【覚醒】第15話 貴方の瞳に映る私

 午後1時、受付のカーテンは何事もなく開かれた。


 融通の効かない窓口案内のアナウンスが1人しか待ってない待合室に木霊した。


「○番でお待ちのお客様、受付窓口へお越しください」


 男は2回目の受付案内に従い、受付に向かった。


 男は視線を敢えて窓口に向けず、途中見てたテレビに向けて、杖を突きながらゆっくりと向かった。


 女も男の姿を見ることが出来ず、この後渡す予定の問診票を振るえる手で掴んでいた。


 男が近づいて来るのを感じた女は、全てのエネルギーを集中させ、脳内を空っぽにし、胸の内にある感情という細胞を全て退ぞけ、自分は無感情な機械だと何度も何度も自分に言い聞かせた。


 男はテレビの方向から視線を受付に向け直した。


 男の視界に女の上半身が映し出された。


 その時、一瞬、男の胸中に得も知れない「怒り」が沸騰した。


「くそっ、心配させやがって!」


「くそっ、元気ならそれで良い!」


 男は何となく娘を想う父親の気分になったよう女を嗜むよう見つめながら受付窓口に辿り着いた。


 女は依然、男の姿を見ることは出来ず、一生懸命、手の震えを我慢しながら、問診票を握っていた。


 男が受付窓口に着いても女は顔を上げない。


 男は女の胸中を察し、杖で受付の台を叩き、受付に辿り着いた事を女に知らせてあげた。


「あっ、初診ですね。」


「この用紙に記入してください。」


 女にとって、そう言葉を発するのが限界であった。


 女は涙腺が熱くなるのを我慢しながら、不自然にPC画面を見て、無用なデータ入力の猿芝居をしていた。


 その光景をもう1人の若い職員が女の後ろら眺めていたが、女の脚が貧乏揺すりのよう小刻みに震えているのが見て取れた。


 男は、女が頑なに視線を合わせない態度に、少し憤りを感じ、


「何様のつもりだ。勝手に姿をくらましやがった癖に!俺はお前を傷つけた覚えはないぞ!」と怪訝に思ったが、


 「まあ、好きにすれば良い。」と思い直し、


 顔を背けた女から、問診票を受け取り、待合室のテーブルに戻って行った。


 女の様子が不自然だと感じた受付の職員は、恐る恐る、女に近づき、耳元でこう囁いた。


「あのぉ~、保険証の件は…」と


 女は聞こえないフリをし、その職員の質問を無視した。


 そして、男が受付から遠ざかった頃合いを見計らい、女は、後ろを振り向き、「要らぬ事は言わないで!」と言わんばかり、若い職員を睨んだ。


 そして、女はそっと深呼吸をし、次に取るべき行動を考えた。


 男が問診票を書くまで3分掛かると推測した。


 女は、急いで机の上のスマホのカメラを起動させ、自分の顔を映し出し、その顔に向けて、「うん。」と頷き、そして、意思を決したよう立ち上がり、受付のドアを開き、待合室に出て、問診票を書いている男の元に向かった。


 女が見る視界は、スローモーションの画像のようであり、秒針の音をBGMに、コマ切れの映像が飛び込んで行った。


 遂に女は、勇気を持って男を見た。


 次の瞬間、男の姿だけがピンポイントに表出され、他の光景は削除された。


 女の心臓の鼓動は大音量のスピーカーで出力されるよう「ドックン、ドックン」と低音量を打ち鳴らした。


 女は、椅子に座る男の側にそっとしゃがみ、男が問診票を書き終えるのを待った。


 その間、女は放心状態で夢の中に居るような感じであった。


 男がいきなり顔を上げた。


 女の視界の中に突然、男の顔が出現した。


 女は、男の瞳だけを見た。


 あの頃と同じ黒い深い瞳が、そこにはあった。


 女の視界には、無精髭や目ヤニなど汚れた箇所は全く映らなかった。


 それは、この数秒の内に、女の心が期待した事であった。


「瞳の中を覗きたい。」


「余分なものはどうでもいいの。純粋なもの。あの人の瞳。それを見れば全てが分かる。あの人の心も私の心も。」


 女は男の瞳だけをクローズアップし、優しい視線で包み込んだ。


 すると、男の黒い瞳の中に紛れもなく女の顔が映っていた。


 女は感じた。


「また、私が映る貴方の瞳を見ることができるなんて…、神様、感謝します。この奇跡に感謝します。」と


 その数秒間の視線の合致が、失われていた過去の全てを補うかのよう女の心は純愛に満ち溢れた。


 男は、陶酔している女に、何食わぬ顔をし、問診票を押しやった。


 女は慌てて問診票を受け取ると、内容を確認することなく、男の顔から一瞬足りとも視線を離すことなく、そっと立ち上がり、後退りしながら受付窓口に戻って行った。


 どうしようもなかった。


 女は取りうる精一杯の行動をしようとしたが、どうしようもなかった。


 無理だった。


 男の瞳に凌駕されてしまった。


 叶うならば抱きつきたかった。


 あの胸に飛び込みたかった。


 そしてあの胸に埋もれ思いっきり泣きたかった。


 女は了知した。


 自分が男を愛していることを…


受付に戻った女は、この痺れる感覚に抗おうとはしなかった。


 それは不可能だと感じた。


 女は若い職員に問診票を渡すと、「後はお願いね」と優しく言い、控室に入り込んだ。


 女は控室の椅子に座り、頭を抱え、すすり泣いた。


「私は貴方と一緒に居たかった…」


 そう心に思いすすり泣いた。


 診断室の扉が少し開いていた。


 医師は、女の男に対する行動を見守っていた。


 医師は、明らかに動揺している女の行動を不甲斐ないと感じながら、女が退く姿を見遣り「チッ」と舌打ちをした。


 そして、次に何気なく男を見遣った。


 医師はギョッとした。


 医師の見遣った先には、獰猛な虎のような殺気たる眼光が鋭く投げかけられていたのだ。


 医師はヨロヨロと後退りしながら呟いた。


「奴が俺を睨んでいる…」と


 

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