終わらない夏
……遠くからサイレンの音が聞こえた。
喉がカラカラで関節の節々に痛みを感じる。子供の頃に風邪の予防接種を受けた後、逆効果で副反応が出てしまったときみたいだ。起き上がろうと布団を腕ではね除けようとするが、首筋に触れる感触は柔らかい布のはずなのにまるでずっしりと重い鉄のカーテンを掛けられているみたいだ。
何かが変だ、僕はまだ夢を見ているのか。
「恵一くんお願い、目を覚まして!!」
――女の人が泣いていた。
「……えっ?」
見知らぬ女性だった。
僕を見下ろした青白い頬には涙の跡が幾重に浮かんでいた。乱れた前髪が額に汗で張り付いているのが分かる。どうして名前を知っているのか? 僕はあなたが誰か分からないのに。
彼女は何をそんなに悲しんでいるんだ。
「……!?」
彼女の肩越しに光が射す。眩しさに目を細めながら見上げた先には、真っ白な壁と大きな四角い吹き抜けの窓が見えた。その壁には一枚の絵画が飾られていた。必死に僕は目を凝らす。まるで決められていた行動のように。そこに描かれていたのは白いドレスを着た女性の姿だった……。
「……この絵は」
吹き抜けから差し込む光が更に輝きを増した。天然のスポットライトのように壁の絵画を照らし出す。慈愛に満ちた微笑みを浮かべる絵の中の女性。その微笑みは一体、誰に向けられた物だろうか?
「……恵一くん、必ず私のところに戻ってきて」
その声は!?
懐かしさで胸が押しつぶされそうになる。僕の頭の中で記憶の濁流が逆回転のように目まぐるしく流れる。これは走馬灯なのか。いや違う、夢じゃなければ説明がつかない。見たことのない風景や出来事が途切れ途切れに脳内で再生される。これは誰かの記憶まで流れ込んできているのか?
「……この景色は何処だ?」
一面に広がる田園の向こうに小高い丘が見える。その丘の上に日傘を差した白いドレスを着た女性が立っていた。
あの肖像画の女性に間違いない!!
僕は全力で駆けだしていた。田舎の砂利道は走りにくくて何度足を取られて転びそうになっただろう。息も絶え絶えになり心臓が口から飛び出しそうになるが、そんなことに構っていられない。あの女性に会わなければ自分は絶対に後悔する。その想いだけが僕を突き動かしていた。
あと少しで丘の頂上だ。もうすぐ彼女に会える。夏の太陽が僕の背中に容赦なく降り注いだ。手の甲で額の汗を拭おうとした瞬間、一気に目の前の視界が開けた。
僕は思わず息を呑んだ。丘の頂上には新緑の草原が広がり、その中央には日傘を差した白いドレスの女性。
そしてその向こうには……。
真っ青な青空をバックに大きな山々を従えた。真っ白に湧き上がる夏の入道雲。その風景を見た瞬間、僕は全てを理解した。何故だかは分からないがこれは壁に掛けられていた絵画が僕に見せている景色と確信した。夢の中で僕は絵の中に入り込んでいるんだ。
そして僕の為に泣いてくれたあの女性は見知らぬ
白いドレスの女性がゆっくりと日傘を畳んだ。さらさらの長い黒髪が麦わら帽子から覗く。こぼれ落ちそうな笑顔を湛えて彼女は僕を待っていてくれた。
「アイっ!!」
その名前を僕は声の限り叫んだ。
「恵一くん、私との約束を守ってくれてありがとう……」
彼女の頬には片方だけえくぼが浮かんでいた。困ったように口角が上がる癖も。そのままなのに気付かないなんて……。
見知らぬ女性なんて思ってごめん。怒られても仕方がないな。心配して泣いてくれたきみをひと目ですぐに分からなかったのは、十七歳の今よりもっと綺麗に成長していたからだったんだね。
「恵一くん、どこにいてもまた私のことを見つけて!!」
「……あ、藍、待ってくれ!!」
一歩踏み出して彼女の白いドレスに指先を触れようとしたその瞬間。映画のフィルムが切れたように視界が反転して暗闇に包まれる。今まで景色だと思っていた風景が書き割りのセットみたいに四方八方から僕に崩れ落ちて来る……。
「うわああっ!?」
*******
……そこで目が覚めた。
ベンチの固い感触を頬に感じて、慌てて跳ね起きて辺りを見回す。買い物客が行きかうアウトレットモールの喧騒に包まれる。
「ウ~、ワン、ワン!!」
「こら!!、吠えちゃ駄目でしょ」
僕の動作に驚いたのかベンチ脇の通路を散歩中のプードルにいきなり吠えられてしまった。飼い主さんに紐を引っぱられながらまだこっちを睨んで小っちゃい身体で威嚇している。いつの間にか僕は完全にベンチで熟睡していたらしい。
「なんで僕はあんな夢を見たんだ……」
ぼやけた意識が次第に鮮明になってくる。あんなに鮮明な光景を見るの初めてだ。夢で片付けるには自分でも納得がいかない。作家の親父に感化されたわけじゃないが、夢を見たんじゃなくて何か意味があって見せられたというほうが正しい。
あの女性のことを僕は迷うことなくアイと呼んだ。もしかしたら彼女が僕にみせた夢なのかも知れない。
「公園で藍が僕の前に現れたときも彼女は物陰に隠れていたと言っていたけど……」
僕は記憶を紐解くように頭の中で再生した。さっき見た夢のように。
太田山公園で満開の桜の下に彼女は現れた、突然に。間違いなく僕の周りには誰もいなかった。もちろん隠れる物陰も近くにはない。
夢で見たあの丘で僕の前から消えたのとは正反対に突然姿を現したんだ。急に藍の存在が
「……藍はまた僕の前から消える!?」
最悪の想像に思わず寒気がした。咄嗟に僕は上着のポケットに手を突っ込んだ。
「……んっ、これは!?」
ポケットの指先に何かが触れた。そうだ親父のメモだ!! 今まですっかり忘れていた。一体何が書いてあるんだ。折りたたまれた数枚の紙片を広げる。
「……この地図は何だ?」
一枚目の紙片には地図が書かれていた。二枚目は手紙だった。そして親父からの手紙を読んで僕は驚きを隠せなかった……。
「この場所は藍の……!?」
僕は親父からのメモを握りしめたまま、ベンチで固まってしまった。
「恵一お兄ちゃん、お待たせ!!」
「恵一くん、待たせてごめんなさい。あれっ、どうしたの? 顔色が悪いよ。寒い所で座っていたから具合でも悪いの」
「大丈夫、恵一お兄ちゃん……」
さくらんぼと藍が買い物袋を抱えて戻って来た。僕の顔を見るなり二人とも心配そうな表情になる。メモを慌ててポケットにねじ込み努めて明るい口調で答える。
「……大丈夫だよ。、ちょっと待ちくたびれてベンチで爆睡しただけ。おっと、よだれを垂らしてしまったぜ……」
「うわっ、汚い!! 恵一お兄ちゃん、えんがちょだ。藍お姉ちゃん一緒に逃げるよ!!」
「えっ、えっ!? 桜ちゃん、駄目だよ。恵一くんを置いてっちゃかわいそう……」
はしゃぎあう二人を眺めているとメモの内容を告げることは出来なかった。もう少しだけ平和な日常を続けよう。この後に僕達を待っているのは楽しい時間だけではないのだから。
いまは無邪気に笑う彼女の姿を僕の目に焼き付けておきたいんだ……。
次回に続く。
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