【愛への帰趨】第47話 優しさは別れの合図

 女は窓のカーテンの隙間から医師の姿を睨んでいた。


 そして、視界から医師の姿が無くなると、女は急いで着替え始めた。


 女は下着を選びながら迷った。


 そう、男のLINEコメントの真意を考えた。


【お前は俺だけの女だ。お前は俺だけに抱かれる。お前は俺だけに感じる。この先も】


 予想だにしない、愛情の篭ったメッセージ


 逆に女は困惑していた。


「どうしたの…、優しくなってる…」


 女は、全然、嬉しくなかった。


 却って、男に優しくなって欲しくはなかった。


 女は、自然と35年前の別れの日を思い出した。


 女の頑な別れの強要に、男は最後、「分かったよ。でも、嫌いで別れるんじゃないよね。」と優しい言葉を掛けて、去って行った。


 女にとって男の優しさは『別れ』を意味していたのである。


 女は男の和らいだメッセージのトーンに合わせ、シルクの純白の下着を手に取った。


 だが、女はその下着を元に戻し、下着入れの奥に隠し込んでいる淫靡な下着を手にした。


 今の女にとって、男の真意が分かりかねぬ状況からして、その前に送信されたメッセージ


 「気を失うほど」


 というセクシャル的な淫語に心も身体も圧倒されていた。


 女は自分に返事をするよう大きく頷き、胸には何も着けず、下は紐のような淫靡な下着を纏った。


 そして、男の好きなジーンズを穿き、やはり、同じ白いセーターを着込み、黒のダウンジャケットを羽織った。


 女は部屋の鍵を閉め、玄関に早足で急いだ。


「あっ」と


 女は何かを思い出したようにバスルームに戻ると、ジーンズを膝まで脱ぎ、紐のような下着の中心に香水を一振り振り注いだ。


 そして、女は鏡に映る自身の顔を見つめ、こう呟いた。


「優しくしないで、お願い。こんなに期待してるのよ。


 そう!


