【愛への帰趨】第50話 寄生虫は貴様だ!

 男は病院の待合室に居た。


 腕組みをし、目を瞑り、落ち着き払っている男


 方や、受付窓口では診断室に居る医師との電話に緊迫した表情を浮かべる職員


 正に対照的な光景が分裂されていた。


「予約なしで来たのか?診断予定日は来週のはずじゃないか?」


「はい、〇〇さん、今日は診察を受けに来たのではないと言っています。」


「何!、じやぁ、何しに来たんだ。」


「そ、それが、先生が知っていると…、言っています。」


「お、俺が?」


「は、はい…」


 医師の脳裏に妻の睨んだ目付きが浮かんだ。


「先生どうなさいますか?警察に連絡しますか?」


「警察に?」


「は、はい。〇〇さん、何か、こ、怖いんです。」


「こ、怖い?、何がだ?何が怖いんだ?」


「あ、あの~、目付きが、目付きが怖いんです。」


 医師は、朝帰りした妻の目付きを再び思い浮かべた。


 そして、本件来訪の目的に妻が絡んでいることを予感した医師は、こう指示した。


「警察への連絡はしなくて良い。今、どうしてる?」


「はい、窓口に座ってお静かにお待ちになっています。」


「他の客はいるのか?」


「今、おりません。」


「分かった。少し待つように言ってくれ。」


「分かりました。」


 医師は内線電話の受話器を置くと、頭を抱えた。


「一体、何が起こってるだ、どうして、俺の所に来るんだよ!」と


 出来ればこの部屋から飛んで逃げたい気持ちで一杯であった。


「要件は俺が知っている?


 間違いなく妻の事だ。


 俺に何もどうせ!と言うつもりなのか?


 そうだ!


 あんな浮気妻、奴にくれてやるさ!」


 医師はこう開き直り、男を呼ぶよう、受付に架電した。


 受付の職員が男を促した。


 男はゆっくりと杖を支えに立ち上がり、脚を引き摺るよう職員の後を付いて行った。


 職員が診断室をノックし、ドアを開き、そして、男を中に誘導した。


 中に居る医師は男の顔を見遣ることなく、何かしらパソコンに向かって座っていた。


 男はいつもの医師の前の丸椅子に座った。


 案内した職員は、恐る恐る、ドアをそっと閉め、診断室を後にした。


 医師は診断室のドアが閉まると、男の方を向き、男の顔を見て、こう言った。


「今日はどのようなご用件ですか?」と


 男は何も言わず、じっと医師を睨んでいた。


 医師は堪らず、男の顔から目を逸らした。


 2人の間に沈黙が広がった。


 医師は諦めた。


 平静を装うことを諦めた。


 自分から言わざるを得ない状況を納得した。


 医師はもう一度、男の顔を見遣り、こう尋ねた。


「妻の事ですか?」と


「そうだ。」と男が答えた。


「妻は貴方の所に居るのですか?」


「そうだ。」


「そうですか…」


 医師の額から脂汗が滲み出た。


 医師は会話の流れを切りながら、次に述べる言葉が浮かばず、貧乏揺すりをし出した。


 また、2人の間に沈黙が訪れた。


 診断室の時計の針だけ、空気を読まず、「カチ、カチ」と音を立てていた。


 やはり、沈黙をやぶらざるを得なかったのは医師であった。


「わ、私にどうすれと?」と


 医師は投げやりに男に問うた。


 男が言った。


「お前は妻が心配ではないのか?」と


「そ、それは、心配ですよ。」


「お前は妻が寝取られて、悔しくないのか?」


「……………」


「お前はあの人を大事にしたか?」


「……………」


「お前はあの人を尊敬しているか?」


「……………」


 男は、何も答えようとしない、この情けない夫に『怒り』が込み上げて来た。


「もう一度聞く。お前はあの人を尊敬しているか?」


 医師は滲み出た額の脂汗を素手で拭いながら、こう言った。


「妻から何か聞いたんですか?」と


 それを聞いた男の眼は、鬼神の如く燃えたぎった。


 その眼を見た医師は、慌てふためき、言い訳を論じ出した。


「俺は妻を養って来たんだ。品の良い服を与え、化粧品も宝石も買い与えたんだ。


 上流階級の女性として、立派に養ったんだ。


 それなのに妻は俺を敬うどころか、軽蔑する。


 1人で生活も出来ないくせに!


 俺が居なければ、浮浪者のように惨めな生活を余儀なくされるのに。


 そうさ!


 あの女は一人で生きられないんだよ!


