午前七時
「隣の席に座らせて貰ってもいいですか?」
混雑したバスの車内で突然、初老の男性から声を掛けられた。空いているはずのない、
僕達の間に緊張が走った。隣の藍もすっかり怯えて身を固くしている。この男性は一体何を言っているんだ。藍の姿が見えないのか!?それとも何か言い掛かりでもつけるつもりなのだろうか。思わず相手の顔を凝視してしまうが柔和な笑顔を浮かべて、バスの通路に立っている男性はとてもそんな態度には見えない……。
僕は頭の中が混乱して、返答に詰まってしまった……。
「……え、ああ、すいません。この席は駄目なんです」
僕の返答に、男性が困惑の表情を浮かべた。逆に僕が、おかしなことを言っていると感じたのだろう。席を譲らない不道徳な若者に驚いている顔だった。
「こっちの席が空いてますので、良かったらどうぞ!!」
前の席からの声が、不穏な空気をかき消してくれた。さくらんぼだ。後ろのやり取りを聞いて、助け船を出してくれたのか。
「……すみません」
初老の男性は僕に軽く会釈をして、前の座席に身を沈めた。
「ありがとう、お嬢さん」
「全然大丈夫ですよ。こっちは空いてますから」
ふうっ、さくらんぼの機転のお陰で助かった。また妹に借りを作っちまった。藍の浴衣の柄をカンニングさせて貰った件に続いてこのバスの中だけで二回目だ。藍のことになるとずいぶんサービスが良くなる気がする。まあ、あいつに借りを作ると後が大変だが……。
しかし、さっきの男性は何だったんだろうか? 目が不自由には見えなかったが、まるで藍が視界に入ってない感じだった。
「……恵一くん、大丈夫?」
「藍こそ大丈夫か? 突然でびっくりしたよな……」
やっと藍も落ち着いたようだ。前の席に聞こえないようにお互い耳元で囁きあう。彼女と顔が近くなり吐息が頬に掛かる距離だ。柑橘系の香水なのか、とても良い香りが僕の鼻腔に心地よい。香水一つにも彼女が成長したことを今更ながら実感した。
「私は平気だよ。恵一くんが守ってくれるって約束してくれたから」
「うーん、さっきは守れたのか良く分からないけど……」
「ううん、恵一くんはハッキリと断ってくれたよ。本当は私が、席を譲れば良かったかも知れないけど……」
「藍、お前は身体が弱いのに。昔からバスや電車でも席を譲ってたもんな。親切も良いけど度が過ぎると身体に悪いぞ」
「……ありがとう。でも最近は検査入院の間隔も空くようになったから、担当の先生も、二度目の奇跡だって驚いていたんだよ」
嬉しそうに自分の体調について話す彼女。僕は何気ない会話の中に妙な違和感を覚えた。
「藍、二度目の奇跡って何なの?」
「まーた、わざと分からない振りしてるでしょ、恵一くんは……」
「あ、ああ、知ってるけど念の為、聞かせてくれよ」
「今回の奇跡は私の体調が良くて検査入院の必要が劇的に減ったこと。一回目の奇跡は……」
「……七年前の今日、起きたことか?」
「なあんだ、恵一くん。やっぱり覚えているじゃない。七年前の四月一日、私の身に起こった一回目の奇跡について……」
「時刻は午前七時頃、きみは病院で……」
「凄い記憶力!? 恵一くんどうしたの。時刻まで覚えているなんて」
いつの間にかバスは、東京湾アクアライン手前にあるショッピングモールの停留所に到着していた。外は雨になっているのがバス待ちの乗客が差す傘の列で分かった。色とりどりの傘が何故か墓前に並ぶ献花に見えてしまった。子供のころに三人で遊んだ僕達の遊び場で見た懐かしい光景だ。花と線香の入り交じった独特な匂い、お堂にある墓石の列が僕の脳裏に蘇ってくる。
「私が入院先の病院で奇跡的に……」
【藍が入院先の病院で……】
「意識が回復した時刻だよ」
【意識を失って亡くなった時刻だ】
次回に続く。
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