【愛への帰趨】第51話 もう誰にも邪魔させない。
男は無沙汰な死体に唾を吐きかけ、その頸動脈を寸断した出刃庖丁を引き抜こうとした。
その時、
「絶対、戻って来て!」
と女の言葉が、幻聴のように心に確と木霊した。
男は医師の死体をかすめて突き刺さっている2本の柳刃をキーボードから抜き取り、両腰に納め、急所を捉えた出刃は返り血を浴びないよう、放置した。
そして、男はスマホを握り、女に架電した。
ワンコールで女の声がスピーカー越しに響いた。
「大丈夫?」
「旦那は殺した。」
「大丈夫?」
「今から病院を出る。
いいか!
今から言うことを良く聞け!
そこには戻らない。
戻れない。」
女が口を挟む。
「どうして?待ってるのに?戻って!」
「いいか、よーく聞くんだ。
そこに戻ると邪魔が入る。
ポリ公共がハエのように群がる。
俺は今からお前のマンションに向かう。
お前も直ぐにそこを出ろ!
そして、お前のマンションに向かえ!」
男はそう言うと電話を切った。
「あっ」と
男は何かを思い出し、再度、女に架電した。
女は直ぐに電話に出た。
「どうしたの?」
「そこを出る時、ベットの下の紙袋を持って来てくれ!」
「分かった!」
女は男の指示どおり、ベットの下にある紙袋を掴み、バックに押し込むと、素早く、501号室を出て、表通りに降り立った。そして、タクシーを拾い、自宅に向かった。
男は柳刃を両腰に差し込むと、放り投げた杖を掴み、診断室の掛け時計を見た。
「2時か。」と男は呟くと、
診断室のドアをそっと開け、敢えて、医師の死体に一礼をしながら部屋を出た。
そして、杖を突きながら受付窓口をゆっくりと通り過ぎ、自動ドアから外に出て、エレベーターに乗り込んだ。
男はビルの1階に降りると、エレベーターホールの片隅にあるゴミ収集置き場に杖を投げ捨て、走って通りに向かい、タクシーを拾った。
女のマンションは、501号室からも病院からも、タクシーで10分位の所に位置した。
男はタクシーに乗り込み、運転手に、行き先を女のマンション前のコンビニを指定した。
そして、男はスマホを確認した。
女からLINEが入っていた。
「今、タクシーで向かっています。」
男は書き込んだ。
「俺も今タクシーに乗った。
お前の方が早く着く。
俺はマンション前のコンビニで一旦降りる。
お前はマンション玄関のエントランスに居てくれ!
コンビニに着いた連絡する!」と
当該コメントには直ぐに既読表示が刻まれ、その下に、「分かった。」と女からの返信が表示された。
その頃、病院では、午後2時からの客が男と入れ違いに待合室に待機していた。
診察予定の午後2時を過ぎても医師から受付への診断開始の電話は鳴らない。
待機している客が腕時計を見て、怪訝そうに受付を見遣った。
時刻は既に午後2時10分を回っていた。
受付の職員は、仕方なく、内線電話を診断室に回したが、医師の応答はなかった。
異変を感じた受付職員は診断室のドアをノックした。
中から返答はない。
職員は診断室のドアを開けた。
「きゃぁ~!」
職員の悲鳴が病院中に響き渡った。
慌てて、他の職員も診断室に駆け込んだ。
「警察、警察に電話してぇ!」
診断室の掛け時計は、午後2時20分を指していた。
その頃、女はマンションに着き、男の指示どおり、玄関エントランスの郵便受ホールの片隅に潜んだ。
女は前髪で顔を隠すよう佇み、スマホを注視した。
「今、コンビニに着いた。
これからマンションに向かう。
俺が玄関ドアに近づいたら、ドアを解除してくれ。」と
男からLINEが飛び込んで来た。
女は急いで、エントランスのセキュリティ画面の前に走った。
女は玄関外を見遣りながら、気が急いた。
「早く来て!
今なら誰も居ない。
エレベーターも降りて来ない!
早く!」と
男の姿が見えた。
男が杖なしで足早に歩いている姿が見えた。
女は思わず、大きく手を振った。
男はそれに気づき、走った!
女がセキュリティシステムにキーを差し込む。
エントランスの自動ドアが開く。
男は駆け込んだ。
女はキーを引き抜き、ドアを閉め、男の手を握り、エレベーターホールに向かった。
2人はまだ何も会話を交わさない。
エレベーターホールには2台のエレベーターがある。
一台が降りて来た。
男は女の手を離し、女から横に1、2歩間隔を開け、隣のエレベーターを待つ住民を装った。
「チーン」と一台のエレベーターが1階エントランスに着き、ドアが開いた。
誰も居なかった。
女がエレベーターに乗った。
ドアが閉まる瞬間、男がスッと乗り込んだ。
女は男の顔を見て、監視カメラの位置を目で合図した。
男は了解した旨を目で答え、その証拠として、階層ボタン「8」を押した。
女は男の意図するところを承知したかのように、階層ボタン「10」を押した。
8階にエレベーターが止まった。
乗り込む住民は居なかった。
男はよそよそしく8階で降りると、女にLINEした。
「部屋番号?」
女は10階で降り、男のスマホに返信した。
「903」と
男は非常階段から9階に駆け上がった。
女も非常階段で下に急いで駆け降りた。
女が非常ドアを開い時、男の姿が向正面に見えた。
女は急ぐ気持ちを抑え、ゆっくりと903号室に向かって歩いた。
男は女に少し遅れるよう女に向かって歩いた。
女が部屋ドアにキーを差し込み、ドアを開けた。
男がドアに近づいた。
男はドアの下を見た。
部屋ドアは女の黒いハイヒールの先で僅かに開かれていた。
男が903号室を通り過ぎる瞬間、ドアが全開した。
男は振り向き、スッと部屋に入り込んだ。
女は男が入るのと同時にドアを閉め、チェーンロックを掛けた。
そして、女は当然の如く、男に飛びつき、男の胸の中に顔を埋めた。
男は少し息を切らしながら、女にこう言った。
「もう誰にも邪魔させない。」と
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