藍の日記
「懐かしいな。この展望台は昔とぜんぜん変わっていない……」
きみさらずタワー最上階――展望台。僕はついに最終目的地に到達した。古代船の形状を模した展望デッキ、その中央にあるヤマトタケルとオトタチバナヒメ、向かい合う二対の銅像から真っすぐに伸びる銀色の長い台座はまるで船のマストみたいに思える。
妹のさくらんぼからの指示通り、ちょうどモニュメントの真下に設置された方位を示す円形プレートの手前に持参したBCLラジオ改を手早く設置する。今回は手順もラジオの機種も間違えずに計画を実行出来る自信がある。何度も頭の中で反復した手順だ。電源スイッチを入れるとクーガーの前面パネルの受信感度を示すインジケータ表示に特徴的なオレンジ色の光りが灯る。今回は別の世界線への移動が目的ではないので内蔵バッテリーの出力はかなり抑えてあった。僕ひとりで最上階まで運ぶ関係もあり身軽な方がありがたい。
親父を筆頭に僕と
僕の役目は彼女の真意を確かめて、こちら側の世界に連れ戻す。それが今回の救出作戦の全貌だ。
――だけどいまの僕はとても妙な気分だ。
最上階へと続く長いらせん階段を登り切るまで、ずっと感じていた胸の高ぶりが嘘のように消え去っているのは何故だろうか? とまどいを覚えつつ見上げた視界の先にはタワーのシンボルである悲恋物語の銅像がライトアップされ、ひときわ輝きを放っている……。
「いま思い出しても笑っちまうよな。当時の藍には怒られたけど、どう見てもあれは
そう、僕が小学生だったころ同じ時間を分かち合いながら彼女と無邪気に笑いあえた懐かしい日々を思い返す。その後も藍との関係はずっと続くと信じていた。きみさらずタワーの展望台で忌まわしいあの事件が起こるまでは……。
握りしめたチューニングダイヤルを前回と同じ周波数に合わせた。鈍い音と共に受信感度を示すインジケーターの赤い針が右に大きく振れる。よし。感度は
「藍、そろそろ返事をしてくれないか。そこにいるんだろう!! かくれんぼの時間はもう終わりだ……」
思わず
『……主演俳優の
失敗という二文字が足元から頭のてっぺんまで駆け上がってきた。いったい何がダメだったんだ!? そう自問自答しようとした次の瞬間、まるで福音とも呼べる奇跡が僕に訪れる。
【私、昔から隠れるのがへたっぴだったから、恵一くんとかくれんぼして最後まで見つけられなかったのは初めてかも。ちょっと嬉しいなぁ!!】
「あ、藍、お前なぁ。久しぶりの第一声がそれかよ。こんなに長いかくれんぼなんて
藍の声がBCLラジオ改のスピーカーを通じて聞こえてくる。予期していたのでこれまでのような驚きはなかったが、彼女が不完全な状態でもまだ生きているという事実に思わず胸が熱くなり語尾が震えてしまう。
聞きたいことが僕には山ほどあるんだ。それ以上に藍と直接会って話したい……。
【なんて嘘、本当に嬉しいのは恵一くんともう一度、おしゃべりが出来ること!!】
「……藍、本当に良かった」
【意地悪な女の子で本当にごめんなさい。……恵一くんは怒っているよね】
二年前の四月一日。満開の桜の下、
「怒ってなんかないよ。でもどうして姿を現してくれないんだ!? いますぐ君に逢いたい。その一心で最上階まで登って来たんだ。……だけど笑っちまうよな。こんなに図体だってデカくなったのに。藍、これを見てくれよ、足がガタガタ震えてるんだぜ。小学生時代にこの場所で受けたトラウマを僕はいまだに克服出来ていないんだ。
【……あの事件は恵一くんのせいじゃない。前にも言ったはずだよ。神様から罰を受けているから私はこの場所から帰ることが出来ないって】
藍が神様から受ける罰!? やはり夢の中で僕が聞いた言葉は事実だったんだ。その罰が本当に神から下されるという意味合いではなく、彼女の中で重い十字架のように自分に課せられた呪いのような言葉なのを僕はある物を読んですでに知っている。
「藍、僕の話を聞いてくれないか? 君の抱えた罪の意識を軽んじているわけでもないんだ。これまでの不甲斐ない自分だったら罰という重い言葉に打ちのめされて、この場から尻尾を巻いて逃げ出していたかもしれない……」
