革職人の告白
「……ショコラちゃんかぁ、ちゃんとお座りしてお利口さんだね」
藍が片手でワンピースの裾を押さえながらしゃがみ込む。革の首輪屋さんの看板犬か。良く躾けをされているようで、目線を低くした藍に向かって、小首を傾げ触られるのをちょこんと待っている。
「そういえば藍は昔から犬が好きだったよな……」
「うん、大好きなんだけど、うちは
彼女の横顔に影が射す、それを見た僕は失言したことに気付いた。藍の弟は子供の頃から重い喘息を患っており、家で動物を飼うことは無理だった。僕はそのことをすっかり忘れていた。弟の聡も動物は大好きなのにアレルギーが出るから、その手で触れることはおろか、同じ部屋に居ることも厳禁なんだ。
「……そうだったな、ごめん」
「こっちこそ気を使わせちゃったみたい、でも大丈夫。お家でワンちゃんを飼えなくても、私にはガナーピーくんが居るから……」
そう言って彼女は、鞄に付けたマスコットチャームをそっと指で撫でた。ガナーピーは世界一有名なビーグル犬のことだ、漫画のキャラクターでお供の黄色い鳥モンタレーとのコンビを知らない人は少ないだろう。藍の部屋にもでっかいガナーピーのぬいぐるみがあったことを思い出す。
「私、本物のワンちゃんに触れるの久しぶりだなぁ!!」
藍が伸ばした手がショコラのモフモフな頭に触れる。さくらんぼは僕達から離れて、首輪屋さんの店先で目を輝かせている。可愛い首輪だけでなく、オーダーメイドしたお客さんが自分の愛犬。愛猫を撮った写真が所狭しと飾られているんだ。いい雰囲気だ。この店がお客さんから愛されていることが良く分かる。
「……あなたの大切な人がそこに居るんですね」
いつの間にか隣に男性が立っていた。首輪屋の店主だ、丸眼鏡の奥に柔和な微笑みが浮かぶ。歳は親父より下だろうか、エプロン姿の腰には、革細工に使う道具を入れたワーキングバックを巻いている。
「……は、はい、そこに居るって?」
僕は言われた意味が分からなかった。店主の視線の先には、犬と楽しげに戯れる藍がいた。
「突然で失礼かも知れませんが、店先で革細工をしながらあなた方二人を見ていました……」
あなた方二人って? 三人の間違いじゃないのか……。
「私も二年前に家内をガンで亡くしまして。あの犬は家内が生前、息子同然に可愛がっていました。首輪屋のアイデアも彼女が出してくれたんです。皮肉な物で、この店の完成も待たず家内は旅立ってしまいましたが……」
目を細めながら、愛犬を眺める店主の瞳に嘘の色はなかった。この人はおかしなことを言っていない、僕と同じく大切な人を亡くして悲しみの淵を彷徨っていたんだ。真実を知るのは痛みを伴うが、藍に関してすべてを知りたい……。
「教えて貰えませんか、店主さんが見たままの光景を!! 僕には大切な人が見えています、愛おしそうに犬を撫でる彼女の姿が……」
目の前の視界が滲む、藍に気つかれまいと必死で涙を堪える。
「
「……どんな格好ですか?」
「お腹を天井に向けるんです。私と家内は
店主が指さした先には、お腹を天に向けて四肢を上に向けた姿勢。藍の傍らでショコラが腹天の格好をしていた。
「亡くなった家内のときと同じだ……」
「……はい」
「亡くなったはずの家内が、まるでそこに居るみたいな反応をするんです。いつもの格好をするから早くオヤツをちょうだい! って。私の前では普段、絶対にそんな格好はしないんですよ……」
「……」
「泣くのは恥ずかしいことじゃありませんよ。大切な人と過ごした時間が長ければ長い程、必要だと思います。私も同じ生活に戻れたのは最近なので、あまり偉そうなことは言えませんが……」
「……ありがとうございます」
ガッシリとした大きな手のひらが僕の肩に触れる。年輪を重ねた男の手だ、親父に似た不思議な安心感に包まれる。
「私に何が見えるかと聞きましたよね、あなたの大切な人の姿は見えませんが、その流した涙で素敵な
いつの間にかさくらんぼも合流してワンちゃんを囲んでいる。看板犬のショコラは腹天の状態で器用に床を回転し始めた。
「駄目だよ。そんなに床でゴロゴロしたらモップみたいに汚れちゃうから……」
「あははっ!! モフモフのプードルモップだ、可愛いけど汚したくないよ」
「……クウ~~ン、ワン!!」
この微笑ましい藍の姿も、この場では僕とさくらんぼ以外には見えていない。アウトレットモールに来るまでの、不可思議な出来事も腑に落ちる。バスでの座席の件、藍が買い物のとき店員に無視されたことも。その事実を前にしても何故か動揺は少なかった。
彼女の存在を信じてくれる人が隣に居てくれたからかもしれない……。
「……僕は香月恵一と言います、そこに居るのが妹の桜です。そしてもう一人は……」
ショコラが完全にモップ犬にならないよう、藍が抱き上げる姿が見えた。溢れるような笑顔が僕の胸に刺さる、かけがえのない笑顔。もう二度と見れないと思っていた。一人きりの部屋で膝を抱えて引き籠もっていた記憶が蘇る。本当に悲しいと人は涙が出ないことを初めて知った。あれから何度満開の桜を見ても綺麗だと思えなかった。
きみがいない春に何の意味があるんだろう? 空虚な気持ちを抱えたまま、僕は昨日まで過ごしてきたんだ。
「二宮藍と言います」
「……香月さん」
僕の肩に触れた手のひらから温もりと共に優しさが伝わってくる。無言でも分かるんだ、店主の僕を励ます気持ちまで感じる。
「私にも見えたんです。あの日、部屋のベッドに腰かけて微笑む家内の姿がはっきりと。だけどこれは悲しみが生み出した幻覚だと理性がそれを否定しました。その日の出来事はこれまで誰にも話していませんでした……」
僕は驚いて店主の顔を見上げた。真剣な眼差しがこちらを見据えていた。
「良かったら聞かせてもらえませんか。香月さんの大切な人について……」
次回に続く。
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