 俺の養いがなければ、生活保護者だ!」と


 男はゆっくりと医師の言い訳を聞きながら、腰の柳刃包丁に手を翳していた。


 医師は妻の悪口を言えば、妻を引き止める姿勢を見せなければ、妻を愛しているなど言わなければ、この男は自分には危害を加える事なく、要件である、「離婚合意」の確約を仲介し、妻の元に戻って行くだろうと踏んでいた。


 そう、医師は、男が妻から頼まれて離婚を仲介しに来たと思い込んだのである。


 この時、医師の頭の中には妻の顔は浮かばず、財産分与の条件額しか浮かんでいなかった。


「質問に答えろ。」と男が言った。


 医師は驚いた。


「し、質問…」


「答えろ。」


「あ、あの、妻に言ってください、離婚には応じると。


 財産分与も弁護士に相談した上で其れ相当の額を提示したいと。


 こう言っていたと伝えてください。」


 医師は狡賢い反面、結果を急ぎ過ぎた。


 男はゆっくりと立ち上がると、杖を捨てて、いきなり医師の顔面を鷲掴みにすると、片方の手に腰から抜き出した柳刃包丁を振り上げた。


「ひぃっ!やめろ!やめてくれ!」と


 医師が男に鷲掴みされた指の間から目をひん剥き、叫んだ。


 防音室である診断室


 医師の悲鳴は外には届かない。


 男は医師の頭を掴み直し、机のパソコンのキーボードに顔を押し付けた。


 そして、医師に再び問うた。


「答えろ!」と


 医師は泣きながら乞うた。


「もう一度、質問を教えて下さい!」と


 男は静かにこう言った。


「お前はあの人を尊敬しているのか?」と


 狡賢いコヨーテは、その賢さに墓穴を掘った。


 妻に未練などない素振りを見せれば、昔の恋人と結婚した医師に対する「怒り」も収まるだろうと考え、こう答えた。


「あの女に未練など何もないです。尊敬など一切していません!」と


 それを聞き、男はこう問うた。


「さっきお前は言った。あの人は1人だと生活出来ない。浮浪者、生活保護者になると。


 本当にそう思うか?」と


 医師は急いで答えた。


「はい!あの女は一人では何もできません。


 だ、だ、だから、あの女と一緒になるならば、あの女の貴方との不貞行為は追求しません。


 財産分与も半々にします!


 た、助けて下さい!」と


 男は更に問うた。


「お前はあの人を寄生虫だと罵った。それも本当か?」


「はい、本当です。私の財力に寄生して生きてきた人間です。」と


「分かった。」と


 男は医師の頭を離した。


 その瞬間、


 キーボードに押し付けられていた医師の耳横を「シュッ」と冷たい音が横切った。


「ヒィッ」と医師は悲鳴を上げた。


 医師の僅か数センチ前に鋼色の柳刃包丁がキーボードの溝に突き刺さった。


 医師は頭を上げることなく、そっと男を見遣った。


 医師は慄いた。


 男はもう1本の柳刃包丁を振り上げていた。


 医師は失禁した。


 そして、医師は男に命乞いをした。


「助けてくれ!なんでもするから!」と


 男は更に更に医師に問うた。


「お前はあの人と何回寝た?」と


 医師は堪らずこう答えた。


「そ、そんなに寝てないです。子作りの時ぐらいです。


 も、もう、何十年も寝てないです!」と


 男は言った。


「正確に答えろ。何回寝たんだ?」と


 動揺している医師は情けなく回数を思い出そうとし、そして、場当たり的に答えようとした。


「子供2人です。20回位と思います。」と


 その時、医師の首筋に鋼の冷たい感触が「ツーン」と伝わった。


 医師はその冷たい物資は何ぞやとそっと目を向けた。


 男が出刃包丁で医師の動脈を押さえていた。


 そして、次の瞬間、また、シュンと冷たい音が医師のもう片方の耳横をかすめ、柳刃がキーボードに突き刺さった。


 少しでも顔を動かせば、鋼の刃が喉元を捉える。


 医師はキーボードに涎を垂らしながら叫んだ。


「あんたにやるから!あの女、あんたにやるから!助けてくれ!」と


 男は柳刃で医師の顔を挟み、医師の顔から出刃を離し、そして、高く高く振り上げ、医師の首を出刃でズブリと突き刺した。


 出刃は急所の頸動脈を一瞬にして分断した。


 医師は悲鳴も上げず、即死した。


 男は、活〆された魚のように目をひん剥き、舌を飛び出している、不細工な医師の死顔に向かいこう言った。


「あの人は元々俺の女だ!


 腐れ!


 寄生虫は貴様だ!」と


 


 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る