【覚醒】第33話 灰色の空よりは白かった

 待合室に掛かる柱時計の秒針音が女の心臓音を煽る。


 時刻は12時40分を回った。


 女は何を見るのでもなく、じっと前を見つめ、そして、胸元の十字架を硬く握りしめていた。


「あの人はきっと覚えてくれてる。私との想い出を…、決して、憎しみだけではないはず…」


 女は確固たる信念の元、ギュッと強く十字架を握るのであった。


 12時50分


 自動ドアの前のエレベーターの扉が開く音がした。


 女は「きっ」とした毅然たる表情に置き換え、玄関を見遣った。


 電気の消えた、光の届かない、暗い待合室の空間


 女の視界には、エレベーター前の非常時ランプの赤いランプの光の中に漂う埃しか見えなかった。


 しかし、女は男の来訪を確信した。


 それは五感によるものではなく、今尚、女の体内に残存する男のあらゆる存在を女の心が幅広に捉えていた。


 予感は的中した。


 機械音ではなく、明らかに手動音により、そっと電源の切られた自動ドアが開いて行く音が聞こえた。


 男であった。


 一筋の赤い光に漂うダストを伴い男が入って来た。


 女は待合室の電気を付けることもせず、立ち上がった。


 女は一生懸命に男の視線を探したが、未だ男と目が合わなかった。


 男はゆっくりと受付に歩み寄って来た。


 男も薄暗い待合室の中、受付に座る女の存在に気付いてないようであった。


 いや、男は既に感知していた。


 男の杖を持たない右手は腰に差し込んだ柳刃に手を翳していた。


 女は、ここで、待合室の電気を付けていないことに気付き、慌てて、点灯スイッチを押した。


 そして、白銀の世界が現出したように部屋の白色灯が灯った。


 男と女の目が合った。


 女は、一瞬にして、たじろいだ。


 女の視界に入った男の眼は、鬼神の如く、怒りに燃え上がっていた。


 白目は真っ赤に充血し、眼光はその彫りの深い縁の中でギラギラと輝いていた。


 女は呆然と立ち尽くした。


 男は女を睨み殺すかのよう視線を釘付けた。


「怯えている。俺に怯えていやがる。この裏切りの女は俺に…」


 男の心情には、女との過去の愛情など、そんな甘っちょろいノスタルジーな感覚は微塵も無かった。


 あるのは憎しみだけであった。


 男は女を睨みながら受付に辿り着くと、女にこう言った。


「俺の十字架を返せ!」と


 女は慄き、座ることも出来ず、立ち尽くしたままであった。


 その時、女が震える手を胸元に押しやった。


 男はその手の奥にあるものに気付いた。


「俺の十字架…、コイツ、まだ、俺の十字架を…、どうしてだ?何故、俺を裏切ったのに…、何故、着けている?」


 男の眼光が一瞬緩んだ。


 女は金縛りが解けたように、スッと椅子に座った。


 男が静かに言った。


「何故、未だに身に付けてる?」と


 女は男の目から視線を外さず、催眠術にかかったようにこう答えた。


「私のものだから」と


 男は静かに諭すようにこう言った。


「いや、それはお前のものではない。俺のものだ。俺の愛した人のものだ。お前のものではない。」と


 女も静かにこう言った。


「私は今でも貴方を愛しています。」と


 男はゆっくりと首を振り、また、静かにこう言った。


「お前は俺を裏切った。俺を捨て、医者の妻になった。それが全てだ。」と


 女の瞳が潤み、そして、一筋の涙が頬を伝わり溢れた。


 それを男はじっと見ると、右手を腰元から遠ざけた。


 女は同じことを言った。


「私は今でも貴方を愛しています。」と


 男は女から視線を外し、医師の居ると思われる診断室に目を移した。


 女はここで毅然とした表情を取り戻し、急いでメモを書いた。


 そして、そっと立ち上がり、メモを男の前に差し出した。


 男はそれに気付き、女の差し出したメモを見て、こう言った。


「なんだ?」と


 女は流れる涙を拭こうともせず、戦慄きながら静かにこう言った。


「お、お願い、い、一度、もう一度、2人っきりで、あ、会ってください…」と


 その時


 男の心に今まで隠れていた一つの願望が、突如、現出した。


「俺と一緒に死ねるか?」


 男が、過去、意識の無い世界で幾度となく、誰かに発した言葉


 その言葉が無意識に男の口から放出された。


「はい。」と


 女は確かに言った。

 

 男は女の掌からメモを取り、何も言わず、病院を去って行った。


 その時、待合室の時計は午後1時を指し、始業開始のBGMが軽やかに鳴り響いた。


 女は男の去る姿を見遣ることなく、立ち尽くしていたが、掌にメモがないことに気付くと、右腕で両目を擦った。


 男は病院のあるビルを出て、遊歩道のベンチに腰掛け、女が渡したメモも見た。


 メモには女の携帯電話番号が書かれていた。

 

 男はスマホを取り出し、その番号を入力すると、胸元のポケットからジッポを取り出し、メモを燃やし、そして、煙草に火を付けた。


 男が吐く煙草の紫煙は、どんよりした灰色の空よりは白かった。

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