君は僕の前に幽霊として現れたりはしない……。

 桜祭りとは―― 毎年、四月上旬になると太田山公園で開催されるイベントの呼称だ。最初は地域の小さなお祭りだったが関東甲信越地方の桜の名所ランキングに選ばれてから急速に知名度が上がり、現在では千葉県でも有数の桜祭りとして全国に知られている。


 桜祭りのクライマックスにはライトアップされた公園内の夜桜だけではなく、きみさらずタワーから一望出来る東京湾を背景にきらびやかな花火も打ち上げられる盛大なイベントだ。


 そんな地元を挙げての一大イベントなのだが特に今年は人出が多い。


「親父、やっぱり実写映画化の経済効果は絶大なんだね。こんなに凄い観客動員数の桜祭りはいまだかつて僕はお目に掛かったことがないよ。これが映画公開前のイベントなんてとても信じられないな……」


 太田山公園の隣の敷地には以前より郷土史の博物館が併設されており、最近、建て替え工事が行われて君更津きみさらず市のコミュニティセンターとしての役割も担うことになったそうだ。いま僕たちがイベント参加者用の控え室として使用しているのもその建物の中の一室だった。


「……市長を始め、役所のお偉方は昨今の聖地巡礼ブームを期待しているそうだ。フィルムコミッション事業に市が積極的に取り組んているのも恵一のいう経済効果を見込んでのことさ、この太田山公園が映画の劇中に使用されれば下手な観光CMを打つよりもはるかに安上がりだからな」


 親父は会議用の長机の上に大量の機材を広げ、作業の手を休めずに説明してくれた。映画やアニメの聖地巡礼はここ十年ほど各地でブームにもなっており、有名な聖地の場所も多いと聞く。地域に与える経済効果も馬鹿にならないそうだ。


 ――聖地巡礼、コアなアニメファンだけでなく実写映画や小説などを見て感銘を受け、物語の舞台に足を運んでみたいと考える人は多い。そんなニーズは年々高まっており海外からの観光客も増加していると聞く。


「俺の書いた小説ではあえて場所を特定されないようにぼかしてあったんだけどな。熱心な原作ファンによって直ぐに特定されてしまった。まあ、作者としては本当にありがたいことだが……」


 親父との何気ない会話にふと疑問を抱いた。僕の知る作家としての香月誠治郎かつきせいじろうは自作品の執筆にあたり事前の準備はおろそかにしないタイプだ。綿密な取材と資料集めは欠かした試しがない。


 なぜ鐘ヶ淵かねがふち梵鐘ぼんしょうだけは例外なのか? 普段なら見過ごしてしまうかすかな違和感だったが、この後に控える重要な計画に向けて気持ちが高揚していたのかもしれない……。


「……最初にあの本を読んだころの幼い自分には分からないはずだ。いまなら親父の心境が理解出来るよ。きっと【鐘ヶ淵の梵鐘】はいちばん大切にしたい作品なんだよね」


「なんだ恵一、やぶから棒に。……そうだなぁ、いくつになっても男ってやつは子供時代の延長戦をやっているのかもしれないな。村一番の柿の木に誰よりもまっ先に登れるとか、目もくらむような切り立った高台から川に向かって飛び込むとか。そんなものは大人になっても何の役にも立たないというのに」


「……親父の場合は川じゃなくて小説みたいに鐘ヶ淵に飛び込む勇気の間違いでしょ!!」


「ははっ、そうだったな。これは恵一に一本取られたよ」


 背中を向けてBCLラジオ改のチューニングダイヤルをいじる親父の表情はこちらからは伺い知れないが、短い会話を交わしただけでも親子の間にはそれだけで充分だった。


 僕は腕時計スマートウオッチに視線を落とした。左腕を軽く傾けるだけで画面には時刻をはじめ各種情報が表示されている。


 ――運命の時が刻一刻と迫る。


「……恵一、身に着けた機器の最終チェックをしておけよ。満充電の確認だけでなく、こちらとの通信状態もだ、桜祭りのイベント中はお前と完全に別行動になる。きみさらずタワーに登った後では、たとえ突発的なトラブルが起きても助けにはいけないからな」