【恵一くんは何も悪くないよ!! 私がすべていけないの……。みんなに内緒にしていた罰なの!! 生まれつき身体の弱かった自分に神様から与えられた秘密の
藍が声を詰まらせ泣きじゃくるのがBCLラジオ改のスピーカーから聞こえてくる。いまの状態の彼女に真実を告げなければならない自分を恨めしく思った。
「……内緒なんかじゃないよ、藍。僕もさくらんぼも。いいや、親父や聡だって。君の苦しみを全部知っているから。だからもう泣かないでくれ」
【どうして恵一くんが知っているの!? いままで誰にも話したことがないのに……】
「藍もこの二年間、記憶喪失だった妹を気に掛けてくれていた様子だから存在ぐらいは君も知っているだろう。さくらんぼの書いたプロット帳が答えさ。その中の物語にこれまでの真実が記されていたんだ。なぜそんな不思議な現象が起きたかは定かではないけど、僕の親父いわく見えざる神の手による世界線修復のしわざじゃないかって」
そうだ、本来ならば小説のプロットを作成するどころではない状態のさくらんぼに、まるで神が降りたみたいに。
――まさに文字通りの神懸かり的な現象が起こったんだ。見えざる神の手による采配は確実に存在する。世界線のルールブックを携えながら僕たちという駒を、その手のひらの上で動かすんだ。だけど審判を下すのは何も無慈悲な結果ばかりじゃない……。その事実に気が付いた僕は最期の望みを掛け、勝負に打って出た!!
【……】
「藍、辛いと思うけど僕と一緒に答え合わせを続けよう。だけどカンニングだって怒らないでくれ。プロット帳の物語は暗記するぐらい読み込んだんだ」
【恵一くん、その前にひとつだけ私に教えて欲しいの。桜ちゃんか書いた物語のタイトルって何?】
「……まだ仮だけど、藍の日記ってタイトルさ」
【えっ、私の日記!?】
「正確にはふたりの藍の日記。そう、自分との交換日記さ。……君は僕たちの
すべてはプロット帳の物語に書かれていた内容から僕は知ることが出来た。初めて楽園で世界線移動に成功したのはクーガーのおかげじゃないのは確かだ。それは後で分かったことだが親父の改造した箇所が一部不具合を起こしており、正常に機能していなかった。その状態ではただの感度が良いラジオにしか過ぎない。あのときの成功は藍がその場にいたから起こった奇跡だったんだ……。
「そして君は無意識のうちに世界線移動を繰り返した。最初は夢を見ていると信じて疑わなかった。もともと真面目な性格でオカルティズムな物には興味がない藍が自分の能力を知った切っ掛けが自分の日記帳だったなんて。……でも僕が知りたいのはいつから気が付いたんだ?」
【……最初は自分が世界線移動をしているなんて夢にも思わなかった。でも妙な居心地の悪さを感じたの。それは自分の家の部屋でも、学校でも。最初は自分の勘違いだと思ったわ。微妙に記憶と食い違う。会話だってそう、出来事も同じ。決定的だったのは小学四年生のころからの習慣になっていた日記帳に、自分で書いた覚えのない文章を見つけたの。もう頭がどうかなっちゃったんじゃないかと思って怖くなった】
「……そして自分との交換日記を思いつくなんて。藍、じつにお前らしいよな。僕なんかじゃあとても考えつかないよ」
【恵一くん。そんなに褒められた状況じゃなかったのよ。あのときの私は精神状態がどうかしていたのね。見たことのない自分の文章の余白に相手への伝言を書き込んだの】
「……もうひとりの私へ。明日から交換日記をしませんか? って。そしてお互いに日記帳を通じて交流が始まった。その相手は僕の世界線にいた藍だったんだよな。なんか凄いとしかいいようがないけど。親父が言うには奇跡だって。世界線のメカニズムでは単一の時間軸にふたりの同じ人間は存在できない。難しいことは僕も説明出来ないけどドッペルゲンガー的な現象はどうやら古い理論らしいから」
