【覚醒】第31話 十字架の輝きは、今も変わらずに…

 灰色の雲が空を覆う、薄暗い早春の昼下がり


 暦に抗うように、時折、灰色の厚い雲はしきりに粉雪をばら撒いていた。


 501号室では、やっと冬眠から覚めた猛獣が、早く空腹を満たすよう獲物を仕留める準備を行っていた。


 男は量販店で購入した4本の包丁、一本、一本、取手部分にテーピングを丁寧に巻いていった。


 そして、部屋のカーテンを開けて、壊れた洗面所の鏡代わりに、窓硝子で全身を映し出し、ズボンの両腰脇に柳刃を2本差し込み、セーターの袖をまくり、両腕に出刃をテーピングで括り付けた。


 そして、男は準備体操をするよう、腕を二、三度大きく回し、左右に腰をくねらせ、体の動きを確認すると静かにカーテンを閉めた。


 次に男はスマホを握り、心療内科に架電した。


「○○です。薬が無くなったので貰いに行きます。」と


 電話に出た受付の職員は、


「少々、お待ちください。」と一旦、受話器を置き、急いで、医師の居る診断室に飛び込んで行った。


「先生、また、○○さんが、薬が無くなったので貰いに来ると言ってます!」


 医師は一瞬にして表情が強張り、


「き、今日、来るのか?」と吐息のような声を発した。


 受付の職員は、「おそらく」と一言のみ、怪訝そうな表情で医師を見つめて答えた。

 

「分かった。今、11時だ。13時からの診断で受け付けるよう伝えてくれ…」


 医師はそう何かを諦めるかのように受付の者に指示した。


 受付の者が診断室を出ると、医師は頭を抱え、机にうずくまり、こう叫んだ。


「おいおい、2週間先が診断日じゃないのか!奴は、薬を貯め込もうとしているよ…」と


 女は医師に言った。


「貴方、薬を渡すの?」と


 医師はうずくまったまま答えた。


「やるしかないだろう!」と


 女は落ち着いて、こう言った。


「貴方では彼に対応できません。私が対応します。」と


 医師はそっと顔を上げて、こう言った。


「お前が…、どう対応するんだ…」と


 女は言った。


「薬は出しません。療法を守って貰うよう話してみます。」と


 医師は暫し考えた。


「あの男も妻の言うことなら従うかも知れないな。そうだよ、この昔の女ならば、なんとかなるかもしれない。どうせ、冷え切った夫婦関係だ。今更、こいつを出し惜しみしても俺が面倒になるだけじゃないか!」と


 医師は女に言った。


「分かった。お前に任せるよ。」と


 それを聞くと、女は何も言わず、診断室を出て、受付に行き、昼からのローテーションの変更を職員に指示し、男の架電を対応した者にこう尋ねた。


「○○さんは、13時受付、了承しましたか?」と


 受付の者は、「はい」とのみ答えた。


 それを聞くと、女は控室に入り、そっと、ネックレスの十字架を握りしめた。


 ネックレスの十字架


 金色の十字架


 それは、男からのプレゼントであった…


 女の二十歳の誕生日、男がデートの途中、デパートで買ってくれた誕生日プレゼントであった。


 女が男から貰った最後のプレゼントであった。


 女は男と別れてからも、このネックレスを肌身離さずにいた。


 夫には教会ミサ用に買ったものだと嘘をついていた。


 女はいつも、このネックレスをし、下着に忍ばせていた。


 女は十字架を握りしめ、神に祈った。


「あの人は、私との愛を忘れてしまっているのでしょうか…、いえ、あの人は、私を憎んでいるのでしょうか?


 神様、私は憎まれても当然の仕打ちを彼に致しました。


 彼の母からの忠告


 彼の為だと思い…


 でも…


 今の彼の眼を見ると、彼の怒りが弓矢のように私の胸奥に刺し込んで来ます。


 私の報いは仕方ありません。


 神様


 どうか、これ以上、彼が苦しまないよう、彼をお助けください…」


 女は祈り終わると、十字架を下着の中に隠すことなく、上着の胸元に出し、そっとそれを白い診察着で覆った。


 女は控室から出て、洗面所に入り、鏡を見た。


 35年の歳月を得て、本来在るべき場所に鎮座した金色の十字架


 白の診察着に覆われても、その下から、僅かではあるが、金色の輝きが見て取れた。


 女は鏡に向かって呟いた。


「どんな理由があろうと、私が貴方を裏切ったことは確かです。


 でも…


 このネックレス、この十字架の輝きは、昔のまま…


 貴方の愛を照らしてくれてる


 頼みます。


 許してくれとは言いません。


 一瞬でもいいから、あの時を思い出してください。


 過去の愛は今も輝き続けていることを…」


 女は鏡に映る自分に向かい、十字を切ると、


 今までにない、穏やかな表情を浮かべ、洗面所を出て行き、そして、受付に座った。


 待合室の時計の針は、一つに重なっていた。


 女は患者の引いた待合室の電気を消し、玄関自動ドアの電源も切った。


 職員は皆、休憩室に消えていった。


 女は暗い待合室から玄関に行き、自動で開かないドアを、そっと、少し、開いた。


 そして、女は受付席に戻り、男を待った。


 女は眼を閉じた。


 そして思った。


「変わってしまった、彼も私も…、でも、何か一つだけでも、変わらぬもので繋がっていたい…、」


 女はそっと胸の十字架を握りしめた。


 そして、女は男を静かに待った。


 僅か10分間が、途方もない恒久の時に感じられた。


 女は「はっ」と眼を開いた。


「彼も待っていたのかしら…、私の沈黙を…、ずっと、待っていたのかしら…」


 そう感じた女に、途轍もない罪悪感が押し寄せた。


「私の沈黙


 理由を告げずに別れた行為


 もし、彼がそのわけを待ち続けていたのならば…


 沈黙と暗闇の中


 彼は踠き苦しんで…


 私がした事、何という辛辣な事を…


 理解できない沈黙が、こんなに苦しいなんて…


彼は決して許してくれない…」


 女は再度、眼を閉じた。


 二つの目尻からは、冷たい涙が流れていた…

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