春への扉
見上げた先にはきみさらずタワーの頂上に向かう通路には、らせん状の階段が続いていた。抜けるような青空が僕、
「さくらんぼ。僕からもっと離れろ!!
「うん、
「おう、無茶は承知の上だ。じゃあ行ってくるよ」
「お兄ちゃん!!」
下り階段への降り口でさくらんぼの足が止まった。いつになく真剣なまなざしを言葉と一緒に投げかけてくる。妹の表情に去来する僕への想いを理解した。
「……気を付けてね」
短い言葉に込められた意味。長年いっしょに過ごして来た兄妹の関係だから分かる。さくらんぼはむこう側の世界線に赴こうとする僕に必ず生きて帰ってきて。そう言いたかったはずだ。だけど縁起でもない言葉を作戦実行の前に口にするのをためらったのだろう……。
下りのらせん階段にさくらんぼの靴音だけが響く。その音が完全に聞こえなくなるのを待ってから僕はBCLラジオの操作を再開した。ポータブル電源からラジオ本体に伸びる配線と電圧の目盛りを最終チェックした後で、三連に並ぶ操作スイッチのいちばん左側にある電源をオンにする。
鈍い音と共に受信感度を示すインジケーターの赤い針が右に大きく振れる。感度は
平行世界と繋がるための秘訣を、このBCLラジオ改を僕に託してくれた父親の
【恵一、お前はこのラジオを手にした瞬間から、もうすでに成功しているんだ。あとは強く信じて自分の心の中で平行世界を念じるだけだ……】
子供のころ、あの
【恵一、そのメモに記した地図はむこう側の世界のある場所を示した物なんだ。きっと藍ちゃんを救う役に立つはずだ。いまは分からなくてもいい。だけど絶対にこのメモを無くすんじゃないぞ】
親父、売れない作家にしては伏線の貼りかたが謎に巧妙すぎるよ。もしも息子である僕が気付かずに藍の救出に失敗してたら恨んでも恨み切れないからな。
僕はむこう側の平行世界を強く心の中に念じた。前回と大きく違うのは彼女の姿をを思い浮かべたことだ。
『恵一くん、私、ここから見た景色が一番好き!! えっ、
きみさらずタワーは太田山公園の中にあり、ちょうど桜の木を見下ろせる位置に建っている。展望台も兼ねていて、銅像のある塔の先端は28mにもなる。その頂上からの眺めは君更津市街はもとより、東京湾を一望出来る程の絶景だ。この展望台からの眺めが藍は好きだった。でも彼女が変わっていたのはパノラマみたいに全周を見渡せる頂上ではなく、一段下の階段にある踊り場から見る景色がお気に入りだった。
……何故、彼女はあの展望台の場所が好きだったんだろう。過去を追想する僕の脳裏にあのころ見た笑顔が鮮やかに蘇る。円形になった階段の踊り場で手すりにもたれながら微笑む満ち足りた横顔。海風が彼女の髪を揺らす。
その様子を想い続けると同時にめまいのような感覚に襲われて僕は思わず目を閉じてしまった……。BCLラジオのスピーカーから流れる音が自分の作りだした暗闇に広がった。雑音に混じってはっきりとした言葉が僕の耳に飛び込んでくる。
当時物のラジオとしては大口径のスピーカーからハウリング気味の雑音に混じって聴こえてきた声の主は……。
『この声は……。藍!?』
彼女の声だ!! この僕が間違えるはずがない。
『……け、いい、ち、くん』
スピーカーから途切れ途切れに聴こえてくる藍の言葉。不明瞭だが僕の名前を呼んでいる。
「……ううっ、何なんだよ!?」
その声を聴いた瞬間、強烈な頭痛に襲われてしまう。あまりの激痛にBCLラジオに触れた左手の指先がけいれんを起こしそうになる。慌てて反対側の手で抑え込みチューニングダイヤルの目盛りがずれるのをかろうじて防ぐことに成功した。
しかし僕が抵抗出来たのはそこまでだった。目の前の視界がぐにゃりと歪み始め、上下左右の並行感覚が身体から一気に失われていく。きみさらずタワーの踊り場にそのまま倒れ込んでしまう。完全に身体の制御を失った僕の耳にはBCLラジオから流れる藍の叫び声しか届かなかった。
『恵一くん、こっちの世界に来ちゃだめ!!』
彼女は確かにそう言ったはずだ。なぜ藍は僕に向かって必死な口調で警告しているのだろうか? すぐに身体を起こして確認出来なかったのはその場で意識を完全に失ったからに他ならない。
そして次に目を開けるとむこう側の世界に到達していた。なぜそんなことが瞬時に分かったのか? それは前回と同じ違和感が僕の全身を包んでいたから。あの幼い日々に過ごした
「……何だ、あれは!?」
――そう、僕はむこう側の世界線に存在するきみさらずタワーの踊り場に呆然と立ちすくんでいた。
次回に続く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます