メモに隠された秘密
車窓を流れる風景にもときおり桜色が混じり、沿道を彩る鮮やかさに思わず目を奪われてしまう。
「……親父、
桜祭りが開催されている太田山公園までの道順が違うことに僕は気が付いた。運転席の親父は前方を見据えて何も答えない。サングラスを掛けた横顔からは真意を読み取れず、いら立ちを覚えた僕はさらに質問を重ねてしまう。
「太田山公園は
【聡やさくらんぼが居ない状況ではとても成功は見込めない】
思わず親父に向かって口に出そうになった配慮のない言葉を慌てて喉の奥に吞み込んだ。車のフロントガラスから差し込んだ四月にしては強い日差しに薄い長袖シャツの首筋が次第に汗ばむのを感じる。
「
まるで幼い子供を諭すような親父の口調に拍子抜けしてしまう。
「これが焦らずにいられるかよ!! 僕は藍のことだけを言っているんじゃない。……さくらんぼだって残された時間がない。これまで病院で付き添ってきた親父が誰よりも分かっているはずだ」
「……」
車はいつしか山沿いを切り開いた国道に差し掛かった。ちょうどさくらんぼの入院している
赤信号で車は交差点の手前で停止した。これまでの重苦しい沈黙をかき消すようにカーオーディオのスピーカーから曲のイントロが流れてきた。耳に心地よいアコースティックギターのフレーズに
運転席のハンドルに装備されているカーオーディオのリモコンを操作して親父は曲のボリュームを上げた。ギターボーカルとベースギター。珍しいツーピース編成のバンドが奏でる僕もどこかで聴き覚えがある曲だ。
「親父、この曲は。亡くなった母さんの!? 何で音源が残っているんだ……」
「そういえばお前には話していなかったな。この曲の演奏しているのは俺と亡くなった母さんだ。結構ヒットしてメジャーデビューも果たしたんだぞ。まあ結婚前の話で恵一も桜もまだ生まれていないから知らなくても仕方がないよな」
……それは初耳だった。親父と亡くなった母親のとのなれそめはさんざん聞かされてきたが、ふたりが音楽活動をしていてCDまで出していたなんて。どおりで昔から家には楽器が多数置かれていたんだな。僕が譲り受けたエレキギターもかなりの年季物だが、手入れが楽器の隅々まで行き届いていたのを素人ながら不思議に思ったんだ。
「懐かしいだろう。お前がお腹の中にいる
冴子とは僕の亡くなった母親の名前だ。でもなぜ親父はそんな話を急に始めるんだ? 今回の計画とはまったく関係がないだろう。
「……親父、いまは母親とのなれそめ話やバンド活動の武勇伝を聞いている場合じゃないんだよ。悪いけど後にしてくれないか」
「まあ、黙って最後まで話を聞け。恵一にはすべての謎の答えを話していなかったな。どうしてこちら側の世界線にいる俺がお前の行動について事前に知っていたのか? そして藍ちゃんが生きていると断言した
思いおこせばこちら側の世界線に到達してから謎ばかりだった。僕のおぼつかない推論だけではとても説明が出来ない。特に親父の立ち位置が掴めない。物語で言えば最後までのあらすじや結末を知っているみたいな口ぶりに思える。そう、親父の職業と同じ小説の作者みたいな物語を
「……親父、まさかとは思うけど」
「なんだ、その疑いの目は。馬鹿な勘違いするなよ恵一。けっして俺は
「茶化すなよ、親父。これでも真剣に考えているんだから。それにさくらんぼについての発言は少し間違っているから。売れ筋のラノベを参考にして書かれているプロットはさくらんぼが事故に遭う前の物だ。例のプロットは全然違う物語だよ」
「ああ、あれは別物だな。とても桜がひとりで考えたとは思えないプロットだ。まるで誰かの体験を隣で見てきたような物語の完成度に本職の俺も素直に驚いたよ」
予期せぬ言葉に僕も驚きを隠せなかった。まがりなりにも長年小説家を続けてきた親父の口から出た最大級の
「……着いたぞ」
この場所は!?