「大丈夫だよ。このスマートウォッチだけでなく、親父との通話につかうインカムマイクもばっちりさ。……準備は聡が楽園パラダイスで先に済ましてくれたから」


 こちらの世界線では自分の携帯電話スマホはもちろん使えないので、親父の調達してくれた物を使用する。腕に巻いたスマートウォッチと携帯電話を連携させることにより親父と離れていても僕の位置情報やお互いの会話も可能になる。太田山公園に到着してはじめて気が付いたが、携帯電話もスマートウオッチも蒼木圭一郎あおきけいいちろうがCМキャラクターを務めた最新機種だと知って僕は思わずニヤリとしてしまった。何だよ親父、しっかり彼から恩恵おんけいを受けてるじゃないのかよ。


 ぱっと見は往年の二つ折りガラケーに似ているが、僕のいた世界ではあまり見たこともない形状で二枚の小型タブレットを重ねたように見える。液晶画面の部分が横にスライドして通常よりも大画面を形成していた。


 藍が持っていた桜色の携帯電話と外観も良く似ている。


 親父いわく限定モデルの携帯電話だそうだ。その名もモデル。自分の世界線には存在しない独自の進化を遂げた携帯電話を手に持ってみた。蒼木圭一郎の名前のあおにちなんだ深いブルーの筐体は確かに限定モデルにふさわしい高級感があり、頼もしい重さをあたえてくれる。


 ……藍、待っていてくれよ。どこにいても必ず君を見つけ出すからな。


 藍が行方不明になってから独自で調査を進めていた親父と聡から聞いた興味深い話がある。太田山公園でまことしやかに語られる噂があるとのことだった。その噂は公園内の桜が満開の時期だけ、若い女性の幽霊が目撃されるという物だった。それもきみさらずタワーを中心に目撃情報が集中しているそうだ。普段なら季節外れの怪談話として一笑に付してしまうところだが、その幽霊ともくされた女性の目撃情報が妙に行方不明になった藍の外見と符合するんだ。彼女が二年前に僕の元々いた世界線で目の前から姿を消したときに身に着けていた洋服と酷似している。


 その若い女性は薄桜色の花模様ワンピースをまとっていたそうだ……。


だが僕は決してその噂だけで早合点をしているわけではない。藍は絶対に生きている。いまは親父の仮説を信じたい。何らかの理由で彼女はこちらの世界線に戻れず暗闇の中でさまよっているのだと……。


「そろそろ時間だな。恵一。打ち合わせのとおりにするぞ。俺は桜祭りの特別イベントで映画の関係者と壇上に登るからな。その時間帯の通信は不可能だからイベントのタイムシートをしっかりと頭に叩き込んでおけ」


「ああ、イベントの開催時間は分かっているよ。でも親父!! そのかんは僕のサポートは無し状態なのかよ!?」


 今回の桜祭りの目玉である新作映画【鐘ヶ淵の梵鐘】関係者が一堂に会するイベント。会場の配置的にはきみさらずタワーのちょうど反対側に設営されたステージで行われる予定だ。観客の注意は当然そちらに集中する。その間隙かんげきをぬって僕がタワーの最上階まで登り藍を探し出す計画を実行する手はずだ。だがあくまで予定は未定だ。たとえ主催者側の許可を取っているとはいえ怪しげな機材を持ち込んて最上階に登る僕は傍から見ればかなりの不審者だ。いや、それどころかイベントに危害を加える危険人物と警察や警備から誤認される場合も充分に想定出来る。そんな僕の不安も理解してもらえるだろう。


「恵一、俺の話は最後まで聞け。誰がお前のサポートは無しと言った?」


「えっ!? だってこの場所にいるのは僕と親父だけじゃないか……」


 親父はおもむろに椅子から立ち上がり、控室のドアを開けた。


「待たせたな、恵一との話は終わったから中に入ってくれ」


 その戸口に姿を現した人物は!?


 「さ、聡!! それに……!?」


  控室に入って来たのは藍の弟、二宮聡にのみやさとしだった。その手には車椅子を押している。その軽快に取りまわしが出来そうな外出用の車椅子に乗せられた女性の顔を見て僕はさらに驚いてしまった。


香月かつき先生、約束どおりさくらさんをお連れしました。この会場まで介護タクシーの手配をして頂きありがとうございます」


 親父に向かって会釈をした聡の表情にはどことなく精彩を欠いているように思えたが、それよりも僕は嬉しさがまさっていた。いくぶん妹の顔色も良く調子も良さそうに見えたからだ。


 ――さくらんぼ。お前も藍のために今回の桜祭りに参加してくれたのか!?



 次回に続く。



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