桜が散る前に。
――しばらく親父と並んで遊歩道を進んだ。そして僕たちは長い階段を登り切った先の高台にある厳島神社までたどり着く。白い鳥居をくぐり抜けた境内の沿道には木の切り株が等間隔に並んでおり由緒ある神社の面影を感じさせた。特に巨大な切り株の上に立って隣接する鐘ヶ淵の深い蒼をたたえた
「……親父がわざわざこの場所まで連れて来たのは何も小説の
いま僕が立っているのは
「……恵一、お前はいますぐ池に向かって飛び込めるか?」
「はあっ!? 親父、何を急に馬鹿なことを言い出すんだよ。そんなの出来っこないだろう!!」
「ははっ、普通はそうだよな。……俺はあの日どうかしていたのかもしれない」
「……親父?」
鐘ヶ淵を見下ろす親父の横顔はいつもの冗談を言っている雰囲気にはとても思えなかった。お互い無言のまましばしその場に立ちつくす。神社の境内には折からの強い風に桜の花びらが舞い散っていた。その可憐な桜色が池の水面に彩りを与える。
「恵一、すべてを話すと約束したよな。
先に沈黙を破ったのは親父からだった。こちらに視線を落とさず、きわめて淡々とした口調の中にただならぬ気配を感じた僕はうかつな言葉を挟むことが出来なかった。
「時間がないので結論から話すぞ。勝手を言って悪いが人を待たせているんだ。なぜこちら側の世界線にいる俺がお前の行動やメモの内容をすべて把握しているか? それは俺も世界線の移動を経験しているからだ」
予想どおりだ、やっぱり親父も……!?
「まずは統一の認識をしておいてくれ。複数の世界線が存在しているのは紛れもない事実だ。だがまったく別人格の自分がその場所に存在しているわけじゃない。これは昔、BCLラジオ改をお前に与えたときにも俺から説明したよな」
その説明はよく覚えている。平行世界とは文字どおり我々の住む世界線のすぐ隣に存在している。もし別の世界線に行けたとしてもその場に二人は同時に存在出来ず、ドッペルゲンガーのように自分と鉢合わせはあり得ない。これが【世界線移動のパラドックス】と定義される現象だ。
「……ああ、異なる世界線でも時間は等しく流れていて、例えるならば車のゲームで複数車線のある道路で隣のレーンへ車線変更するみたいな感覚なんだろう」
「そうだ、車線の混み具合でゴールに到着する
「……親父、そこまでは理解出来るんだけど、別の世界線に存在しているはずの自分の魂はどこに消えちまうんだ。まさか元々いた魂が押し出されるみたいに入れ替わるとかじゃないよな」
食べ物のところてんを押し出すわけでもあるまいし。と言いかけて口をつぐんだ。いまは軽口を叩いている雰囲気ではない。
「そのまさかだ。……こんな突拍子のないことを話すと恵一はオカルトめいて
「いまさら何を言ってんの。僕は子供のころから親父に英才教育を叩きこまれたじゃないか。超自然的な現象でも疑わずにまずは可能性を探るという柔軟な姿勢を持て!! という教育をね。たとえば我々人間がこの世に生命を授かるのだって超自然的な現象だ。そう教えてくれたのは親父だから」
「……そうだったな。では話を続けよう。世界線移動によって発生する混乱を招く歴史の改ざんを防ぐために働く自己防衛的な力だ。ここではその力を便宜上、見えざる神の手の介入と呼ぶが、世界線の整合性を保つために入れ替わりが起こるんだ。まあ厳密に言えば魂の入れ替わりだがな。そして俺の調べた結果では意識的に念じた世界線移動をしなければ別の場所で体験した人間の記憶は次第に消失する。夢をすぐに忘れてしまうのと同じだ」
親父の説明に愕然としたのは僕の仮説と良く似ていたからに他ならない。別の世界線に元の肉体から抜けた魂だけ移行して、そしてその場所に存在するもうひとりの自分の身体に入って少しずつ異なる
「……ちょっと待ってくれよ、親父。それじゃあ説明が付かない現象があるぞ。
親父はこちらの問いかけにしばし考える素振りをみせ、隣にいる僕の肩にそっと手をのせてきた。その一連の動作はこれから告げる言葉を選んでいるように感じられる。
「うむ、恵一の指摘は正しい。その謎こそが彼女を特異な
――藍が特異な事例だと!?
