藍からの手紙

「……恵一くんは元気ですか?」


 携帯ゲーム機の上部スクリーンからあいが僕に向かって語りかけてきた。こちらに右手を振るしぐさもどこかぎこちない。藍には昔から困ったような表情を浮かべる可愛い癖があった。思わず守ってあげたくなるそのはにかんだ笑顔。彼女の笑顔を見た途端、思わず目頭が熱くなる。二年ぶりの再会だった……。


「おはよう。こんにちは。こんばんは。恵一くんにこの動画のお手紙が、いつごろ届くか分からないからとりあえず全部のあいさつをしておくね!!」


 姿見の鏡に映り込んだ背後の壁には制服が掛けられている。自分も通っていた高校の女子制服だ。それを見た途端、せつなさで胸が押し潰されそうになる。こちら側の世界線で藍は同じ高校に進学していたのか!? 絶対にかなわない夢だと思って諦めていた。なぜなら……。


 ――僕の知っている世界線の彼女はすでに亡くなっているから。


 この世代の携帯ゲーム機は裸眼で立体視を実現する機能が搭載されている。製品にも強調する名前が付けられたほど当時は画期的な物だった。その立体視線の効果はいまも効果的で、藍の息使いが聞こえそうなほど現実感リアルを伴って画面の中から僕に迫ってくる。


「だめだ、藍。僕には……!!」


 自分の胸中に押し寄せてくる感情の高ぶりに、震える指先で思わず動画の静止ボタンを押しこんだ。小さな携帯ゲーム機の中で彼女の時間は二年前の四月一日で止まったままなのかと錯覚してしまいそうになる。


 いま自分の頭の中に浮かんでいる考えが馬鹿げているのは百も承知だ。僕は携帯ゲーム機を脇にある机の上に置き、それまで腰かけていたソファーベッドからおもむろに立ち上がった。そのまま所在なげに部屋の中を歩きながら物思いにふける。


 藍が新たに用意してくれた最後の動画を観終えてしまったら完全に彼女との接点がなくなってしまうんじゃないか? もしそうだとしたら二度も最愛の相手を失うことになる。それも永遠にだ。そんなことになれば僕は悲しみに耐えられない……。


 くそっ!! ここまで来て何を怖気ついているんだ。気持ちを落ち着かせるために両手で頭を押さえながら深く深呼吸する。そして椅子に座り直した僕は腰に妙な固い感触を感じた。


「何だ、これは!?」


 ……自分の荷物が椅子の上に置いてあったのか。


 藍の部屋に入った際、勉強机の椅子に何げなく鞄を置いたままで忘れていたな。この世界線に来たときは着の身着のままで、通信できないスマホとBCLラジオ改のスカイセンサーしか持っていなかった。この鞄には親父とさとしが用意してくれた最小限の着替えが入っている。でもあの固い感触はいったい何が入っているんだ?


 鞄を開けて中身を確認する。衣服の間に挟まれた固そうな背表紙が見えた。


「これは……。さくらんぼの作ったプロット帳じゃないか!?」


 どうしてこの鞄の中に入っているんだ。僕は入れた覚えがないぞ。楽園パラダイスに置いてきたとばかり思っていたのに……。ここまでくる道中で雨に濡れていないかプロット帳の表紙を開いてページをめくる。向こう側の世界線で売れない純文学作家の親父に何とかヒット作品を生み出して貰いたいと、妹のさくらんぼが苦心して売れ筋のアイデアや作品の骨格となるプロットを書き連ねた一冊なんだ。そのまま中身を読み進める。途中まではふたつの世界線でも同一なのは携帯ゲーム機の動画と一緒だな。……何か規則性でもあるのかもしれない。


「ここからが違うんだよな」


 頁をめくる僕の手が止まる。の部分に差し掛かった。プロット帳を渡してくれた親父の話ではさくらんぼがこの部分を書いたのは交通事故に遭った後だそうだ。それも事故の怪我も回復した辺りで記述が始まったんじゃないかと言っていた。親父の話が曖昧なのはさくらんぼが書いているところを直接見たわけではないとのことだった。記憶を失っているのに彼女は一時帰宅した際、このプロット帳と筆記用具を病室に持ち込むことを希望したそうだ。そして乱れてはいるが筆跡も妹の物で間違いない。


「……」


 無言でプロットを再読する。ふと顔を上げた視線の先に窓越しの景色が映った。雨戸のシャッターが閉じられたままの妹の部屋に向かって語りかける。


「さくらんぼ、こんな不甲斐ない兄貴じゃお前にめちゃくちゃ怒られちまうよな。ははっ、姉と妹の違いはあるけど聡くんを笑えないよ。いつも肝心な場面で男のほうがからっきし意気地がないのはどこも同じだ……」


 そうだ、記憶を失っただけではなく、いまも病室で昏睡状態が続く妹を助けられるのは僕しかいない。ここで立ち止まってはいられない!!


