最上階に向かう階段

 ――君去きみさらず そでしがうらに 立つ波のその面影を みるぞ悲しき


 きみさらずタワーの名称には由来がある。ヤマトタケルと彼の妻、オトタチバナヒメ、古代史に残る悲恋の物語から取られたと聞いている。


 父親に命ぜられ各地で討伐とうばつを繰り返していたヤマトタケルは上総かずさの国(現在の千葉県)に船で渡った際、こんな小さな海などひとっ飛びで渡れよう、と海を軽視する不遜ふそんな態度を見せたため海の神から祟られて、航海は海が大荒れになってしまった。このままでは船は沈んで全員が海の藻屑もくずとなってしまう。そんな絶体絶命のさなかヤマトタケルの妻オトタチバナヒメが自ら海に身を投げて海神の怒りと海をしずめ、船は無事目的地に到着したという。自分の行いを悔いて嘆き悲しんだヤマトタケルが亡き妻、オトタチバナヒメをしのんで詠んだとされているのが冒頭の一節だ。ヤマトタケルは太田山から海を見下ろして何日もこの地を去らなかったと言い伝えられている。


 これがいまも語られる君不去きみさらずの伝承だ。


 現在の君更津きみさらず市の由来もここから来ている。市のシンボル的な存在であるきみさらずタワーの先端には向かい合った二対の銅像があり、現世では二度と逢えなくなったヤマトタケルとオトタチバナヒメがお互いを幸せそうに見つめあっている……。日本最古の武神と崇められたヤマトタケルの銅像はとても穏やかそうな表情に思えた。


 【亡くなった君は私の心の中から決して消えることがありません】


 この君不去の言葉に込められた意味には諸説あるが、亡くなった最愛の相手を想ってしばらくこの地から去らなかった……。いまの僕にはその言葉が一番しっくりくるような気がしてならない。


 きみさらずタワーの頂上へと向かう複雑な構造のらせん階段は傾斜もきつく、小学生の子供なら大丈夫だが、大人がすれ違うには幅が狭い。子供のころ、あいや妹のさくらんぼに向かってタワーのてっぺんまで競争だ!! とか言いつつ僕がさっさと最上階の展望台まで登ってしまったな。後でさくらんぼからブーイングされたっけ。


 途中にある階段の踊り場から桜祭りの会場を見下ろした。握りしめた銀色の太い手すりがとても冷たく感じる。四月上旬の春先だが、タワーの上は夜風が強く吹き付け体感温度はかなり低い。厚手の上着を着てきたのは正解だったな。


見事な桜の花に覆われた桜祭りのメイン会場は上から眺めるとまるで薄桜色の雲に覆われているみたいだ。満開の桜の花の隙間から大勢の観客が見える。特設ステージのある場所から離れた所にもお花見のシートを敷いた家族連れや団体客も多く見受けられた。夜だと言うのにライトアップされた公園全体から活気が伝わってくる。僕は思わず動きを止めて踊り場からの景色にしばし見入ってしまった。


 幸せそうなお祭りの空間に身を置けない寂しさを感じている場合ではないな。いまは目の前の計画に集中すべきだ。気を取り直し、さらに上の階を目指そうとした僕の背後から、ひときわ大きな歓声が桜祭りの会場全体に巻き起こった。


「……イベントのスケジュールどおりだ。親父よ、いつもみたいに挨拶で滑るなよ」


いや違うな、滑りつつ話をいかに長引かせるか? 今回の計画の中で親父が担当するイベントでのきもの役割だったな。観客や警備の注意を舞台に引きつける時間稼ぎをしてもらわないと、僕の活動が妨げられるから何とか親父には頑張って貰わないといけない。


鐘ヶ淵かねがふち梵鐘ぼんしょう】実写映画化記念イベントの開始スタートだ。主演の蒼木圭一郎あおきけいいちろうを筆頭に特設ステージへの登壇が始まったのだろう。


これまで出演俳優、制作サイト、マスコミ、すべてに箝口令かんこうれいが敷かれていた主人公やヒロインの青春時代を演じる若手俳優たちも今回初登壇すると事前に親父から聞いて知っていた。いまをときめく若手のイケメン、美少女俳優の登壇とあって、この割れんばかりの歓声や拍手も理解出来るな。妹のさくらんぼがもしも普通の状態だったら、自分も大好きな美少女俳優をひとめ見たいって大騒ぎしていただろう……。


 藍の弟、二宮聡にのみやさとしに連れられて控室に姿を現したさくらんぼ。妹の顔を見て抱いた僕の淡い期待は一瞬で打ち消されてしまった。いぜん彼女の記憶は戻る気配がなかったからだ。そんな僕の落胆した表情に聡はいち早く気が付いた様子だった。彼とはあまり言葉を交わさぬまま計画の持ち場についてしまったことがとても気がかりに思えたが、今回の計画でサポート役として地上からの定期連絡を担う聡からの交信の内容にいっさい私情は含まれていなかった。そして僕が大きな謎だと思っていた、こちら側の世界線に単身で到着した際にBCLラジオ改の機種がクーガーからスカイセンサーに入れ変わっていた件についても彼からの詳しい説明でやっと納得がいった。


