【覚醒予兆】第2話 絶望感の塊が再び現れるその前に…

 俺が今居る所はマンションの一室である。


 ワンルーム程の広さしかない部屋で、寝ているベットの上から部屋中が見渡せる。


 昨年、仕事を辞め、55歳で無職となった。


 家族も金もキャリアも全て失くした。


 挙句の果てに右脚は動かない。膝から下に力が入らない。そうなって、もう半年以上が経つ。


 ベットサイドに立て掛けてる杖。


 この杖が俺の右脚代わりだ。


 まるで戦地で負傷した帰還兵みたいだよ…


 こんな惨めな現実を誰になく自己紹介した後、俺は、暫し天井を見上げ、そして、徐にベットから離れ、洗面所に向かった。


 今日は正月3日であったが、髪の毛は、明らかに放置されたまま年を越したよう脂汗でベトついていた。


 洗面所の鏡を見、そっと掌を頭頂部に蓋をするよう押し当てた。


 俺は、手の感覚で髪の毛が薄くなっていることを感じ、改めて、鏡の中の自分の顔を覗いた。


「あっと言う間に落ちぶれたな。落武者みたいだよ、お前は、まるで…」と呟き、煙草のヤニで黄ばんだ前歯を指でなぞり、シミだらけの側面も鏡に写した。


 何もかも失くした上に、加齢現象だけが爆発的速度で覆っていた。


 2、3年前までは、髪に張りもあり、顔のシミも全く無かった。上半身の腕、胸の筋肉も隆起し、当然、右脚も健全であった。


 まさか、こんな事になるなんて、こんなにも落ちぶれるなんて、あの時、誰が思ったであろうか。


 俺は再度、鏡の中を覗き込み、特に気に食わない眼光を睨んだ。


「眼光に怒りがない。優しい象のような目をしてやがる…」と嘆いた。


 俺は気性が激しく、ある意味、組織・社会のトラブルメーカーであった。

 その事は、また、家族にとってもやはりトラブルメーカーであっただろう。


 平和な時代がトラブルメーカーに用無しの烙印を下した。


 解雇だ。


 俺はそれなりに組織に尽くして来た。


 バブル時代の亡者


 朝も昼も夜も働いた。


 仲間と競争し、他社と競争し、他国と競争した。


 バブル崩壊、阪神・淡路大震災、東日本大震災、リーマンショック、熊本大地震等々、数々の苦難を乗り越えて来た。


 戦争がない分、平和であったが、それなりに企業戦士として戦い抜いて来た。


 時代が変わり、有事から平穏な社会となり、戦士の居場所が無くなろうとしていた。


 俺には、己をその変化に合わせる器用さを持ち合わせてなく、荒い気性のみが一人歩きして行った。


 俺が時の推移に気づき後ろを振り向いた時には、誰の姿も無かった。


 妻と子供2人の家族構成であったが、息子は中学3年で首を吊った。娘は精神を患った。そして、妻は失職と共に姿を消した。


 俺は独りぼっちとなった。


 そして、今、このマンションに身を寄せている。


 このマンションは実親所有のオーナーズ・マンションで、10年近く借り手が無かった物件だった。


 職と家族を失い、コ○ナに感染し、寝たきりとなり、脚の筋肉を失ってしまった息子を80歳を越えた実親が迎えに行き、引き取り、この部屋に寝かしつけた。


 最上階、角部屋、501号室


 エレベーターも無いこのマンション、親が顔を見せるのも1週間に1回あれば良い方だ。


 俺はすっかり棘が無くなり、怖気ついた気弱い己の顔を見飽きると、煙草を吸いに、換気扇の下に脚を引き摺りながら向かった。


 煙草の銘柄はショート・ホープだった。


 残り一箱、中身は5本しか無かった。


 俺は1本を深く深く、コ○ナウィルスに蝕まれた肺細胞に浸透させると、暗闇が迫って来ないうちに煙草を買いにコンビニに行こうとした。


 何かに怯えるよう、慌てて服を着替え、この部屋から逃げるように…


 俺は覚えていた。


 昨夜の死神の再来襲を。


 鬱の再発を、俺は覚えていた。


「暗くなると、夜になると、夢から醒めると、アイツが来る。俺を迎えに奴が来る。」


 俺はそう心に言い聞かせ、杖を突き、部屋を出て、一段一段、山を降るよう階段を降り、煙草、いや、精神を麻痺させるニコチンという中毒症状のある薬草を求め、コンビニへ、トボトボと歩いて行った。


 俺は心得、一つの覚悟をしていた。


「昨夜の症状は間違いなくパニック障害だ。鬱は確実に近づいている。今日、今夜かもしれない。あの鬱がまた、やって来るんだ…」と


 俺は40歳の時、重度の鬱病を患った。完治するまで10年近く掛かった。


 鬱の怖さ


 鬱症状の恐ろしさ


 それは言葉では表現し難い恐怖である。


 鬱を経験した者で無ければ、あの怖さは分からない。


 死より怖い、絶望…


 絶望しかない世界…


 底なし沼の絶望の渦…


 本当に形容し難い恐怖が、そこには台座している。


 俺は御守りのようにショート・ホープを握りしめ、棺桶のような501号室に帰り着き、立て続けに4、5本煙草を吸い続け、脳を軽く麻痺させ、ベットに横になった。


 そして、角瓶をラッパ飲みし、更に脳を麻痺させようとした。


「今の俺の元には、抗うつ剤も安定剤も睡眠薬もない。この無防備な状態で奴を迎える。やはり、神は俺を嫌っている。」


 そう神を呪いながら、俺は眠り、暗闇へ向かった。


 本当の鬱を迎えるために…

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