【覚醒】第38話 何にも変わっちゃいない

 人気が疎な商店街


 江戸時代には港から塩を運ぶ重要な拠点として繁栄した港街


 今はその面影はない。


 商店街の真ん中を一本の通りが走る。


 平日の通勤時には、市中心部への抜け道としての役割のみで混雑する。


 その通りに面し、両脇を高層マンションに囲まれ、恰も両マンションを繋ぐ通路のような構造に見える古びたマンション


 この5階の角部屋


 そこが501号室


 昭和後期に建てられエレベーターも完備されることなく、部屋の半分は空き部屋である。


 一階のテナントもシャッターが降ろされ、「テナント募集」の看板にも錆が目立つ。


 シャッターの降りたテナントの横に人1人がやっと通れる通路がある。


 通路を進むと、今時、見たことも聞いたこともない飲料水の自販機が一台置かれ、永遠にドアが開いたままの無防備な玄関が見える。


 玄関を入るとすぐに行き止まりとなり、進む方向は左が一階居住者用、右がその上部階居住者達が利用する階段に繋がる。


 手摺もない階段は狭く、大人1人の肩幅程しかないが、人とすれ違う事などない。


 5階に着き、四つの部屋が並び、その奥に501号室がある。


 通路の照明は各部屋の赤い非常時用のランプのみである。


 501号室のドアに鍵が掛けられた試しはない。


 そのドアノブを握ると、ドアは内部の恐怖から逃げ出すようにバタンと開く。


 絶望のみが支配する501号室


 部屋の灯は必要ない。


 いや、光を灯す意味がないのだ。


 暗く重い空気の中


 妬み、僻み、恨みの化身と化した埃が渦巻いている。


 男はこの部屋の囚人かのように、社会から隔離され、絶望感しかない収容生活を送っている。


 男はベットに腰掛け、ショート・ホープの太く濃ゆい紫煙を蒸気機関車のように蒸していた。


 台所には、取手にテーピングが巻かれた出刃と柳刃の4本の包丁が並べられていた。


 男の座るベットサイドには、サントリー角瓶のボトルと抗うつ剤がぎっしり詰まった瓶が置かれていた。


 男はじっと玄関ドアが開くのを睨んでいた。


 男の右上の天井の四隅の一角には、ドス黒い雲を纏った龍が鎮座していた。


 そして、その下の壁はガラスの破片が幾十も突き刺さり、その下の床には砂塵のようなガラス粉が広がり、脳の化け物が彷徨いている。


 女は商店街の入り口まで来ると、スマホのGoogleマップを閉じた。


 そして、女は男のマンションの前まで行くと、ネックレスの十字架を首元から白いセーターの中に隠し入れた。


 女はマンション玄関を潜り、エレベーターを探したが、そのエントランスの狭さから、直ぐにエレベーターが無いことを悟り、右手の階段を登り始めた。


 女は5階まで登ると、各部屋の部屋番号を見ながら、奥へと進み、501号室の前までたどりついた。


 女はスマホを見た。


 時刻は13時55分であった。


 女は男に架電した。


 男は電話に出ない。


 女は架電しながら、ドアをノックした。


 中から何の返答もない。


 女は仕方なくドアノブを握り回し、そっと引き寄せた。


 その瞬間、中の風圧に押されるようドアがスッと開いた。


 女は何かに押されるよう前のめりになりながら、部屋玄関に一歩を踏み入れた。


 女は体勢を整え前を見た。


 もくもくと青白い雲のような煙草の煙の向こう側に男の存在を感じた。


 女が言った。


「来たよ!」と


 男はベットから立ち上がり、びっこを引きながら一歩、二歩と女に近づいて来た。


 女は何も怖くなかった。


 女に見える近づく男の姿は35年前の恋人そのものであった。


 男が目の前まで来ると、女は自然に男の胸に飛び込んだ。


 男はしっかりと女を捕らえるよう受け止めた。


 女は男の胸に顔を埋めた。


 男はそっと女の背中に片手を回し、もう片方の腕でドアノブを握り、バタンとドアを閉めた。


 そして、男は女を胸から離し、こう言った。


「奥に入れ。」と


 女は片手で目頭を拭きながら、奥に入って行った。


 女は途中、靴を履いたままであることに気付き、慌てて靴を脱ごうとした。


「履いたままでいい。」と


 男が言い、女の背中を片手で押すように、ベットまで案内した。


 女はベットの前で佇んだ。


 男はベットに腰掛け、また、ショート・ホープを咥え、ジッポ・ライターをカシャと擦り、煙草に火を付けた。


「あっ」と


 女が声を上げた。


 男が女を見た。


 女は微笑んでいた。


 男は目を逸らした。


 女は微笑みながらゆっくりと男の隣に腰を降ろした。


 男は言った。


「何がおかしい。」と


 女は下を向きながらこう言った。


「昔と同じ。煙草の吸い方が…」と


 男は何も答えず、煙草を深く吸い込み、紫煙を静かに濃ゆく鼻から吐いた。


 女はそっと匂った。


 隣から香るショート・ホープの変わらぬ匂いを。


 そして、女はそっと男を見遣った。


 青白い紫煙の中に男の高い鼻が見えた。


 紫煙が立ち昇る先に男の長い睫毛が見え始めた。


 そして、紫煙が消え去る下方に、煙草を咥えた男の薄い上唇が見えた。


 女は思った。


 何にも変わってないことを…


 男が煙草を咥えたまま、女を見た。


 女はぼんやり男を眺めた。


 紫煙に煙るその先に、男の深い黒色の瞳が見えた。


 そして、その瞳の中に居る自分を見た。


 女は感じた。


「私は貴方に敵わない。私は貴方の虜。」と


 そして、昔と同じように、女は無防備に目を閉じて、男の顔を纏う紫煙を静かに吸い込みながら、紫煙の根源である上唇に、半開きの潤んだ唇をそっと重ねた。


 男は昔と同じように自然と煙草を横口に咥え直し、女の唇が重なると同時に煙草をそっと指に挟み込んだ。


 男は何かを感じた。


 身体が自然に無意識に動くのを…


 暫しの接吻


 501号室は、ショート・ホープの紫煙が立ち込める中、液体の交合う微かな音が鳴っていた。


 男は女の顔を離し、女の顔を見た。


 女は目を瞑っていた。


 男はまじまじと女の顔を見続けた。


 男も思った。


 何にも変わっていない事を


 無抵抗に目を瞑り、唇を半開きにし、綺麗な鼻筋の下にある小さな鼻腔を膨らませ、男の愛を待ち侘びる女の表情


 あの時のままであった。


 時間は過ぎ行きてはなかった。


 男はこうも思った。


「35年の時間の方が幻なのか…、


 何にも変わっちゃいない。


 お前はあの時のままだ…」と

 


 

 

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