ラムネ瓶

『恵一お兄ちゃん、BCLラジオのアンテナはステンドグラスの方向にむけて、先端をめいっぱい伸ばしておいたからね。藍お姉ちゃんはお尻の下にクッションを敷いてね。階段箪笥の上は固くて座りごこちが悪いといけないから……』


『ありがとう……。桜ちゃんの順番は先じゃなくていいの?』


 いったん藍はBCLラジオのジョグダイヤルから手を離し、さくらんぼに向き直ってからお礼をつげる。僕はとても喉が渇いて、手に持ったラムネ瓶から炭酸水を口の中に流し込む。行儀が悪いとさくらんぼからは怒られるが、一番美味しく感じる飲みかたはラッパ飲みだ。瓶の中でビー玉が転がって軽快な音を立てる。夏の風物詩みたいなこの音が僕は好きで、夏の間だけは良くラムネを選んでいたな……。


『私はあとで大丈夫。それに別の世界にいる自分とお話しが出来るなんて……。 そんな素敵なことが本当にあるならすごいことだよ!! でもね、何を質問したらいいのかまだ悩み中なんだ。悪いけど藍お姉ちゃんがお話ししている間に考えさせて』


 僕はえも言われぬ高揚感につつまれていた。横で会話を交わす女の子二人の声をうわの空で聞いている。欲しくてたまらなかったおもちゃをやっと買ってもらえた気分だ。平行世界と繋がることが出来る最上級のアイテム。それを手にした僕の暴走は次第にエスカレートしていく。


『さくらんぼは、いつも肝心なときにビビりだからな。まあいいさ。僕は藍の教官役になるから!!』


『ええっ、恵一くんが私の教官!?』


『馬鹿もん!! 上官にむかってその口のきき方はなんだ!! 僕のことは香月隊長と呼べ』


『も、もう始まってるの……!? わ、わかりました、香月隊長!!』


『あ~あ。また恵一お兄ちゃんの戦争ごっこがはじまった……。藍お姉ちゃん、無理に調子を合わせなくても構わないからね』


 ステンドグラスの埋め込まれた窓の手前にある古材を利用した長机。そこに肘をつきながら、さくらんぼは僕たちのくり広げる茶番劇の観客になった。妹のあきれ顔を横目に僕の一人芝居は続く。


『よし!! パラダイスアーミー所属、二宮藍通信兵に作戦内容を伝達する。これは軍の最重要機密だから極秘裏に進めなければいけない!! わが楽園軍は順調に領土を拡大している。この快進撃をとめてはならない。香月誠治郎博士かつきせいじろうはかせがついに平行世界の存在を発見した。これは朗報である!! 博士の説明によると平行世界とは文字どおり、我々の住む世界のすぐ隣に存在しているそうだ。そして増えすぎた我が国の移住先に最適な場所と聞いている。この重要なファーストコンタクトの任務を命ずる!! もちろん失敗はゆるされない……』


『……りょ、了解しました』


 親父から教えてもらった平行世界の概念にアドリブを加えて、この作戦を考えたんだ。作戦の内容を聞いてあっけにとられる藍。ただでさえぱっちりとした瞳が左右に揺れ動いている。


『……香月隊長に質問です。もしも失敗したらどうなるんですか?』


『二宮通信兵、良い質問だ!! 万が一失敗したらお前の命はないと思え……』


 ――それまで左右に泳いでいた彼女の瞳の動きが完全に止まった。


 藍の細い肩が一度だけ震えた。その拍子に真っ直ぐな長い黒髪が揺れ、かすかに前髪のすき間から覗いた、おでこの白さがひときわ際だって感じられる。まさか自分の言葉で彼女を傷つけているなんて、僕は夢にも思わなかった。藍の身体を蝕む病気のことも、その陶器のような白い肌の理由わけも何も知らなかった……。


『痛てっ……!?』


 いきなりさくらんぼから後頭部を殴られた。その勢いで僕のかぶっていた帽子が軽い音を立てながら床に落ちる。当時大好きだったプロ野球チームの帽子だ。よく通った駄菓子屋の抽選クジで集めた、プロ野球に関係するピンバッジが何個も付けられていた。


