【覚醒】第18話 心療内科は薬屋に過ぎず!
誰のせいでもない。誰を責めることもできない。
不運、因果といったスピリチュアル的な要素が、一つの純愛を不成就とした。
そして、その結果、憂いに満ちた追憶の波に、それに関わった人々が呑み込まれることのないよう、あの背中が防波堤となったのだ。
女は、別れの日に見送った背中を、今、診断室に入って行く、縮こまり丸まった背中に重ね合わせながら見つめていた。
男は看護師に導かれ診断室へと入って行った。
看護師は、医師の前にある丸椅子に座るよう男に案内した。
その時医師は、問診票を入力したカルテをパソコン上の画面で眺めていた。
そして、医師は得も言われぬ緊張を感じていた。
「ただの患者じゃないか。いつものとおりにすればいいんだ!」と自分に言い聞かせていた。
男が丸椅子に腰掛けた。
医師は男の方を向くことなく、パソコンの画面を見ながら、診断を始めた。
「それでは診断を始めます。○○さん、最近、眠れないということですが、日頃の睡眠時間は何時間ぐらいでしょうか?」
「2時間ぐらいです。」
「全く眠れない日もあるのですか?」
「あります。」
「寝つきはどうですか?」
「良くありません。」
「分かりました。それでは、気分がうつ状態ということですが、悩みごとがあるのですか?」
「ありません。」
「では、どんな時に落ち込む気分になりますか?」
「いつもです。」
「そうですか。気分が重たいといった感じですか?」
「重たいです。」
「いつ頃から、そうなりましたか?」
「年明けからです。」
「分かりました。『希死念慮』があるということですが、どんな時にそう思いますか?」
「いつもです」
「そうですか…」
淡々と質問と答えが繰り返された。
医師の予想に反し、男は簡単ではあるが、素直に医師の質問に答えて行った。
医師は必要事項をパソコンに入力し終わると、男の方に顔を向けた。
医師は思った。
「これが、あの○○か。妻の昔の男か。哀れなもんだ。汚い格好して、髭を蓄えて…。」
「しかし、思ったより素直だな。普通の患者と同じだなぁ。単に病んでる中年男だ。」と
医師は、この数分の診察で、男を哀れで素直な弱った中年男と片付けた。
そして、医師は、病んでいる患者に診断を施す医師としての優越的立場を全面に押し出そうとした。
この不要な余裕感が油断となり、既に男が仕掛けている巧妙な罠にまんまと嵌ることとなるのだ。
男は、医師との初期対応により、医師の本質的な人間性を洞察していた。
医師の個人的、潜在的な意識
そこには、男を捨て社会的ステータスの高い医者を選んだ女の持つ、上層階級への拘りと一致するものが、必ず含まれていると予想していたのだ。
医師には、人を見下すエリート意識が必ずあると。
このエリート意識こそ、男が長年、忌み嫌っていたものであり、社会に対する『復讐』の根源であったのだ。
男の予測どおり、医師は明らかに今までと違うニヤけた笑みを浮かべながら、唐突に、そしてタメ口で男に質問を投げ掛け始めた。
「○○さん、仕事はしているの?」と
男は何も答えず、膝に置いた自分の掌を見つめていた。
医師はそれでも遠慮せず、好奇心に駆られるよう質問を続けた。
「それじゃぁ、緊急連絡先がお母さんとなっているが、結婚してないの?」
「うーん、そっか、結婚してたけど、離婚したのかなぁ?お子さんは居るの?」
やはり、男は何も答えず、下を向いたままであった。
この時、医師の気分は、正に有頂天であった。
「ほら見ろ!俺の方が男としても人間としても遥かに上だ!妻もようやく分かる。こいつと別れ、俺と結婚した方が良かった事をな!」
「この情けない風貌!経済的、家庭的に困窮しているのが明らかじゃないか!俺の質問に何一つ答えられない、情けない奴め。」と
そして、医師は勝ち誇ったように足を組み、椅子に踏ん反り返った。
「ちっ」
その時、男が舌打ちをした。
医師は慌てて姿勢を戻した。
男は面を上げた。
そして、鋭い眼光により医師を睨みつけた。
医師は思わず唾を「ごくり」と飲み込み、その表情は戦々恐々と怯えたものに急速に変化して行った。
「何故聞く?」
男が声を発した。
「えっ」と驚いた医師は即答に窮した。
「さっきの質問は、何の目的か!と聞いているんだ!」と男が声を荒げた。
「貴方を治療する上で必要だから…」と医師は口籠もりながら、答えた。
「じゃあ、何故、お前は笑いながら聞く?」
「そ、それは…」と医師は完全に口篭ってしまった。
「なぁ、おい、答えろ!」
