春への扉

 見上げた先にはきみさらずタワーの頂上に向かう通路には、らせん状の階段が続いていた。抜けるような青空が僕、香月恵一かつきけいいちの視界に映り込む。思わず感極まってしまうのを抑えきれない。そして心の中でゆっくりと彼女に語りかける。


 あい、君のいない春を迎えたのはこれで何度目だろう。やっと僕はこの場所に立つことが出来たよ。藍との想い出が色濃く残るこの展望台に足を踏み入れたくないほど過去のトラウマになっていたんだ。大切な人を失った悲しみを思い出して過呼吸になった件は言っていなかったよね。そんな不甲斐ない僕を笑わないでくれ、BCLラジオに伸ばした指先が震えているのはほんのご愛敬さ。


「さくらんぼ。僕からもっと離れろ!! 楽園パラダイスのときよりもBCLラジオ改の外部バッテリー出力を上げてある。今回は何が起こるか分からないからな」


「うん、恵一けいいちお兄ちゃん、分かったよ。……くれぐれも無理はしないでね。って言ってもこの計画自体が無茶なんだけど」


「おう、無茶は承知の上だ。じゃあ行ってくるよ」


「お兄ちゃん!!」


 下り階段への降り口でさくらんぼの足が止まった。いつになく真剣なまなざしを言葉と一緒に投げかけてくる。妹の表情に去来する僕への想いを理解した。


「……気を付けてね」


 短い言葉に込められた意味。長年いっしょに過ごして来た兄妹の関係だから分かる。さくらんぼはの世界線に赴こうとする僕に必ず生きて帰ってきて。そう言いたかったはずだ。だけど縁起でもない言葉を作戦実行の前に口にするのをためらったのだろう……。


 下りのらせん階段にさくらんぼの靴音だけが響く。その音が完全に聞こえなくなるのを待ってから僕はBCLラジオの操作を再開した。ポータブル電源からラジオ本体に伸びる配線と電圧の目盛りを最終チェックした後で、三連に並ぶ操作スイッチのいちばん左側にある電源をオンにする。


 鈍い音と共に受信感度を示すインジケーターの赤い針が右に大きく振れる。感度は最大MAXだ。いまの電子式チューナーラジオと違い、アナログな丸いダイヤルでチューニングする方式の四角い筐体のBCLラジオ。無数のスイッチや計器が全面に並ぶ。さらに僕の親父はこのラジオにも改造を施していたんだ。短波放送を受信するための切り替えスイッチ。その隣に普通は存在しないスイッチの位置が新たに増設されていた。そこには並行世界パラレルワールドのPの頭文字が印字されている。


 平行世界と繋がるための秘訣を、このBCLラジオ改を僕に託してくれた父親の香月誠治郎かつきせいじろうに問いかけたときのことが思い出される。


【恵一、お前はこのラジオを手にした瞬間から、もうすでに成功しているんだ。あとは強く信じて自分の心の中で平行世界を念じるだけだ……】


 子供のころ、あの楽園パラダイスでの成功体験を思い出す。いま僕が立っているきみさらずタワーのある公園で、亡くなったはずの二宮藍にのみやあいと二度目の再会した後で自宅に彼女を連れて帰った際に、親父が僕に手渡してくれたメモに書かれていた謎の地図。そのことについて問いかけた答えの中にヒントが隠されていたとは。当時の僕には想像もつかなかった。


【恵一、そのメモに記した地図はむこう側の世界のを示した物なんだ。きっと藍ちゃんを救う役に立つはずだ。いまは分からなくてもいい。だけど絶対にこのメモを無くすんじゃないぞ】


 親父、売れない作家にしては伏線の貼りかたが謎に巧妙すぎるよ。もしも息子である僕が気付かずに藍の救出に失敗してたら恨んでも恨み切れないからな。


 僕はむこう側の平行世界を強く心の中に念じた。前回と大きく違うのは彼女の姿をを思い浮かべたことだ。


『恵一くん、私、ここから見た景色が一番好き!! えっ、理由わけ? 恥ずかしいから秘密だよ……』


 きみさらずタワーは太田山公園の中にあり、ちょうど桜の木を見下ろせる位置に建っている。展望台も兼ねていて、銅像のある塔の先端は28mにもなる。その頂上からの眺めは君更津市街はもとより、東京湾を一望出来る程の絶景だ。この展望台からの眺めが藍は好きだった。でも彼女が変わっていたのはパノラマみたいに全周を見渡せる頂上ではなく、一段下の階段にある踊り場から見る景色がお気に入りだった。


 ……何故、彼女はあの展望台の場所が好きだったんだろう。過去を追想する僕の脳裏にあのころ見た笑顔が鮮やかに蘇る。円形になった階段の踊り場で手すりにもたれながら微笑む満ち足りた横顔。海風が彼女の髪を揺らす。


 その様子を想い続けると同時にめまいのような感覚に襲われて僕は思わず目を閉じてしまった……。BCLラジオのスピーカーから流れる音が自分の作りだした暗闇に広がった。雑音に混じってはっきりとした言葉が僕の耳に飛び込んでくる。


 当時物のラジオとしては大口径のスピーカーからハウリング気味の雑音に混じって聴こえてきた声の主は……。


『この声は……。藍!?』


 彼女の声だ!! この僕が間違えるはずがない。


『……け、いい、ち、くん』


 スピーカーから途切れ途切れに聴こえてくる藍の言葉。不明瞭だが僕の名前を呼んでいる。


「……ううっ、何なんだよ!?」


 その声を聴いた瞬間、強烈な頭痛に襲われてしまう。あまりの激痛にBCLラジオに触れた左手の指先がけいれんを起こしそうになる。慌てて反対側の手で抑え込みチューニングダイヤルの目盛りがずれるのをかろうじて防ぐことに成功した。


 しかし僕が抵抗出来たのはそこまでだった。目の前の視界がぐにゃりと歪み始め、上下左右の並行感覚が身体から一気に失われていく。きみさらずタワーの踊り場にそのまま倒れ込んでしまう。完全に身体の制御を失った僕の耳にはBCLラジオから流れる藍の叫び声しか届かなかった。


『恵一くん、こっちの世界に来ちゃだめ!!』


 彼女は確かにそう言ったはずだ。なぜ藍は僕に向かって必死な口調で警告しているのだろうか? すぐに身体を起こして確認出来なかったのはその場で意識を完全に失ったからに他ならない。


 そして次に目を開けるとむこう側の世界に到達していた。なぜそんなことが瞬時に分かったのか? それは前回と同じ違和感が僕の全身を包んでいたから。あの幼い日々に過ごした楽園パラダイスの室内でそれまで手にしていたはずのラムネ瓶が、いつの間にかコーラの瓶に替わっていたように。場所は変わっていないのに細部ディティールが異なる世界に思わず目が眩みそうになる。


「……何だ、あれは!?」


 ――そう、僕はむこう側の世界線に存在するきみさらずタワーの踊り場に呆然と立ちすくんでいた。




 次回に続く。

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