【日記帳を通じてだけどね。直接、もうひとりの私に会ったわけじゃないから。……でも本当に楽しかったんだよ。私との交換日記。考えていることは同じだけど微妙に違うの!! 恵一くんの世界線にいた私は本当に大人な考えの持ち主だったわ。よく恋の相談に乗ってもらえたし、反対に私が相手を励まして応援したりして】
こ、恋の相談って!? それは初耳だった。もちろん相手は僕なんだよな。もしも違ってたら立ち直れなさそうだ……。
「……いま思えば全ての辻褄が合うよ。きみさらずタワーの展望台で藍が小学生時代に突然、神隠しにあった事件も、突発的に起こった世界線移動が原因だったんだよな」
【恵一くん、あのときは本当にごめんなさい……。いつもは自分の部屋でしか移動は起こらないはずなのにあの日に限って突然、世界線が入れ替わったの。……無事に元の世界に戻れた後、両親や警察から問い詰められても本当の事実は言えなかった」
僕がきみさらずタワーの景色を思い浮かべると過呼吸になるくらい取り乱すのは、藍が神隠しにあった原因が自分にあると思ったからだ。目を離したすきに何者かに誘拐されたと思い込んでしまった。そして僕は情けないが記憶を改ざんすることで自分の壊れそうな精神の均衡を保とうとしてしまったんだ。それは現在の藍がみずからに重い罪を課しているのにとてもよく似ている気がする……。
「……藍、単刀直入に質問するよ。第二の答えを聞きたい。どうして君はこちらの世界線に戻らず、狭間のようなこの空間に立ち止まっているんだ。いまだって僕の前に姿を現さないのはいったいなぜなんだ?」
左手首に巻いたスマートウオッチが小刻みに震え、活動限界の時間を知らせる。クーガーのバッテリーもあと残りわずかだ。僕には藍とエンカウントするには機器を利用するしか手立てがない。彼女から存在を隠されたら、それで一巻の終わりだ。
【それは。……恵一くんには言いたくないよ。もしもその事実を知ったら絶対に藍のことを嫌いになる】
だめだ。彼女の声が段々と小さくなる。BCLラジオ改のスピーカーから聴こえてくる音もノイズが増えてしまっている。藍が存在を消したがっている証拠だ。イチかバチかこちらから先に仕掛けるしかない……。
「藍っ!! 僕の話を最後まで聞いてくれ。何を罪に思っているかは知っている。だけど心の優しい君らしいなんて気休めは言えない。それだけ藍の中で交換日記を通して交流を深めたもうひとりの自分の存在がとても大きくなっていたんだ。そうだ!! もうひとつの世界線にいた藍。彼女が亡くなったことに強い罪悪感を感じているんだろう。自分と同じ少女が別の世界にいる。そして同じような彼女が思春期に全身全霊を捧げて恋をしていた事実を知ってしまった。だから君は自分だけが幸せになることを気持ちの中で全力で拒んでいるんだろう」
【そんなんじゃないよ!! そんなに私はいい子じゃない……。二年前、この公園で桜の開花を眺めていたら突然、思い当たってしまったの。本当に亡くなる運命だったのは自分で、もしかしたら私と入れ替わっているときに相手は亡くなったんじゃないのかって。それを考えると本当に怖いの!! 私の身代わりになって彼女は……】
いままでぶ厚いベールに覆われていた彼女の本当の心の声を聞いた。思ったとおり藍はずっと自分を責め続けていたのか。僕のいた世界線に存在したもうひとりの藍が亡くなったのは自分の責任だと心の底から思い込んでいる。それがこちらの世界線に戻ってこない大きな原因のひとつだ。だから二年前にあのショッピングモールで僕の前から消える間際にこう言い残したんだ……。
『――ねえ、恵一くん、最後に教えてくれる。こっちの世界の私は幸せだったのかな?』
片方に精神の入れ物たる
けたたましい警告音がインカムマイクのイヤフォンに響き渡る。だめだ!! BCLラジオ改のバッテリーもすでに限界だ。このままでは藍との通信が完全に途絶えてしまう。
「藍、最後のお願いだ。これから僕が取る行動をしっかりと見ていてくれ!!」
――そして僕は最後の切り札を取り出した。
次回に続く。
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