【覚醒】第34話 必ず行きます。

 男は501号室に戻って来た。


 鍵のかかってないドアを開け、部屋に入った。


 牢獄のような暗い部屋


 天井の四隅の一角には「死神」の龍が灰色のドス黒い雲を纏って鎮座している。

 まるで、そこが従来から自分の居場所であるかのように…


 ウィスキーボトルの破片が飛び散っている床の上では、脳内血管を今にも破裂しそうに膨らませている手足の付いた「脳」の化け物がウロウロしている。


 男の幻覚は既に末期とも言え、501号室は完全に「鬱」の住処となっていた。


 男は「死神」にも過去のトラウマを働き蟻のように運び込む「脳」にも見向きもせず、ベットに腰を下ろし、ベット下のファイルに手を伸ばした。


「くそっ、燃やしたんだ!」


 男は2時間前に女の写真を燃やしてしまったことを思い出した。


「いや、一枚ある。」


 男は側に柳刃包丁で突き刺した写真を見遣った。


 男は柳刃包丁をそっと抜き、写真を手にした。


「今更、戯事を抜かしやがって…」と独り言を呟き、線の斬れ目が付いた女の写真を眺めた。


「『はい』と言いやがった。」


 男は独り言を続けた。


「遅いんだよ!くそっ」と


 男は女の写真に向かって吠えた。


「俺と一緒に死ぬだと?田分けめ!」と床に唾を吐きながら、また、吠えた。


 男は女の写真から目を離さず、ベットに横になった。


 写真の女は笑顔であった。


 男は写真の女の顔をよく見た。


 男には分かった。


 女が心から笑っていないことを…


 男は知っていた。


 女が本当に嬉しく、楽しくて笑う時は、目を大きく見開くことを。


 写真の女は、目を細めて笑っている。


 こんな笑い方をする時は、女が緊張していることを男は知っていた。


 女はいつも人から見られていた。


 綺麗過ぎたから、仕方がないことではあったが、女の心は、それ程、強くはなかった。


 人に見られ続けることに耐え得るスタミナがなかった。


 人に見られるのが嫌であった。


 偽りの自分を演じるのが嫌であった。


 そんな女の潜在的な心理を男は知っていた。


 男もそうであったから、よく理解していた。


 男と女が付き合っていた時、いつも、この話題をしていた。


 どうしても周りを気にして、表情を作り、行動する自分が嫌だと女は言っていた。


 どうしても周りに格好つけ、男気出して、粗暴振る舞う自分が嫌だと男は言っていた。


 今、男は35年前の2人の世界にやっと気持ちを向けようとしていた。


「騙されるなよ、お人好しさんよ。」と死神がチャチャを挿れた。


「黙れ!」と男が怒鳴る。


「そう怒るな。お前のために忠告してやったんだ。


 また、お前、あの女に騙されるのか?


 一緒に死ぬ?


 そんなこと、あの女が出来るはずはないだろう?


 お前と一緒に死んで、何の得になる?


 その場凌ぎに言っただけだ。


 お前が怖かったんだよ。」


 そう死神は宣うと、とっとと四隅の一点の中に消えて行った。


「ほざくだけほざけ!」と男は吐き捨てるように言い、死神を相手にはしなかった。


「俺には分かる。この笑顔は、奴が苦しい時にする表情だ。


 本当は同窓会なんて行きたくなかったのか…


 旦那に無理矢理連れていかれたのか…


 分かる。


 お前の笑顔、お前の細めた目、死んだ魚の目だ。心から笑っちゃいない。


 俺には分かる。」


 男は確信に満ちた解答を出し、次に今日の女を思い浮かべた。


「確かに「死神」の奴が言うとおり、怖がっていた。


 そりゃそうだわ!


 俺はアイツをこの柳刃で刺す気でいたんだ!


 怖いはずたよな。」と男は写真の女に話しかけた。


「『今でも貴方を愛しています』か?、アイツ、2回も言いやがった…」


 男は、写真の中央下に僅かに写る「十字架」を見遣った。


「『私のものだから』か…」と

 男は女の言った台詞をオウム返しで呟いた。


 男はふと思った。


「ならば、ならば、どうして別れを強要したのか?どうして、俺の前から消えたのか?どうして、あんな情け無い男と結婚したのか?」


 男は女の写真を見ながら、スマホに登録した女の携帯電話番号を開いた。


 そして、男はショートメールでこう記した。


「俺の住所は診断書に書いてるとおりだ。


 もう一度だけ会ってやる。


 此処に来い。」と


 そして、ショートメールを送信すると、スマホをベットサイドに置き、代わりに、角瓶を掴み、ラッパ飲みした。


 男の角瓶を持つ手は震えていた。


 アル中、薬物障害


 そんなものではない。


 男は久々、恐怖感を感じていた。


 真の別れの理由を知る、恐怖を…


 その頃、女は診断室に居た。


 女は仕事をしながらも、スマホの通知が気になっていた。


 しかし、医師、患者の居る前でスマホを見る訳にはいかなかった。


 その時、女の診察着の内ポケットに入れているスマホが「ブン」と一回だけ振動した。


 女は「あっ」と思わず声を漏らした。


 医師は女を見た。


 女は誤魔化すよう手に持っていたバインダーをわざと床に落とし、それを拾い上げた。


 医師は女を気に留める事もなく、診断を続けた。


 女は今すぐにもスマホの通知を見たかった。


 診断が終わり、女が患者を待合室に誘導した。


 女は患者に労いの言葉を掛け、診断室に戻る前に、急いで、トイレに駆け込んだ。


 女はスマホを開いた。


 女は思わず口に手を当て、声を押さえた。


 女はゆっくり、そして、大きく頷いた。


 そして、胸の十字架に手を遣り、こう誓った。


「私は、必ず行きます。

 

 待っていてください。必ず…」と

 

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