 さくらんぼが生死をさまよう最中さなかに必死で書き連ねたプロットなんだ。ぱっと見て物語にしか思えない文節の中にヒントが隠されている。小説家である親父はその違和感にいち早く気が付いていたから僕にこの一冊を託したんだ。


 これは物語プロットなんかじゃない。藍の真実について書かれた内容なんだ。どうしてさくらんぼがこれを書いたのかはいまは定かではない。だけどこちら側の世界線に来てから僕が直面した事柄にも見えざる神の手。そんな超自然的な力が働いている気がしてならない。藍の行方不明。さくらんぼの交通事故とそれに関わる身体症状も。あの楽園パラダイスで親父の一番弟子を自認する聡と一晩中語り明かして僕はひとつの仮説にたどり着いた。


 すべての終わりと始まりにという存在があった。最初は最愛の相手を別の世界線から強い想いだけで呼び寄せる特殊な能力が僕にあるとばかり勘違いしていたんだ。平成二十七年四月一日。僕の世界は藍が亡くなって完全に色を失ってしまった。そして二年前の四月一日、あの桜が咲き誇る太田山公園に成長した姿の彼女が現れたときも……。


 あくまで僕の中ではまだ仮説の段階だから。小説家である親父から赤字の添削が必要かもしれない。


 ――いまは考えても無駄案件に貴重な時間を費やすのはやめておこう。それよりも優先するべき行動に取り掛かるんだ。


「よし、もう一度だ!!」


 自分自身を奮い立たせるように気合を入れた。当然、隣の部屋にいる聡にも聞こえているだろう。だけど彼なら僕の心情もきっと分ってくれるはずだ。今更ながら人と人の繋がり、そして異なる世界線の面白さに想いをはせる。こちら側の世界線では藍が行方不明になった二年間のあいだに聡と仲良くなっているなんて……。


 そうだ!! 決して悪い事象ばかりじゃない。姉の藍も僕たちの関係を見たらきっと喜んでくれるはずだ。


 藍の勉強机の上に置いてある携帯ゲーム機にしっかりと向き直る。フタを開くと休眠状態スリープモードからすぐに画面が立ち上がった。静止状態から復帰した動画が再開する。


 これまでは姿見の鏡を利用して全身を撮影していた動画が突然、内側のカメラに切り替わり藍の表情が大写しになった。画面の中の彼女が真っすぐにこちらを見据えている きゅっ、と結んだ薄桜色の唇に決意が込められたように見えて僕は思わず身を乗り出してしまった。黒目がちな大きな瞳に吸い込まれそうだ。ゆっくりと彼女の唇が言葉を紡ぎ始める。


「……恵一くんが好きです。ずっと前から。知らなかったと思うけど」


 前回の動画での恥ずかしそうな態度とは打って変わり、一寸いっすんの迷いもないストレートな彼女の告白に僕は椅子の上で思わず画面に見入ってしまった。心臓をわしつかみにされるとはまさにこのことだろう。もしも動画の告白ではなく面と向かって言われたらこれまでの自分だったら照れ隠しできっと軽口を叩いていたに違いない。でもいまの僕はふざけたりはしないよ。きみの真剣な告白に対してちゃんとした返事をするだろう。


 元々僕のいた世界線で藍と最後に会った日。部屋で見た彼女の使うガナーピーのひざ掛けに書かれた言葉を思い出す。


 膝掛けに描かれていたのは彼女の大好きな漫画のキャラクター。ガナーピーフレンズ。白い身体に大きく垂れた黒い耳、世界一有名なビーグル犬だ。犬小屋の上に寝そべり、相棒の黄色い鳥。モントレーにむかって話しかけている図柄。漫画調のふきだしに英語で書かれていたガナーピーの言葉は……。


【……モントレーきみは好きな人に好きって伝えたかい? 犬の人生は短い。手遅れになるまえに僕は伝えるよ。きみが思うより何倍も僕はきみのことが大好きなんだ】


 そうだ、手遅れになる前にちゃんとした言葉で彼女に伝えるんだ。


「もしかしたら恵一くんには他に好きな人がいるかもしれない。だけど私の正直な気持ちだけはどうしても伝えておきたかったんだ……」


 画面の中での気丈な振る舞いもどうやら限界の様子だった。次第に伏し目がちになった藍の頬が赤くなっている。声までか細い状態だ。しばしの間、黙り込んだ後で最後の勇気を振り絞るように顔を上げた。長い艶やかな黒髪が彼女の頭の動きに合わせて揺れる。


「……恵一くんの彼女になってもいいですか?」


 藍と太田山公園で再会したときに真っ先に彼女から告げられた言葉の意味がここに来てしっかりと繋がった。あのときの僕は気が動転していて、その場所にそぐわない告白の言葉も見逃してしまったことにやっと気が付いた。


「……」


 いったん携帯ゲーム機の一時停止ボタンを押した。静止画の中の笑顔に向かって彼女が亡くなる前日に言えなかった言葉を告げる。二年間の時間差だけでなく世界線まで変わってしまったけどそこは勘弁してくれ……。


「……きみが僕のことを好きなのは昔から知っているよ。それ以上に僕は藍のことが大好きなんだ。これは知らなかったはずだよね。ほら、いまだって顔に書いてあるだろう」


 ――絶対にきみを救い出す。そして直接、告白することを誓うよ。


「藍のことが大好きだ。僕もずっと前から……」



 次回に続く。

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