『恵一お兄ちゃん!! 悪乗りしすぎだよ。藍お姉ちゃんをそんなに怖がらせてどうするの!? すっかり怯えているじゃない……』


『痛ってえな!! さくらんぼ。僕が藍をいじめたのは悪かったけど、特大号のカドで殴るのはやめてくれよ。本気で痛いから……』


 古民家の柱を利用してしつらえた風合いのある長机。そこに置かれていた分厚い少女漫画雑誌、なかよき特大号のかどで僕は思いっきり殴られた。もちろん、その漫画雑誌はさくらんぼの愛読書だ。


『……藍お姉ちゃんをいじめないであげて』


 僕は何度、同じことを繰り返すのだろうか? 大人になったあとで気がついても遅いのに。


『桜ちゃん。私は大丈夫だから心配しないで。ちょっと恵一くんの話にびっくりしただけ。あっ!? ごめんなさい。香月隊長って呼ばないと駄目なんだよね」


『あ、ああ。二宮通信兵、作戦を続けようか……』


『はいっ!! よろしくお願いします。香月隊長』


『……先ほどは隊長にご無礼をして誠に申し訳ありませんでした!! 私も通信兵の務めにつかせて下さい。さくらんぼも頑張ります!!』


『さくらんぼ、お前……。よしっ!! 二宮通信兵の次に作戦遂行にあたれ。それまで待機すること』


『了解しました!!』


 さくらんぼも今回の作戦行動に力を合わせてくれている。心の中で僕は妹に感謝をした。

 この場の空気を悪くしたくない。そんな藍の精一杯の気配りに応えてやらなければならない。楽園ではみんなで仲良くけんかをしない。それが僕たちの決めた唯一の約束だったから……。


 僕たちの秘密基地、楽園の窓に太陽の光が差し込んだ。藍が苦心して仕上げたステンドグラスに描かれた花模様の紋章。教会の礼拝堂に長く飾られていたものだと持ち主の彼女は説明してくれた。その鮮やかな色彩は主に緑、青、そしてひときわ目立つ中央の赤。その三原色が作り上げるまばゆい光がBCLラジオの四角い筐体に降りそそぐ。ステンドグラスまで長く伸ばしたアンテナにもその輝きを落とした。


『二宮通信兵!! 今だ!! ラジオのジョグダイヤルをまわせ!! そして数字の目盛りを合わせるんだ』


『数字って!? 隊長、いったいどこに合わせればいいんですか……』


『数字の目盛りに赤い印があるはずだ。そこに合わせてくれ!!』


『二人とも頑張って、さくらんぼも一生懸命に応援しているから!!』


 僕は無意識にダイヤルを握る藍の腕に自分の手を伸ばした。妹のさくらんぼも脇から手を伸ばしてくる。そして三人の手と同じ願いが重なった。ジョグダイヤルをまわす彼女の二の腕の動きが、温もりといっしょに手のひらに伝わる。


 僕たちの楽園パラダイスで三人の気持ちが一つになった瞬間だった。大人になった僕が失ってしまった気持ちがそこには確実に存在していた。何も疑わずに信じる子供の無垢なる想い。平行世界と繋がるための秘訣を父親に問いかけたときのことが思い出される。


『恵一、お前はこのラジオを手にした瞬間から、もうすでに成功しているんだ。あとは強く信じて自分の心の中で平行世界を念じるだけだ……』


 僕はまだ見ぬ平行世界を強く心の中に念じた。携帯ゲーム機でよく遊ぶレースゲームで車線を変更するように、隣の車線へウインカーを出して勢いよくハンドルを切るんだ!!


 を考えると同時にめまいのような感覚に襲われて、僕は思わず目を閉じてしまった……。BCLラジオのスピーカーから流れる音が自分の作りだした暗闇に広がった。雑音に混じってはっきりとした言葉が僕の耳に飛び込んでくる。


『この声は……!?』


 固く閉じた目を開けると最初に見えた光景は……。


 一見変わらない楽園パラダイスの室内だった。窓にはめ込まれたステンドグラス。古民家の柱でしつらえた趣のある長机。お尻に感じる階段箪笥の硬い感触。隣に座る藍の真剣な横顔。その脇にいるさくらんぼ。目の前のBCLラジオもそのままで何も変わらないように見える。


 だけど何かが違う、この身体に感じる奇妙な違和感は、いったい何処からくるのか!?


 ふと視線を落とした僕の左手の先には、よく冷えたコーラの瓶が握られていた……。



 次回に続く。

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