『恵一さん、何も不思議がることじゃないですよ。万が一のトラブル用にサブ機として用意していたのがスカイセンサーだったんです。それをあの日、香月かつき先生と俺に内緒で楽園パラダイスから単身持ち出したのは他ならぬあなたなんですよ。……まあ厳密に言えばこちらの世界線にいた恵一さんのやったことですから知らなくても仕方がないですけど』


 元々はガチガチの理系人間だった彼の口から、ごく当たり前の日常みたいに語られた事の真相に僕は感慨かんがいを受けてしまった。ふたつの世界線の成り立ちはまるで池の水面みなもみたいな関係性に思える。こちらの世界で水面に石を投じればむこう側の世界でも波紋が広がる。絶対に同じにはならないが鏡のように事象が連鎖する。

 こちら側の世界線にいた精神状態はすでに限界だったんじゃないのか?


 もうひとりの僕が幸せに暮らしていた日常。そこには藍が存在していた。だが二年前の四月一日に彼女はこの太田山公園でこつ然と姿を消してしまう。さらに追い打ちを掛けるように妹のさくらんぼが事故に遭う。それも自分の身代わりに……。


 まだ計画の準備段階だというのに親父や聡に無断でスカイセンサーを持ち出してしまったのも、そんな追い詰められた強い焦りが感じられた。


 ややこしい話だが世界線は違っても自分が考えることはまるで手に取るように分るな。


 ……だとすれば、ちょっと待てよ!? 


 そこまで考えた僕は恐ろしい事実に思い当ってしまった……。


 【藍を絶対に救い出す!!】その誓いはもちろんいまも変わらない。だが僕は彼女を見つけ出した後にいったい何を望んでいるんだ!?


 これまで自分自身の立てた誓いに妙な違和感を感じるのは何故なのか分からなかった。だけど今なら理解出来る。意識的に答えを出すのを僕は全力で避けていたんだ。このきみさらずタワーで藍のお気に入りだった場所を、頂上の展望台じゃなく階段の踊り場と記憶の改ざんまでして無理やり思い込んでいたみたいに……。


 元々僕のいた世界線に見つけ出した藍を連れて帰るつもりか……。それじゃあ何の解決にもならない!! 彼女は現時点ではひとりしか存在しない。こちら側の世界線から二宮藍にのみやあいが二年前に消失した事象が及ぼした変化は甚大だ。嘆き悲しんでいる人も多い。それを見過ごしたまま自分だけが幸せになるというのか。


 ――そうだ、今回の目的地である屋上の展望台で運よく藍を見つけ出しても、すべてがハッピーエンドに終わる訳じゃない。


 ちくしょう、何でこうなるんだよ。ここまでお膳立てが揃っているというのに僕は……。


 何もかも投げ出してこの場から逃げ出したくなった。きっと過去の親父も同じ気持ちだったんじゃないか? いや僕以上に残酷な仕打ちを受けたはずだ。何度世界線のループを繰り返しても最愛の相手の死という決められた結果は変えられない。見えざる冷酷な神の手で翻弄ほんろうされる操り人形みたいなものだ。


 たどり着いた無慈悲な答えに打ちのめされて、ショックで手足に力が入らないと言うのに、なぜ僕は屋上を目指して一歩一歩、階段を登っているんだろう。これは本能がなせる惰性だせいの行動なのか? それとも彼女への消せない未練なのか? そこに何が待っていると言うんだ!!


 当初は天国への階段と思えた順路が処刑台へと続く道のりに思えた。これまで頼もしく感じられたBCLラジオ改の入ったリュックが、まるで鉛のように重く肩にのしかかり目の前の視界が極端に狭くなってくる。心拍の異常値を知らせるスマートウオッチの警告音アラードが鳴りっぱなしだ。地上で遠隔のモニタリングをしている聡がこちらに呼びかける叫び声まで無意味な文字の羅列のように僕の頭の中を右から左に通り抜ける。


 だが、その後に続く彼の言葉を聞いて僕は一瞬で我に返ることになる。


「恵一さん、返事をしてください!! さくらさんが大変なんです……」


 さくらんぼ!? 妹にいったい何が起こったんだ……。 


「お、落ち着いて聞いてください。眠っていたはずの桜さんが急に……」


こちらに呼び掛ける言葉とは裏腹に聡の声が上ずって聞こえる。


 まさか最悪の事態じゃないよな!? 震える手でインカムマイクの通話ボタンを押すが、こちらが言葉を発する前に信じられない人物の言葉が耳に飛び込んできた。


「恵一お兄ちゃん。藍お姉ちゃんのもとに早く行ってあげて。屋上の展望台にある二対の銅像の間に立って呼びかけるの!!」


 まさか、この声は!? さくらんぼの記憶が戻ったのか!!



 次回に続く。

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