浴衣の柄は。
どうして子供の頃はあんなに楽しかったんだろう。さくらんぼはお子様ランチのハンバーグが大好物だった。口の周りをケチャップで汚しながら食べる様子を、親父は目を細めて眺めていたな。
バスの停留所がある駅前のロータリーは、狸の童謡で有名な場所で、夏にはそれにちなんだお祭りが行われる。やっさいもっさいと言って、阿波踊りと同じく、数十人で連と呼ばれるチームを作り、駅前商店街を周回して踊りを競い合う。この辺りでは花火大会と並んで夏の風物詩だ。
「……恵一くん」
「何だ藍。すっかり眠っていたかと思った……」
「ううん、さっき目が覚めた。恵一くんがずっと手を握ってくれたからとても安心して眠れたよ」
「あっ、ごめん、つい……」
僕は藍の手を握ったままだった。慌てて腕を引っ込める。少しでも彼女の不安を和らげようと思ったんだ。
「ねえ、恵一くん、覚えてるかな? 小学生の時、ここのお祭りに来たときも私の手を握ってくれたよね!!」
「……そんなことあったっけ。そんなむかしのことなんか忘れたな」
「あっ、さっきと言ってることが違う!! 藍のことは全部覚えているって恵一くん言ったよね……」
「あ、痛ててて!!」
先程まで繋いでいた手の甲を思いっきり藍につねられる。
「恵一くんなんかもう知らない!!」
むくれて横を向いてしまった。彼女はふくれっ面も可愛い。僕は覚えている癖に、わざと意地悪をしてしまったんだ……。
「そうそう、今の痛みで思い出した。藍が浴衣を着てきたときだろ」
「本気で前言撤回しようかと思ったよ。恵一くんのお世話になること」
疑いの目で僕を睨み付ける彼女は本気で怒ってしまったみたいだ。
「ごめん藍、軽い冗談だから勘弁してくれよ……」
両手を合わせて藍にむかって謝る。僕は小学生か。高校生にもなって好きな女の子に意地悪するなんてデリカシーに欠ける行動だ。
「なあ、藍、何とか言ってくれよ……」
「……」
彼女は黙ったままだった。完全にそっぽを向いて僕を見ようとしない。相変わらずむくれているが、んっ、良く見ると口の端が笑いを堪えている。これは小学生のときと同じ、あのパターンか?
「じゃあ、藍の出すクイズに、正解したら許してあげる!! 第一問、あの夜、着ていた浴衣の柄を答えよ」
「おおっ!?」
「制限時間は三十秒、ぴっ、ぴっ、ぴっ!!」
藍があの変わったデザインの携帯を取り出して、タイマーでカウントダウンを始めた。携帯も気になるが、今は正解しなければ絶交されてしまう。いや、小学生なら針千本を飲ますだな。
「十秒経過!!」
小学校四年生の夏休み。花火大会だからお盆だったな。僕らは親に連れられて、この駅前商店街で開催されるお祭りに来ていたんだ。親公認で夜に出掛けられるイベントは少ない。夏はやっさいもっさいと、次の日に行われる君更津花火大会、秋は十五夜にやるお団子取りくらいだ。僕はお団子取りのほうが、お菓子を集められて好きだったけど。藍とさくらんぼの女子チームは、断然花火大会が好きだったな。
「二十秒経過!!」
おわっ!? ヤバいぞ。思い出に耽っている場合じゃない。集中して思い出すんだ。あのときの彼女が着ていた浴衣の柄だ。
「ぴっ、ぴっ、ぴっ!」
無情にも藍のカウントダウンが刻まれていく。駄目だ、思い出すのは浴衣じゃなく彼女の顔ばかり浮かんでる。長い髪を後ろで結わえた、彼女の白いうなじに目を奪われていた僕。浴衣はもとより、空を彩る大輪の花火より、となりで歓声をあげる藍の横顔ばかり盗み見ていたんだ。やっぱり僕は針千本を飲まなきゃ駄目なのか……。
諦めかけた僕の視界に突然、天の助けが現れた。バスの通路側、前の席からスマホを持つ手が差し出される。さくらんぼだ!? 眠っていたんじゃないのか。
後ろ手で持つスマホの画面には……。
「はい、終了だよ、恵一くん答えをどうぞ!!」
「あのとき私が着ていた浴衣の柄は何?」
固唾を呑んで藍が僕を見据える。
「桜の花模様……」
「せ、正解!? すごい、覚えていてくれたんだ!!」
僕の視界の片隅に後ろ手のピースサインが、一瞬見えてすぐに引っ込んだ。正解を教えてくれてありがとな、さくらんぼ。スマホの画面に表示されていたのはあのお祭りの夜、藍が浴衣姿でおすまししている懐かしい記念写真だった。縁日の屋台で買ったリンゴ飴を大事そうに握りしめていた彼女のことを、僕は浴衣の柄と共にやっと思い出せたんだ。
「……あ、やっぱり前言撤回の撤回」
「なんじゃ、そりゃ藍、全然意味が分かんないよ」
彼女は急に黙り込んだまま俯いてしまった。陶器のような白い肌が耳まで真っ赤に染まるのが分かる。
「私ね、あの浴衣。絶対に恵一くんに見て貰いたかったんだ……」
「……藍、お前」
同時の彼女の想いを全然知らなかった。僕に見せる為に選んだであろう桜の花模様の浴衣。そんな藍の気持ちも知らずに顔ばかり見て浴衣を覚えていないなんて……。
「ごめん藍、実は……」
本当のことを言って謝ろうとした矢先だった。駅に電車が到着したようで、降りてきた乗客が大勢バスに乗り込んできた。仕事帰りで、アウトレットに行く人も多いんだろう。バスの中は、いきなり乗客でごった返しになった。座席は僕達も含め、ほぼ満席状態だ。
「……すいません、隣に座ってもいいですか?」
通路に立った初老の男性から、突然声を掛けられる。最初は僕たちに話し掛けているとは思わなかった。
「……はい!?」
「隣の席に、座らせて貰ってもいいですか?」
男性が僕の隣を指さした。この人は一体何を言っているんだ!? 隣には藍が座っているのが分からないのか……。
藍も驚いて身じろぎ一つしない。僕に救いを求める視線を送るのが精一杯の様子だ。彼女の怯えが肩越しのこちらにまで伝わってくる。
「ええっ!? 怖いよ、恵一くん……」
次回に続く。
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