【覚醒】第14話 10分前、それでも恋心は焦がれて行った

 男は正午に501号室を出た。


 洗髪されることなくベタついたまま越年した髪の毛は、整髪剤で固められずとも、しっかりと頭皮に張り付いていた。


 男はそのベタついた髪の上からニット帽を被り、安物の綿入りの作業用ジャンバーを羽織り、ズボンは着古したジャージを跨ぎ、裸足に季節外れのクロックスを履いて、杖を突きながら病院に向かった。


 男はその途中、実家に立ち寄った。


 やはり、裏口のガラス戸から母親を呼んだ。


 母親は慌てて駆け寄り、男を中に入れようとしたが、男はそれを断り、こう言った。


「今から病院に行く。金を貸してくれ。」と


 母親が何処が悪いのか尋ねても、男は明確に答えず、病院に行くとだけしか答えなかった。


 怪訝に思った母親は男にこう言った。


「まさか、心療内科に行くんじゃないだろうね」と


 母親は、男が東京で自殺未遂の騒動を引き起こした時、医者から忠告されていた。


「息子さんから、薬を取り上げてください。今は投薬治療よりも体内に残存している抗うつ剤の成分が抜け切ることが大事です。」と


 男は返答せず、空咳をしてみせた。


 母親は渋々、息子に金を手渡した。


 息子は手渡された紙幣を数えると、一枚足りないと言い、追加を促すよう、片手を差し出した。


 母親は、息子の脚の具合もあり、タクシー代も必要だろうと思い、もう一枚、紙幣を渡した。


 男は金を貰うと、そそくさと実家を後にした。


 男は大通りに出るとタクシーを止めた。


 そして、運転手に女の心療内科の名前を告げた。


 運転手はルームミラーで男の顔を覗き込んだ。


 ニット帽を被り、無精髭を蓄え、目ヤニに覆われた汚れた顔を…


 男がルームミラーに映る運転手の目を睨んだ。


 運転手は慌てて、発車した。


 そこから、女の心療内科までは10分もあれば行ける距離であった。


 道中、車内は無言の空気が占領した。


 心療内科前に着くと、運転手は料金を男に告げた。


 男は千円札一枚を助手席に投げ、釣りは要らないと言い、タクシーを降りた。


 時刻は午後12時30分であった。


 心療内科は街中の雑居ビルの中にあった。


 男は雑居ビルの片扉を開け、エレベーターの前に行き、心療内科のある階層を確認し、エレベーターに乗り込み、3階のボタンを押した。


 エレベーターが開くと、心療内科の文字が書かれた、曇りガラスの玄関が見て取れた。


 男がその曇りガラスの玄関に近づくと、自動ドアが開いた。


 男は薄暗い待合室に行き、ベンチシートの椅子に腰掛けた。


 その時、待合室の電気が点灯し、カーテンで閉ざされている受付の小窓が開き、中から声がした。


「申し訳ございません。診療時間は13時からとなっておりますので、もう暫くお待ちください。」と


 男はその小窓に近づき、こう言った。


「13時から予約してます○○です。」と


「○○さんですね。承っております。もう暫く、お待ち下さいね。」と受付の者が返答した。


 受付は、医者の妻ではなく、若い職員が昼休みの当番として待機していた。


 この若い職員は、まだ採用されて間もなく、昼休みの対応も慣れていなかった。


 本来であれば、玄関の自動ドアも13時から稼働するようにしておかなければならないところ、それを失念し、患者を待合室に入れてしまったのである。


 しかし、この若い職員は、当然、この男と医師夫婦の因縁など知る由もなく、30分ぐらいは支障がないと思い、予約より早めに来た男を安易に受け入れてしまったのだ。


 その頃、女は控室で仮眠を取っていた。

 

 朝から極度に緊張し、昨夜も一睡も出来ず、更に今朝、朝風呂に長く浸かったせいか、女は不覚にも寝落ちしてしまっていた。


 一方、医師は診断室に居た。


 診断室は、患者のプライバシーの観点から完全防音の仕様が施されていたことから、医師も男が来たことには気づいていなかった。


 医師も昨夜は緊張してあまり睡眠を取ることができずにいたため、女と同様、仮眠を取っていた。


 女は深い眠りの中、「トントン」という音に目を覚まし、慌てて飛び起きた。


 部屋の時計を見ると、まだ12時40分であった。


 女が仮眠室のドアを開けると、受付の若い職員が立っていた。


 若い職員は、申し訳なさそうに女に話しかけた。


「すいませんお休み中、あの13時からのお客様が既に見えられていまして、あのぉー、保険証がないと言っているのですが、どう対応すれば宜しいかと思いまして…」と


 女の顔色が一瞬曇った。


「もう来てるのね…、あの人…、私、寝てしまってた…、どうしよう…」と珍しく女は狼狽した。


 そして、このやるせ無い気持ちを、珍しく強い口調でこの若い職員にぶつけてしまった。


「どうして時間前に通すの!病院の規則を早く覚えてちょうだい!」と


 そう言うと、女は次の対応に迷ってしまった。


 普段であれば、このような特殊な客への対応は女が代わりに行うところ、女はなかなか代わろうとはしなかった。


 女は緊張していた。


 何十年ぶりかに逢う男の前に顔を身体を曝け出すのを躊躇っていた。


 せめて、鏡で顔を整えてから、男に逢いたかった。


 若い職員は、予想だにしない女からの叱責に完全に萎縮し、下を向いていた。


 女は一つ深呼吸をし、若い職員にこう指示した。


「良いですか。お客様に保険証の件は後で説明するので、もうしばらくお待ち下さいと言ってね」と


 若い職員はコクリ頷き、受付窓口に戻って行った。


 女は急いで洗面所に行き、鏡に映る自身の顔をまじまじと見つめ、髪の毛、顔化粧を丹念に直し始めた。


 女の化粧道具を持つ指が震えていた。


 怖いからではなかった。


 女は、男に綺麗な自分を見て欲しいと思った。


 結婚して女がこんな乙女心を抱くのは初めてであった。


 それもこんな病院の洗面所の中で…


 明らかに鏡の中の女の眼差しは、潤んでいた。


 それは正に恋焦がれる乙女の瞳であった…

 

 時計の針は12時50分を周っていた。


 男との再会まで、残り10分を切っていた…

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