なぜ親父はそこまで断言できるんだ。それに世界線移動のメカニズムまでまるでその目で見てきたような口ぶりじゃないか……。
「ははっ、恵一はすぐに感情が顔に出やすいな。口に出さなくとも言いたいことは手に取るようにわかるぞ。あいつにそっくりだ。……けなしているわけじゃない、これは誉め言葉だから
亡くなった母さんと僕がよく似ている。何げなくつぶやいた親父の言葉を聞いて僕はもうひとつの大きな疑問を思い浮かべた。
「あの小説にはすべて事実が書かれているんじゃないのか? 親父が実際に体験したままの……。この鐘ヶ淵にわざわざ僕を連れて来たのもその事実を伝えるために」
「……恵一、あの作品にすべての事実は書いていないんだ。事実は小説より奇なり。昔の人はよく言った物だよな。小説に反映した再現度を言葉で表すならせいぜい半分ってとこか。それこそプロットの段階で担当の編集者からダメ出しされるよ。
……親父は唇の端をわずかにゆがめ自嘲気味な笑みを浮かべた。
【鐘ヶ淵の梵鐘】の内容が親父の体験した出来事の半分しか反映されていないという告白に僕は単純に驚きを隠せなかった。あの物語の後半部分は鐘ヶ淵に身を投げた青年は、亡くなった彼女がまだ生存している過去に戻り、相手の悲しい運命を変えるために孤軍奮闘するんだ。親父の初期長編なので作品の発表時期は古い。いまではありふれたアイデアかも知れないが、当時は純文学よりの恋愛小説でタイムリープ物とループ物を掛け合わせた毛色の変わった内容が、僕のいた世界線ではコアな創作界隈で熱狂的な評価をされていたんだ。
そういえば物語の結末はハッピーエンドだった。青年は彼女の余命宣告を多重ループで回避させることに成功する。いま流行りのソシャゲに例えるとリセマラを繰り返して不治の病におかされていない彼女と出逢うんだ。そして二度と一緒に見ることが叶わないと思っていた満開の桜の花を見上げながら永遠の愛を誓うというラストシーンだ。
……まさか、実際の結末は。
【お前をここに連れて来たのは俺と同じ過ちをして欲しくなかったからだ】
神社に到着したときに親父から告げられた言葉が頭の中に蘇ってくる。鐘ヶ淵に風が通り抜け桜の木を揺らし、花びらが浮いた
「これから
「自分の想像が外れて欲しいとこれほど願ったことはないよ。あの小説に登場する青年は親父自身がモデルで、冴子という名前のヒロインは僕の母さんだ。そして現実には物語のハッピーエンドとはまったく違う結末を迎えたんじゃないのか……」
親父は問いかけに無言でうなずいた。そしてこちらの肩に置いていた手をゆっくりと離す。僕の目を見つめる表情には深い悲しみの色が浮かんでいた。
「恵一、あの作品を世に出したのは俺のエゴに過ぎない、せめて物語の中だけはあいつと幸せな結末を迎えたかったんだ……」
「親父、そこまで亡くなった母さんのことを……」
いまだに失意の表情を浮かべる相手に掛ける言葉が見つからなかった。自分が親父ほどの人生経験を積んでいない若造にしか過ぎないのを痛烈に思い知った。
「江戸時代より語り継がれた鐘ヶ淵にまつわる伝承、その正体は亡くなった相手に逢えるという単純なタイムリープの入り口ではなかったんだ。何度出逢ったころの時間軸に向けてループを繰り返しても結局冴子の死は防げなかった。だがそれで分かった事実がある。俺は同じ世界線の過去へ戻っていたのではなく別の世界線の過去に移行していたに過ぎなかった。たとえ同じ過去の時間軸に戻れたとしても、人が亡くなるという人生の結末は変えられないという世界線のメカニズムが働く。そんな
――最愛の人を失ったのは何も自分だけではなかったんだ。親父が世界線についてのすべてを最初から知っていたのは、感情の底が抜けるほどの悲しみを経験した結果だと知って僕はその場に立ち尽くすことしか出来なかった……。
次回に続く。
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