【覚醒】第16話 貴方の思い出は背中の向こうに…
女は過去の運命のすれ違いを悔やみ、今ある自分を恨んだが、内なるもう1人の自分が声を上げた。
「彼は私のために苦しんだの?」と
女は「はっ」と我に返った。
「今、あの人は私以上に苦しんでいる。こんな病院に来るんだから…」と
女は、急いで控室を出て、若い職員から男の記入した問診票を奪い、食い入るように見入った。
まず、氏名、生年月日、年齢、性別、住所、電話番号、連絡先を確認した。
連絡先には男の母親の氏名と電話番号が記入されていた。
一瞬、女の目が輝いた。
「あの人、奥さんいないんだぁ」
女は、男が結婚したことは知っていた。
この街は東京とかと違い、他人の噂が直ぐに耳に入る。知りたくもない噂も…
女は結婚披露宴の席上で、意地の悪い同級生から、
「○○君も今度、結婚するんだってよ!○○、良かったね。これで幸せになれるよ!」と知らされていた。
女は、今、男に妻のいないことを知ると、不謹慎にも幾分か嬉しくなったが、直ぐに男の事が無性に心配になった。
病状欄に目を移した。
「不眠、抑うつ、希死念慮」と書かれていた。
女は瞬時に察知した。
「この専門的な精神疾患の書き方から、彼は従前から病んでいたんだわ。」と
女の目から一雫、涙が流れた。
「私を助けてなんて…、違う!私が彼を助ける!」
女はそう決意し、足早に診断室に入り、医師の机の書類箱に問診票を置き、そして、医師にこう伝えた。
「次の患者は初診ですが、メンタル疾患の既往歴があるみたいです。特に「希死念慮」と書いている点が気になります。」と
それを聞いた医師は、先ほど、男から睨まれたこともあり、男との因縁といった私的感情を払拭し、女と同様、事務的に答えた。
「希死念慮という専門用語を使っていることから、既往歴の可能性は高いな。」と
女は報告を済ませ、診断室を後にした。
女は受付に戻り、今度は勇気を持って、男の方を見遣った。
男はずっと待合室のテレビを見ていた。
女からは、丁度、男の横顔が見てとれたが、男はニット帽に無精髭、それにマスクを着用していたため、男の顔つきは良く分からなかった。
男が診断室に呼ばれた。
男が椅子から立ち上がる時、女は思わず声を上げそうになった。
男は杖を突き、そぉーと、立ち上がると、ヨタヨタと脚を引き摺りながら診断室に向かって行った。
「どうしたのよ!脚を怪我したの?」と女は心で叫んだ!
女は、男の悲惨な様子を直視し、自身の保身、「助けて」と男に救済を乞うた我儘を恥、より一層、男の事が心配で心配で、居た堪れない気持ちで一杯となった。
女は受付台の下で、誰からも見られないよう、両手を合わせながら、涙がこぼれ落ちないよう、大きく目を見開き、男の背中を見送った。
そして、こう感じた。
「最後に見た貴方の背中は、もっと大きかったのに…」と
女が覚えていた男の背中
男と最後に逢った別れの日
女は理由も言わず、男に別れを懇願した。
男は何度も何度も理由を問うた。
女は頑なに黙秘し、別れを男が承知するまで、口を閉じた。
どれだけ時間が経ったか…
男は、遂に理由なき別れを承諾した。
そして、男は「さよなら」も言わず、席を立ち、その場から去って行った。
あの時の男の背中
その映像は、今でも女の大切な宝物であった。
「貴方は怒ってない。背中を見たら、分かったの。貴方は怒ってないと。」
女は男の背中に助けられた。
男の優しい思い出は、決して上書きされる事なく、今も女の心に残っている。
「あの大きな背中が、私の我儘を、怒っても当然な別れの強要を許してくれた。2人の淡い恋の思い出を壊さぬように…、背中の向こうに閉まってくれたの…」
女はあの別れの日を思い出していた。
あの無情な別れを…
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