男は追撃した。
医師は下を向き、子供のようにモジモジしながら、答えを考え出した。
そして、やっとのことで、こう答えた。
「貴方と信頼関係を築きたくて…」と
「それで笑いながら、あんな質問をしたのか?」
「そ、そうです。」
「答えなくても良いか?」
「良いです。」
「ならば、初めっから聞くな!」
と男が一喝した。
完全に形勢が逆転した。
医師は予期せぬ展開に完全に萎縮するとともに、男に対する過去の恐怖心が甦ってきた。
医師は下を向き、もう男の眼を見ることはできなかった。
医師の脚はワナワナと小刻みに震え出した。
男は言った。
「お前ら心療内科は、薬だけ出しとけば良いんだよ。お前らは医者ではないんだ、『薬屋』なんだよ!」と
医師はせめてもの抵抗として、首を横に振った。
男が杖で床を2、3度突き、医師に面を上げるよう促した。
医師はその合図を察し、そぉっと顔を上げた。
男は医師に言った。
「もう診断は済んだのか。」と
医師は、コクリと頷いた。
男は、杖を両手で握り、その上に顎を着けて、今度は男がニヤけながら、こう言った。
「治療はどうするんだ。」と
医師は投薬治療をすると言った。
男はその返事を待ってましたとばかりに、上着の内ポケットから紙を取り出し、医師のパソコン台の上に放り投げた。
そして、杖先を指のようにし、紙の方を「ツンツン」と示し、医師にそれを見るよう促した。
医者はそのクシャクシャに折り畳められた紙を取り、破らぬよう丁寧に紙を広げ、中を見た。
それは、男が使い古した心療内科の紹介状のコピー用紙であった。
それも3年前の…
医師はその紙の役割を察して、こう言った。
「この紹介状どおり、薬を処方して欲しいということですか?」と
男は「そうだ。」と答えた。
医師は処方薬を確認した。
「抗うつ剤250mg、安定剤50mg、睡眠導入剤5mg、睡眠薬0.25mg…、30日分か…」
医師は抗うつ剤250mgに目が止まった。
「いきなり、250mgは出せない…」
医師はそう思い、男にこう問うた。
「これらの薬は今でも服用しているのですか?」と
「今は飲んでいない。」
男は答えた。
「いつ頃まで飲んでいましたか?」と医師は更に問うた。
「一年前までかな。」と男は答えた。
医師は苦い顔をした。
男は医師に問うた。
「何か問題でもあるのか。」と
医師は言った。
「初回から抗うつ剤250mgは強すぎると思います。」と
男は問うた。
「出せないと言うことか?」と
医師は、慌てて男に説明しようとした。
「通常、150mgから処方し、薬の効き目、副作用等を勘案しながら…」
男が杖で床を強く「トンッ」と突き、医師を黙らせ、声を荒げ、こう言った。
「回りくどいんだよ!出せるのか、出せないのかを聞いているんだ!」と
医師は迷った。
「このまま、奴の言いなりになれば、私は奴の言うとおり『薬屋』でしかない。私は医者だ。1年前と同じ処方を初診からは出せない。私は医者だ。『薬屋』じゃない…」
医師は男の恫喝に怯えながらも医者としての誇りを堅持し、こう答えた。
「初診から250mgは出せません。申し訳ありません。他の病院を当たってください。」と
男は無言で医師を睨み続けた。
医師は目を逸らし、下を向き、そして、ある一定の覚悟をした。
暫く、沈黙が続いた後、男はゆっくりと立ち上がり、医師に背を向けた。
医師はホッとした。
男は諦め他の病院を受診するつもりになったのだと安堵した。
その時、男が呟いた。
「あの受付の女性、高校の同窓生なんだよ。先生さんよぉ~」と
医師は、「ぎくっ」と心臓を針で突かれたような衝動を感じると同時に、椅子を後ろに放り出すよう立ち上がった。
男は医師の方を振り向き、こう言った。
「同窓生の吉身だ、声でも掛けてみるか?なぁ、先生よぉ~」と
医師は震える声でこう言った。
「あれは、私の妻だ…」と
男は言った。
「声を掛けるのも駄目なのかい?人妻には?」と
この瞬間、医師は、事態がかなり深刻であることを理解した。
やはり、男は昔の恋人である女を当てに、この病院に来た。
その目的は、薬か女か、それとも医師か、それは分からないが、過去の因縁を引き摺りながら、来訪したことには間違いないと思った。
医師は、こう言うしか道はないと思った。
「○○さん、紹介状どおり薬を処方します。」
男はニヤけながら、一礼し、診断室を出て行った。
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