【覚醒】第30話 何かが、私を呼んでいる。
その日、母親は寝付きが悪く、1人、台所で食器乾燥機の音を聞きながら、佇み、
「あの子、今、何を考えているのかしら…」と思い悩んでいた。
501号室で見た事実
抗うつ剤がギッシリ詰まった瓶
そして、昔の恋人の写真ファイル
母親は、息子がまた抗うつ剤を過剰摂取している事、そして、自身が縁を断ち切った恋人を今尚想い続けている事、この推測される二つの事柄を比べながら考え込んでいた。
「あの子は、一体何をしようとしているの?」
母親は急に不安に駆られた。
「あの女の人と別れて、30年以上も経つのに、ましてや、別れた人の幸せに溢れた写真を取って置くなど…」
母親は、別れた女の人が夫らしき男性と同窓会に煌びやかに出席し、笑みを浮かべている数枚の写真を思い浮かべた。
「あの子、まさか、あの人を恨んでいるのかしら…」
母親は嫌な予感がした。
次の日、母親は珍しく息子の滞在している時分に501号室を訪れた。
呼鈴を鳴らしても反応しないことを知っている母親は、合鍵でドアを開け、部屋に入った。
男はベットに横になり、煙草を蒸していた。
男は母親を見るなり、こう言った。
「珍しいじゃないか、ここに来るなんて」と
母親は用意していた台詞を述べた。
「お前が家事をすると言うから、調理道具を持ってきたのよ。」と
母親は手に調理道具が一式詰まった袋を携えていた。
男は何も答えず、天井を見上げ、また、煙草を蒸し始めた。
母親は、台所の食器棚に持ってきた調味料等を並べ始めた。
母親がそれらを並び終え、台所のゴミ箱からゴミを取り出し、男にこう言った。
「ついでにゴミを出しておくわね。」と
男はこくりと頷くだけであった。
母親はゴミ袋を持ち、501号室を出た。
そして、家に戻り、501号室から持ち出したゴミを分別し始めた。
ゴミの殆どは酒のつまみの残り物であった。
その中に、細かく破り捨てられていた薬袋らしきものがあった。
「やっぱり…」と
母親は一言呟き、その破り千切られた紙屑をパズルでもするように修復して行った。
原状回復には程遠い一枚の紙が完成した。
母親は、辛うじて読み取れる病院名をメモに書き留め、その病院を携帯で検索した。
「やっぱり、心療内科だわ!」
母親は自身の悪い予感が的中したことを嘆くように囁いた。
時計は既に午後4時を指していた。
母親は躊躇わず、その病院に電話をした。
「お伺いします。其方を受診してます○○の家族のものです。先生とお話がしたいのですが。」
電話に出た受付の者は、慣れた口調でこう申した。
「○○さんの病状についてご相談でしょうか?」
「そうです。」と母親は答えた。
「申し訳ございません。ご本人様でなければ、ご対応できません。」と受付は即答した。
「分かりました。」と一言述べ、母親は電話を切った。
母親は息子が受診している病院を確かめたく架電したまでであり、、この答えで十分であった。
次の日、母親は、その病院に向かった。
女は医師と共に診断室に居た。
男の母親からの問い合わせについては、対応した職員から聞かされていなかった。
母親は病院に入り、受付に行き、こう問い合わせた。
「此方で診てもらっている○○の母です。
息子の病気について先生とお話がしたいのですが…」と
受付の者は、「暫くお待ち下さい」と言い、診断室に入って行った。
診断室のドアがノックと同時に開かれ、受付の者は部屋に身体半分入り、こう述べた。
「例の○○さんのお母さんがお見えです。先生に相談したいようですが…」と
医師と女は目を目合わせた。
女は明らかに動揺し、医師に言われる前に部屋を出ようとした。
医師は、どう対応するか暫し考えようとしたが、女が部屋から出る素振りを見て、慌てて、こう言った。
「お前も同席してくれ。」と
女はそれを無視して部屋から逃げるように出て行った。
医師は女の慌て振りを燻しげに思いはしたが、それ以上、女を止めることはしなかった。
医師は、受付の者に次の診断が済み次第、母親を通すよう指示をした。
女の表情は強張っていた。
女は診断室から出て、受付から視界が届かない処方室へ入り込んだ。
女は余りにも予想だにしない展開に何も考えられなかった。
女は処方室の丸椅子に腰掛け、二、三回、深呼吸をし、今ある現実をゆっくりと意識の中に取り入れようとした。
女は、男との別れを強要した母親を恨んだりした事は無かった。
受験生を持つ母親として、至極当然な忠告であり、恋愛に溺れる自分自身が不誠実であったと整理しており、母親が男との別れのきっかけを作った張本人であるにせよ、その存在は希薄であった。
しかし、今、男との因縁に満ちた日々が展開している中、またしてもキーを握る存在として母親が登場したことに、過去の因果も合わさり、女は、完全に畏怖の念に駆られてしまった。
そして、こう思った。
「彼から何かを頼まれて来たのか?…、何を?…」
「私のこと….、覚えているのか?…」と
医師は医師で、何故、男の母親が来訪したのか、考えていた。
「奴の母親が、何故、来るのか?俺は薬を出しただけだ!文句を言われる筋合いはない!何がどうなっているんだ…」と
医師はその理由を早急に知りたくなり、さっさと次の患者を受診し、母親を診断室に通した。
