鐘ヶ淵の真実

 ――鐘ヶ淵かねがふちとは運動公園内にある池の名称だ。


 僕の住む君更津きみさらず市から車で三十分程の隣町には歴史的文化遺産がいまだ数多く存在している。県指定史跡の八十八廃寺や道祖神裏古墳、そして鐘ヶ淵。


 古くからの言い伝えによると鐘ヶ淵の名称の由来は戦国時代にさかのぼる。里見家と北条家の合戦で池と隣接する寺院に火が放たれた。これが現在の八十八やそはち廃寺である。その火災によって寺にあった巨大な梵鐘ぼんしょうが池に沈んだことから鐘ヶ淵と呼ばれるようになったという。


 その後、鐘ヶ淵では不可思議な現象が頻発し始めた。合戦で亡くなった魂を弔おうと当時の村人が念仏を唱えると水面から何か所も水が湧き上がったり、池の魚を採れば木の葉に変わる。その現象を神様からの啓示だと恐れた村人は不殺生ふせっしょうの教えとして鐘ヶ淵の池畔ちはんに水の信仰にまつわる厳島神社と弁財天の小堂を建立する。不殺生とは自然な寿命には逆わず、ましてや生き物の生命をあやめる行為を厳しく禁じる教えのことだ。


 僕の親父の代表作である【鐘ヶ淵の梵鐘】はそんな江戸時代の伝承を題材モチーフにした現代を舞台にした恋愛小説だ。妹のさくらんぼに言わせれば絶対に売れない要素を鍋で煮しめたような一冊だとかなり手厳しい意見だったが、世界線が変われば評価も違う。元々の世界線では知る人ぞ知る作品だったが、こちら側では有名な文学賞に選ばれて実写映画化も控えている。


 きっと妹は親父への愛情の裏返しでけなしていたんだと思うが、親父に言うと調子に乗りすぎるのであえて口にはしないが自分も大好きな作品だ。こちら側の世界線に来てから楽園パラダイスに一泊した際、聡から借りてあらためて読んでみたがとても物悲しい恋物語に心の底から感動を覚え、寝るのも忘れてしまうほどだった。


 物語のあらすじは小説家を目指す貧しい青年がふと創作活動の下見ロケハンに出掛けた近所の公園で、ひとりの少女と偶然出会う。彼女は公園のベンチに腰かけて誰に向けるでもなくアコースティックギターを弾いていた。その切なげな旋律に一瞬で胸を射抜かれた青年は思わず即興で曲に歌詞をのせてしまう。その奇異な行為に最初は演奏を中断してその場を立ち去ろうとする彼女だったが、青年の口にしたサビの歌詞にひらめきを覚えたのか急に足を止め、青空の下でのお互い予期せぬセッションが始まった。


『……あなたはいったい何者なの? 私の心の中にしか存在しないはずのイメージにぴったりの歌詞を紡げるなんて驚き!!』


 少女は冴子さえこと名乗った。地元の名門女子校に通う彼女には生まれつき兼ね備えた絶対音感から曲を作るたぐいまれな才能があり将来を期待されている存在だった。音楽をきっかけに打ち解けあったふたりは公園での逢瀬を重ね、いつしか恋に落ちる。そして一緒に暮らし始め青年と彼女はお互いに協力し合い本当の家族になる。長男と次女、子供も授かって幸せな日々が続く。


 しかし青年にはひとつの疑問があった。なぜ天賦てんぷの才能を持っていた彼女が結婚を機に音楽活動を突然やめてしまったのか? ふたりで始めたバンド活動はメジャーデビューも果たしこれからという時期での引退に強い疑問を覚えた。自分がこのまま売れない小説家を続けるよりも家族は幸せになれたはずじゃないのか……。


 青年は創作活動に煮詰まったある日、生活が苦しくとも文句ひとつ言わない彼女に向かって、なぜ成功しかけていた音楽活動を辞めたのか? と自分のいらだちをぶつけてしまう。 その勝手な行動にはとても同情出来ないが、彼には家族を養うのが執筆業だけでは賄えない現状への強い焦りもあったのだろう。投げかけた心無い言葉に家庭生活としては最悪の結果である離婚の二文字まで浮かんだ。


 ……しかし彼女からの答えは驚くべきものだった。


『ずっと秘密にしていてごめんなさい。あなたや子供たちと暮らせる時間は限られているの。私の余命はあとわずかだから。……残された時間は家族と過ごしたい』


 予想だにしなかった答えに頭をハンマーで殴られたような衝撃を青年は覚える。彼女から初めて告げられた病名は先天的な疾患だった。生まれつき身体や臓器に異常があり現代医学では手の施しようがないとの言葉に膝から崩れ落ちるしかなかった。


 青年は運命の神様を恨んだ。絶対音感というたぐいまれな才能とひきかえに長年彼女を苦しめてきた病。そして音楽よりも幸せな家庭を築くことを最優先した彼女の想いに打たれ、これまでの自分の行動を心の底から悔やんだ……。


 別れの足音は春の訪れよりも早かった。桜の花の開花を待たずに彼女は旅立ってしまった。


 葬儀の後、失意のどん底に叩き込まれた青年はあてもなく街をさまよった。いつしか彼女との想い出が色濃く残る運動公園にたどり着く。青年は藁にもすがる想いで鐘ヶ淵のほとりに立っていた。実は鐘ヶ淵の伝承には隠された秘密がある。小説の題材として地元の郷土史を詳しく調べていた青年はその秘密に行きあたっていた。それは亡くなった人にふたたび逢うことが出来る現世からの入り口のような場所。それが鐘ヶ淵だと付近の住民からはまことしやかな噂がささやかれていた。


 鐘ヶ淵の水面を見つめる彼の鬼気迫る表情は傍から見れば常軌を逸した状態だったに違いない……。


『……冴子、いますぐ会いにいくからな』


 青年は入水自殺さながらに神社のある高台から池に向かって身を投げた。……次に意識が戻った彼は最初に見た光景に思わず度肝を抜かれた。目の前のベンチに腰かけてギターをつま弾く少女の姿。


 ここは運動公園!? 冴子、どうしてあの日のままの姿なんだ!?


 彼女と初めて出会った日まで青年は戻っていた。


 ――こうして過去をやり直せる機会チャンスを彼は手に入れることに成功した。


 *******



 ……ここまでが【鐘ヶ淵の梵鐘】前半のあらすじだ。本には明言こそされてはいないが僕には親父の体験に基づく私小説のような内容に思えた。なぜなら巻末には亡くなった母親に向けた一文がしるされていたから。


『最愛なるSへ。桜の季節が訪れるたびに悲しむのはもうやめにしよう。君にこの作品を捧ぐ……』


 次回に続く。


 

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