そう、その男とは逆に対象の人物をこちらの世界に引き込んだんだろう】


「マスター。このメモの仮説とショコラが関係していることを鑑みれば……」


「……恵一お兄ちゃん、ショコラが関係って何!?」


「さくらんぼ!?」


 しまった!! 僕は話に夢中になりすぎた。離れた場所で二人は、ショコラと遊んでいると思った。声を掛けられ、振り向いた視線の先には……。


「……恵一くん」


 ……ショコラを胸に抱いた藍が立っていた。真っ直ぐに僕を見つめる瞳。そこには一片の迷いも浮かんでいなかった。


「……あ、藍!?」


「恵一くん、もう私、何を聞いても大丈夫だよ!! あの頃の弱っちい藍じゃないから。それに現実から逃げるのはもう嫌なの。お買い物やショコラくんとのお散歩が楽しすぎて、そのことから目を逸らしていたけど。家族と暮らした家が、跡形も無くなったのを私は見てしまった。あの瞬間から、昨日までの平凡な自分には戻れないって……」


 そう言って彼女は慈しむようにショコラの頭を撫でて、そっと自分の足元に置いた。


「……キュウウン!!」


「……お散歩楽しかったよ、ショコラくん」


 彼女の顔は何故かとても晴れやかだった。これまで見た藍の笑顔で一番輝いて見えた……。


「マスターさん、ありがとうございました!! ショコラくんって、本当にお利口さんですね。お散歩出来て、とても嬉しかったです……」


「……藍さん、こちらこそお会い出来て光栄です」


 マスターが彼女に向かって会釈をした。


「待てよ藍、駄目だ……!!」


 僕の身体に、電気が走ったような感覚がこみ上げる。この感覚は忘れたくても忘れられない。


【藍ちゃんが今朝亡くなった……】


 あの日の親父の言葉と共に不快な感覚に胸が圧し潰されそうになる。


「……藍お姉ちゃん!!」


「桜ちゃん、お買い物すっごく楽しかった。ショートカットもよく似合うよ!!」


「う、ううっ、藍お姉ちゃん……」


 その場に泣き崩れるさくらんぼ。涙の意味が僕にも分かる。広場の時計が無情に時を刻む。


「――ねえ、恵一くん、最後に教えてくれる。の世界の私は幸せだったのかな?」


「藍っ!! 何を言ってんだ。お前は一人しかいねえよ!! 頼むよ、また僕を置いていったら承知しないぞ……」


「あっ、その口調、子供の頃の恵一くんに戻ったみたいで嬉しいな。桜ちゃんに怒られるから、変えてくれたんだよね。藍お姉ちゃんをいじめないで、って言われて……」


「……もうやめてくれ、藍、もういいんだ。このままこっちの世界で僕と一緒にいてくれ」


「私、短い間だったけど楽しかったよ。 こっちの藍がとても幸せだったってことも分かったし。答えを聞かなくても恵一くんの顔見てるだけで、ずぅっと大切に想ってくれていたこと全部伝わったよ!!」


「……藍お姉ちゃん、もういいよ。それ以上は言わないで。やっとまた会えたのに、本当のことを喋っちゃ駄目!!」


「藍いいっ、だめだ行くなっ!!」


 あらん限りの叫び声を上げながら僕は必死に手を伸ばした。その指先が藍まで届きそうなあと僅かな距離。何度でも助けてやる、届け!!


「……恵一くん、もう一人の藍ちゃんのこと絶対忘れないであげてね。忘れたら私がしないから!!」


 藍の身体がはかなげに透き通った。その場にへたり込むさくらんぼの姿がその透けた身体を通して反対側に見えた。


「……さよなら恵一くん」


 ふうっ、と一瞬、彼女の口元から大きな溜息が漏れ、その震える唇が何かの言葉を呟いた……。


「……藍!?」


 僕の指先は彼女に届かなかった。


 ひとすじの涙がその頬に流れるのを僕はただ眺めるしか出来なかった。藍に届くはずだと思った指先は虚しく空を切る……。


『大好きだったよ……』


 彼女が残した最後の言葉。僕には確かに、そう聞こえたんだ……。

 

 先程まで彼女が大事そうに握りしめていた革製のリード。その先端が、あるじのいなくなった地面に軽い音を立てながら落ちる。ショコラが虚空を見上げ、悲しそうに短く鳴き声を上げた。



 そして藍は僕達の前から完全に姿を消した……。



 次回に続く

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