母親は一礼し、診断室に入ると、女と入れ替わった看護師に案内され、医師の前の丸椅子に座った。
医師は母親にこう聞いた。
「○○さんのお母さんですね。今日はどのような用件でしょうか?」と
母親は、ゆっくりと、そして、はっきりとこう言った。
「息子に薬を出さないで下さい。」と
医師は「えっ」と思わず声を発し、言葉に詰まった。
母親は医師の驚く表情に構わず、こう続けた。
「息子は薬物依存症なんです。医者からも止められているのです。なんで、貴方はこうも簡単に薬を出すのですか!」と
「薬物依存症…」と医師は辛うじてオウム返しで言葉を発した。
「そうです。貴方は息子を殺す気ですか!せっかく、薬が抜けたと思っていたのに…、あんなに薬を処方して…」と
「あんなに…」と、また、医師はオウム返しをした。
「息子にも責任があるとは思います。ただ、あなたたち、心療内科の医者は、風邪薬のように、最も簡単に抗うつ剤や睡眠薬を患者に処方します。どうしてですか?」と母親は詰問した。
医師は慌てて、弁解した。
「前の病院の処方通りにお出ししましたが…」と
母親は呆れ顔をし、目を瞑り、首を横に振り、そして、諭すように医師にこう言った。
「あのですね、息子は一年前、薬の過剰摂取で自殺未遂したんです。それからは、脱薬治療をし、やっと正常を取り戻し、今に至るんです。それを貴方が台無しにしているんです。」と
「自殺未遂…」
医師は、今度は少しばかり声を大にしてオウム返しをした。
「そうです!」と母親はキッパリと答えた上でこう言った。
「貴方は、それを診断しても分からないのですか?患者に言われたまま、それを鵜呑みにして薬を出すのですか?」と
「…………」
痛いところを突かれた医師は言葉に詰まった。
そして、下を向いてしまい、苦虫を噛み締め、こう思っていた。
「出したくて出したんじゃない!お前の息子が…、奴が…、妻を囮に…、薬を出せ出せと、言うんだよ!仰る通り、本当は出してはならないんだ!それぐらいわかっている。ただ、妻を…」と
言いたくても言えないジレンマを医師は寡黙で耐えた。
母親はそんな医師に止めを刺すようこう言った。
「もう出さないで下さい。今度お出しになったら、前の医師に相談しますから!この病院名と貴方のお名前申し上げてね!」と
「分かりました。」
医師は場当たり的に、そう答えるしかなかった。
母親は自ら席を立ち、診断室を後にした。
女は診断室のドアが開け閉めする音を確認し、そっと、受付から母親の姿を一目見ようと顔を覗かせた。
母親の姿はなかった。
女は、母親が既に病院を後にしたと思い、診断室に戻ろうとした。
その時であった。
急に診断室前のトイレのドアが開いた。
女は立ち止まった。
母親がドアを閉め、振り向いた。
女は蛇に睨まれた蛙のように微動だもしない。
母親と女の目が合った。
母親の表情が驚きに変わった。
女は母親が自分を覚えていると堪忍し、下を向いた。
すると、母親の方は、女の予想と違い、何も言わず、逃げるように玄関に向かって行った。
女は不意に母親に声をかけようとしたが、声が出なかった。
しかし、女の目に見える母親の後姿は、明らかに女から逃げるよう、呼び止められても、決して振り向かないとした頑なさが感じ取れた。
女は母親が出て行った自動ドアが閉まるのを見届けると、急いで、診断室に入り、医師に問うた。
「母親は何て言っていたの?」と
医師は怒られた小学生のように下を向いたまま、こう答えた。
「薬を出すなと」
「どうして?」と女は更問した。
「奴は薬物依存症なんだってよ。自殺未遂したんだとよ。」と医師は小声で答えた。
「どうしよう…」と女は真顔で呟いた。
「どうしようもない!どうしようもないんだよ!薬を出さないと、奴がお前に近づくんだ!」と医師が逆ギレしたかのように言葉を吐いた。
「私に近づく…、やっぱり、彼は私のこと何か言ってたのね?貴方、彼から何を言われたの?」と女は医師に問い正した。
医師は吐き捨てるようにこう言った。
「奴はお前のことを覚えていやがった。薬を出さないと、お前に話しかけると言いやがった。」と
「あっ。貴方…、本当は出してはいけないの分かっていて、出したの…」と女は呆れたように呟いた。
「仕方ないじゃないか!アイツが出さないとお前に話しかけると言言うんだからよ!」と医師は開き直ったように声を発した。
「話しかける…、それも貴方は許さないの…」
「当たり前だ!」
「彼は他に何て言ったの?」
「ただ、同窓生の吉身で声を掛けてみようかと…」
「それだけ…」
「俺の妻だ。昔の彼氏でも手を出すな…と俺が言ったら…」
「彼は何て言ったの?」
「あんなバァバァーに手なんか出すもんかと」
「貴方が過剰反応したのね…」
その吐き捨てるようね女の捨て台詞に医師は顔を上げ、こう怒鳴った。
「仕方ないだろが!お前が奴のこと忘れないから!お前が悪いんだ!」と
女は何も答えず、診断室を出て、処方室に入り、ドアを閉め、鍵を掛けた。
女は覚悟した。
「何かが呼んでいる。私を呼んでいる。逃げられない。彼に会わないと。」と
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