車は隣町にある運動公園の駐車場に到着した。公園の敷地面積は本来の目的地である太田山公園の三倍にもあたり、巨大な体育館も併設し休日となれば近隣市民の憩いの場となっている。僕も過去に何度も藍やさくらんぼと訪れていた場所だ。
「車を降りて少し歩くぞ。今回の計画に
一言いい残すと親父は車から降りて公園内に向かってさっさと歩き始めてしまう。僕は慌てて後を追いすがった。
「ちょっと待てよ親父。まだ話が最後まで終わっていないぞ」
公園内にある大きな池に向かう遊歩道の途中で親父は立ち止まる。こちらを振り返る表情はいつになく穏やかな色を浮かべていた。
「恵一、お前だってとっくに気が付いていたんだろう。むこう側の世界線の俺から託されたメモに書かれていた意味を」
「意味不明な数字の羅列のことか? 地図については最初から目星がついていたけど。あれは太田山公園にあるきみさらずタワーが建っている場所を示した地図だろう」
「地図については正解だ。残りの問題は数字だな。恵一には少し難問だったか?」
「その数字については楽園で聡と夜通し語り合ったときに彼から言われたんだけど……」
「何だ、間違っていても構わないから言ってみろ」
「聡は元々親父の大ファンだから何でも作品と結び付けたんじゃないのか? と思って……。その答えは却下したんだけど。彼が言うにはメモに書かれていた十三桁の数字の配列には規則性があって、あの数字は本の背表紙に記載されるコード番号だって」
そんな単純な謎解きを本職である小説家の親父がするわけがない。聡が力説する答えを僕は一笑に付してしまったんだ……。
そのコードはよりによって親父の小説本と合致する番号だったから。その作品名は……。
「……ほう。やはり聡くんは見どころがあるな。よろしい、二問とも正解だ!!」
「えっ、正解って親父。そんなに単純な答えなのかよ!? じゃあ本当にあの数字は!!」
【
こちら側の世界線ではあの有名な直本賞も受賞して映画化まで果たした親父の代表作のタイトルだ。その本のコード番号をなぜ意味ありげにメモに記載したんだ。それよりもまず解せないのは地図の存在だった。
「でも僕にとってはきみさらずタワーなんて地図を見なくても分かり切っている場所だ。それこそ藍と何回登ったか覚えていないくらいだ。それをなぜ親父はわざわざ地図に記したんだ?」
「……恵一、こちら側の世界線に到達出来た瞬間を思い出せ。お前はどこで目を覚ました」
こちら側に到達した瞬間って? 僕はきみさらずタワーのらせん階段の踊り場で気を失って目を覚ましたときもまったく同じ場所だったはずだ……。
「きみさらずタワーの踊り場だ。そこに僕はBCLラジオ改を設置して……」
「もう一度よく思い出せ。恵一。その場所からは何が見えた」
親父の声がまるで催眠術師のように聞こえる。自然と目を閉じ、まぶたの裏側で記憶の追想が始まった。あの日、きみさらずタワーで心に強く思い浮かべた情景が蘇ってくる……。
【恵一くん、私、ここから見た景色が一番好き!! えっ、
きみさらずタワーは太田山公園の中に建造されており、展望台に登れば満開の桜の木を見下ろせる最高の眺望が満喫できる。遠くに視線を移せば東京湾を一望出来るほどの絶景も同時に楽しめる。この展望台からの眺めが藍は特に好きだった。でも彼女が変わっていたのはパノラマみたいに全周を見渡せる頂上付近ではなく、一段下の階段にある踊り場から見る景色が大のお気に入りだった。
「……あのときの僕はタワーの頂上まで登っていない。らせん階段の踊り場で倒れていたんだ」
「恵一、お前はむこう側のきみさらずタワーで、なぜ踊り場を選んだんだ?」
それは……!? 亡くなった藍がいちばん好きな場所だったから。彼女の生きた証のような想いが色濃く残っているのはそこしかないと確信したからに違いない!!
「お前がいま何を考えているかは分かるぞ。だがそれは大きな間違いだ。藍ちゃんを失った悲しい過去からいまだに逃げているんだ。……自らの記憶に改ざんまでしてな」
――僕が過去から逃げているだって!? 目の前に映る景色が急速に狭く感じられ、どす黒い固まりのような物が胸にこみ上げてくるのを抑えきれない。これは強い怒りの感情だ。しかしそれは対峙する親父に向けられているのではない。
この感情は不甲斐ない自分自身に対しての怒りだ。あれほど藍の部屋で携帯ゲーム機を前にして固く誓っておきながら僕は……。
記憶の改ざんをしてまで自分自身を
深く深呼吸をした
そうだ、藍が本当に好きだった場所はあのらせん階段の踊り場じゃない……。
次回に続く。
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