 そうさせたのは貴方なのよ…」と


 女はマンションを出た。


 時刻は午前8時を回ったところであった。


 まだ、帰宅して3時間も経っていないのに、早くも男を求め、あの501号室に向かう女


 死神との問答による男の決断


 それに翻弄される女


 小春日和の青空が広がる天空の中、一点の灰色雲が微動だもせずに止まっていた。


 女はその雲が地図案内のピンであるかのように、それに向かって歩いて行った。


 男は、何か月振りかにシャワーを浴びた。


 そして、男は、原型をとどめていない洗面所の鏡を見ながら、剃刀で髭を剃った。


 煙草のヤニ臭い無精髭が、ボタボタとシンクに落ちていった。


 男はついでに鼻毛と眉毛も切り、顔をゴシゴシと石鹸で洗い、ドライヤーで髪を乾かした。


 次に、男は何かを思い出すよう鏡に写る自分を見つめ、暫くすると、歯磨き粉を握り、歯ブラシに付け、ゴシゴシと歯を磨き始めた。


 その時、


「トン、トン、トン」と玄関からノックの音が聞こえ、「キィ~」とドアが開き、そして「パタン」と閉まる音が聞こえた。


 男は歯ブラシを咥えたまま、玄関に行くと、女が靴を揃えるため後ろ向きに屈んでいた。


 そして、立ち上がり、振り向き、男の顔を女が見た。


 女の目は驚きの表情をし、直ぐにその表情は泣き顔に崩れるよう変化した。


 そして、女は立ち尽くしたまま、シクシクと泣き出した。


 男は女をそのままにし、洗面所に戻ると、口を濯ぎ、そして、タオルで顔を拭き、泣いてる女の前に戻って来た。


 女はまだ下を向いてシクシクと泣いていた。


 男は女から黒のダウンジャケットをゆっくりと脱がし、ハンガーにかけ、北窓のカーテンレールに吊しかけた。


 男が女の方を振り向いた時、女はベットに腰掛けていた。


 男は女の隣に腰掛けた。


 そして、女にこう問いかけた。


「何故、泣いたんだ?」と


 女は下を向いて、首を振るばかりで、何も言わなかった。


 男は仕方なく、煙草に手をやり、そして、火をつけ、静かに紫煙を蒸した。


 光の入らない暗い501号室


 男の咥えた煙草の火が、夜の海の灯台の灯のように熾っていた。


 煙草の火が薄くなり、フィルターの根元まで灰が進出した時、女がやっと口を開いた。


「私と別れるつもり…」と


 男はベットサイドの灰皿に吸い殻を捨て、また、新たに煙草に火を付け、そして、一吹き、紫煙を吐くと、こう答えた。


「別れない。」と


 女は予想が外れた喜びから、容易く顔を上げ、男を見つめた。


 そして、女は笑いはしないが、それに近い表情を浮かべ、男の膝にそっと掌を置いた。


 その時、女の心に電気が走った。


「この人、覚悟してる。


 何か…、覚悟してる。」


 女の心は感じ取った。


 男も感じた。


 これから述べることを、女が察したことを。


 男は女の膝に置いた掌の上に自身の掌をゆっくりと重ね合わせた。


 そして、女にこう言った。


「お前の旦那を殺す。」と


 女は驚きもせず、理由も聞くことなく、頷いた。


 女は次に男が発する言葉を待った。


 男は女の配慮に応えるかのように、こう話した。


「お前がこんなに早く来るとは思っていなかった。


 だが、それは良かったと思う。


 お前にはLINEで告げるつもりでいた。


 今から病院に行き、お前の夫を殺し、そして、ここに戻り、お前を待つつもりでいた。」と


 男がそう話し、もう語る様子がないことを了知した女は、ゆっくりと口を開いた。


「夫を殺してください。


 私の人生を無茶苦茶にした男です。


 あの男は私を妻とも女とも人間とも感じていないのです。


 貴方が言ったとおり、あの男は、私を寄生虫だと思っています。


 そう思われても構いません。


 もともと愛のない結婚生活でしたから…


 でも、許せないのです。


 あの男さえ、この世に存在しなければ、


 必ず貴方と、もっと早くに再会出来たと…


 今更言っても遅いと、貴方は怒るでしょうが…


 だから、夫を殺してください!」


 そう言うと、女は、次に言いたい事が言えず、下を向き、男の膝に置いた掌を「ぎゅっ」と握った。


 男が女の気持ちを代弁した。


「神の御加護だ。


 お前が早く逢いに来てくれた。


 この時間は、俺の人生の中で最も貴重な時間だ。


 神に嫌われ続けた人間にとって奇跡だ。」


 こう言うと、男は女の唇を奪い、ベットにそっと押し倒した。


 女は泣いていた。


 俺が優しく聞いた。


「何で泣いている?」と


 女が泣きながら言った。


「だって、貴方、優しい時は、別れの時でしょ…


 優しくしないで…


 お願い、痛ぶって!


 お願い、貶して!


 お願い、罵って!


 だから…、それでいいから、


 私から消えないで…」と


 男は言った。


「消えやしない。


 必ず、ここに戻って来る。」と


 そして、男は動かない脚を片手で掴み、ベットに押し上げ、女の上に被さった。


 男は女の瞳を見つめ、女に目を閉じるよう、目で合図した。


 女は目をそっと閉じた。


 男は女の閉じた瞼にキスをし、女の服を脱がそうとした。


 男は右脚が動かないことから、バランスを崩し、女の胸に顔を埋めた。


 それでも、男は片肘を突き、体制を立て直し、女のジーンズを懸命に脱がそうとした。


 女は男の苦心を察したが、キスされた瞼を硬く閉じ、全てを男に任せることにした。


 また、男がバランスを崩し、女の脇に潰れるように倒れた。


 その時


 男には見えた!


 青白い光が男の右脚に降り注ぐのを!


 男は天井の四隅を見た。


 死神


 死神が炎を吐いていた。


 次に、瞬間的に男の右脚がピクリと動いた。


 男は驚いた。


 死んでいた男の右脚の筋肉が再生されるかのよう、男の右脚の内が「ドクン、ドクン」と脈を鳴らした。


 そして、男の右脚は男の意思に従い、大きく動いた!



 男が天井四隅を見遣った時、既に死神の姿は無かった。


 男は横たわる女の首に腕を回し、ゆっくりと女を起こした。


 そして、女にこう言った。


「目を開けてごらん。」と


 女が目を開けると、


 男はゆっくりとベットの上に立ち上がった。


「脚が、貴方、治ってる!」と


 女が思わず叫んだ。


 男は両手を広げ、優しくこう言った。


「俺の胸に飛び込んでおいで。」と


 




 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る