【覚醒】第35話 私は、明日、生まれ変わるの!

 最後の患者の診断が終わった。


 女は患者を待合室まで見送り、診断室に戻った。


 男から逃げた臆病な夫は女に目を合わすことなく、女が口を開くのをパソコンを打ちながら待っている様子であった。


 女はそんな情けなく狡猾な夫にほどほど愛想尽かしてしまい、言葉も出なかった。


 女が何も言わずに診断室を出ようとした時、医師が声を掛けた。


「奴は何と言っていた?」と


 女は医師の顔を見たくもなく下を向いたまま、「何も。」と一言だけ言い残し、部屋を出た。


 医師は女の後を追い、「薬は、出したのか?」と問うた。


 女は、「いいえ。」と一言、答えた。


 医師は詳しく説明をしようとしない女に腹が立ったが、自分が逃げ、女に任せた不甲斐なさを重々承知していたため、感情的な言葉を避け、主たる目的のみ問うた。


「奴は納得して帰ったのか?」と


 女は、「ええ、納得してお帰りになりました。」と嘘で即答した。


 医師は、「それならば、いいか…」と自分に言い聞かせるよう呟き、診断室に戻った。


 女は医師に構っている暇はなかった。


 男の住所を調べたかったのである。


 女は男の診断書をファイルBOXから取り出し、住所をメモした。


「この住所、あの実家の近くだわ。」


 女の脳裏に、あの35年前の悲劇が浮かんだ。


 そう、セーターを男に渡そうと男の実家を訪ねた時の光景が。 


 そして、自ずと、男の母親の顔が浮かんだ。


 女は怖気ついた。


 過去が襲いかかって来た。


「やっぱり、無理。行けないわ。」と諦めかけた。


 その時、診断室から医師が姿を出し、女に声を掛けて来た。


「今日、飯でも食って帰るか。」と


 女はゾッとした。


「私の機嫌を取って、あの人の情報を知りたいだけだわ。この人…」


「もう何年間も一緒に外食なんかしたことないのに…、あの人が怖いから…、私をどうにか利用しようとしている…」


「狐のような狡猾な目、本当に嫌だ!」


 女は医師の誘いを無言で首を振り一蹴した。


 医師は「そっか」とバツが悪そうに診断室に戻って行った。


 その時、女は覚悟した。


「もう逃げない。私、もう逃げない。あの時、逃げたから…、こんな男と結婚してしまった…、二度とあの人から逃げたりしない!」と


 女は急いで帰り支度をし、足早に病院を後にした。


 帰りの途中、喫茶店に立ち寄り、落ち着いて男の住所を調べることとした。


 女は店の奥のテーブルに座り、コーヒーを頼むと、スマホを取り出し、男の住所地をGoogleマップで検索した。


「実家の隣のマンションだわ、良かった…」と


 女は男の母親と会わないで済むことに安堵した。


「私、馬鹿ねぇ~、あの人、「来い」って書いてるのに。そうよねぇ、実家で会うはずなどあり得ないのに…、


 そう…、2人っきりで会うのにね。」と


 女は一人で呟きながら苦笑いをし、そして、慌てて、口に手を当てた。


 ウエーターがコーヒーを運んで来た。


 女は自然にスマホを隠した。


 何も後ろめたいような事はしていないのに…


 女は今度こそ誰にも邪魔をされたくなかったのである。


「やっと、あの人と二人っきりで逢える。やっと…、」


 そう何度も何度も、女は心で唱えた。


 女はコーヒーを飲みながら、念入りにスケジュールを確認し、男のマンションに行く日程を考えた。


「早く行かないと…、明日かな…、今日はちょっと早いし、準備が…」


 こう思った瞬間、女は胸がキュンとなるのを感じた。


「私、彼に何をされてもいいの…、いや、何かをされたいの…、して欲しいの…」と切なく想うのと同時に


「こんなおばさん、彼は抱いてくれるかしら…」と不安にも感じた。


 女は決めつけていた。


 男に逢い、真の別れの理由を述べ、今でも彼を愛していることを信じて貰い、彼に愛して貰うと、そう決めつけていたのであった。


 女は信じていた。


 男も女を愛していると。


「彼は言ってくれた。『俺と一緒に死ねるか』と。私だけの言葉。


 そして、この十字架も私だけの十字架」


 女は十字架を見遣り、こう決めた。


「綺麗な私を見て欲しい。今日は駄目。ちゃんと綺麗にしてから逢いに行く!」と


 女はスマホを開き、男にこう返信した。


「明日、行きます。待っていてください。」と


 女は送信した後も、じっとスマホを見つめていた。


 そして、こう思った。


「あの時、あの時代、こんな便利な物があれば…、もっと、話せたのに…、」


「私…、待ってたの…、別れた後も、ずっと、ずっと、待ってたの…」


「貴方が必ず迎えに来てくれると信じていた…、だってぇ、私から逢いに行けないじゃない!私から別れたのに、その私から…」


 女の目から涙が溢れた。


 好んで別れたものではなかった。


 何もかもタイミングが悪すぎた。


 時代も悪かった。


 女は待つことしか出来なかった。


 男の元から身を引き、一人、孤独に月見草の如く、ひっそりと男を待ち侘びているはずであった。


「あの男、あの狡猾で執拗なコヨーテのような男


 そう!


 夫さえ、この世に存在していなければ…


あの人、きっと迎えに来てくれたはずなのに…


 なんで、邪魔するのよ!」


 女は夫を恨んだ。


 事実、医師のした行為は、今であればストーカー行為、そのものであった。


 男と別れ消沈している女の元に、弱った子鹿を狙うコヨーテのように、何度も何度も現れ、断っても断っても、執拗に交際を申し込む。


 女の親も年頃になっても結婚しない娘を急かせるよう、医師と結婚しろと説得にかかる。


 狡猾な医師は、女の親のそんな親心を巧みに利用し、女の母親と組み、無理やり食事の設定、旅行の同伴等を計画・実行し、周囲の者に、いかにも恋人カップルかのような既成事実を植え付けていった。


 小さい町である。


 女と医師が付き合っているかのような噂が直ぐに広がった。


 高校時代の友達から電話が掛かってくる。


「〇〇君と別れたの?」と


 女が何故知ってるのかと問うと、


「だって、△△君と付き合ってるじゃん!」と言われる。


 女はそれは誤解だと一生懸命に否定するが、医師が女との食事や旅行の件を言いふらしていることから、誰も信じようとはしなかった。


 次第に女は諦めの心境となった。


 女は、男にも医師との噂が伝わったであろうと思い、それで、男がいつまで経っても現れないのかと自暴自棄となり、遂には医師の求婚に応じてしまった。


 女は喫茶店を出て、家路についた。


 女は歩きながら自身の生き様を考えていた。


 これまで、女は、ずっと、夫を恨みながら生きてきた。


 そして、離婚しきれない自分自身を軽蔑して生きてきた。


 女は何度も何度も死にたいと思い生きてきた。


 男と別れてから、心から笑ったことなど一つも無かった。


 そんな自分の半生を振り返り、女は悲しくなり、とどめなく涙が溢れ、上を向くことなく、マンションの前まで来た。


 女は自分の部屋がある9階部分を見上げた。


 その瞬間、涙が頬を川のように流れ落ちた。


 女は涙を拭くことなくマンションに入って行った。


 そして、女はエレベーターに乗り、鏡に映る自分に向かってこう言った。


「人の目なんか、もう気にしない!


 こんな仮面、二度と被らない!


 私は、明日、生まれ変わるの!」と


 



 

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