【覚醒】第12話 遺恨の愛は今なお溢れ続ける
「5番の方、お待たせしました。どうぞ。診断室へ。」
綺麗な看護師の女性が、品位のある笑顔を浮かべ、患者を診断室に誘導している。
この病院の待合室は、木目調の長いベンチ椅子が「コ」の字型に設置され、真ん中に丸テーブルが置かれていた。
その四隅には観葉植物が飾られ、窓際の出窓には綺麗な黄色い薔薇が花瓶に刺してあった。
部屋の中には、落ち着いたクラッシックのBGMが窓から注ぐ陽光に溶け込むように軽やかに響き渡っていた。
看護師の女は、黒のタイトスカートに白のブラウス、青のベスト、赤の蝶ネクタイといった清楚なフォルムの服装をしていたが、
細く長い脚、高いウエストの位置、そして、張りのある腰付きが、服装の清楚感を超え、妖艶な雰囲気を醸し出していた。
女の顔は、髪型は長い髪をポニーテールでまとめ、顔は小さく、大きなブラウン色の瞳、彫りの深い鼻筋、小さな鼻腔、そして、大きくも小さくもない口といった東欧女性のような顔立ちであった。
患者を誘導する動きにも落ち着きがあり、声にもいやらしくない色気があった。
その女以外にも受付窓口に2人の若い女性がいたが、その女の美貌は格別であった。
女は患者と一緒に診断室に入り、患者を医師の前に案内すると、医師の背後の椅子に座り、医師と患者の診断を見守りながら、その様子をメモに取っていた。
医師は、診断中、度々、後ろを振り返り、女を当てにするよう、次回診断日のスケジュールの空き具合、食事療法の必要性、薬の在庫数の確認をしたり、さらには患者との世間話の相槌役を女に頼んでいた。
そう、此処は、あの男の同級生夫婦の病院である。
そして、この妖艶な看護師の女性が、あの男の元彼女であった。
女の年は男と同じ55歳であったが、その年には到底見えなく、30代と言っても十分通じるぐらい若々しかった。
医師の方は、どちらかと言うと不細工な顔立ちで、既に頭髪もなく禿げ上がり、体型も中年太りであった。
その日の夕刻、女は翌日の予約状況をPCで確認していた。
女のマウスが「カッチ」と鳴った後、暫し、止まった。
「○○、男、昭和41年8月5日
生、抑うつ、不眠、初診」
女は息を飲み、その唇は少し震えていた。
「あの人…、この町に居るの?」と女は囁いた。
医師が女に声を掛けた。
「どうした、明日の患者数は何人だい?」と
女は慌てて、マウスを動かし、予約状況表の総計数の数字を確認し、「10人です。」と答えた。
そして、女は予約状況表をコピーし、再度、男の名前を確認した。
「間違いない。あの人に…」と女は心で思い、そのコピーを何食わぬ顔で医師に渡した。
医師は手渡されたコピーの予約状況について、上から順に患者名を音読して行ったが、あの男の名前の前で声が止まった。
暫し沈黙があった後、医師は、あの男の名前は読まず、その後の患者から音読を再開した。
診断室の中は、一瞬にして、張り詰めた空気が立ち込めた。
女は定刻になると、「先に帰るわ」と一言だけ医師に告げ、診断室を後にした。
医師は何も言わず、予約状況表とカルテの付け合わせを行っていた。
医師と女は、今年で結婚30年を迎えるが、既に夫婦仲は冷え切っていた。
医師は几帳面な性格で、結婚当初から、女に対する監視が異常な程強く、夜8時以降の帰宅、異性との会食には事前報告を求め、それを怠ると強く女を叱責した。
また、経済面は医師が全てを握り、家計費は1週間分のみ女に手渡しで現金支給し、女が自由に使う金は申告制とし、領収・レシートにより清算までチェックするといった徹底ぶりであった。
女の服も基本的には医師が買い与えた。
医師行きつけのデパートで流行の服をその年の季節毎に買い与えていた。
女に自由は全く無かった。
仕事場もプライベートも医師と同じ空気の中に居た。
子育ての間は、家庭に居ることができ、一定の自由があったが、子供が育つと、また、医師と病院での密着した生活が続けられた。
女はこの30年間の内、何度も離婚したいと医師に懇願したが、医師は経済面を盾に首を振らず、逆に女に対して、
「別れて、お前はどうやって生活して行くつもりなのか?できるはずがない!お前は浮浪者になりたいのか!」と
今で言うモラハラ紛いの叱責をし、女の離婚意思を封じ込めていた。
女も歳を取るにつれ医師からの独立を諦め、この妥協した生活に甘んじていた。
そんな時、あの男の名前が目の中に飛び込んで来た。
女はその名前を懐かしく感じ取った。
そして、男と付き合っている頃の自身の恋焦がれる乙女心が、自然と瞬時に女の脳裏に追憶された。
帰宅した女は自室に行き、服を脱ぎ、自分の裸体を立て鏡に写した。
正面、側面、背面と入念にヒップの上がり具合をチェックし、そして、両掌で乳房を下から持ち上げ、夫である医師には決して見せない、妖艶な表情・仕草を鏡の中に演出した。
医師と女は市内の高級マンションに住んでおり、部屋は別々で生活していた。
冷え切った夫婦関係により、食事は別々に摂り、居間で2人が顔を合わせる事もなかった。
女は医師の歩く足跡に敏感に反応し、医師が自室から出た時は必ず部屋に閉じ籠った。
出勤時間も時間差を設け、女は医師より2時間も早く起床し、手早く身支度をし、医師が起きる頃にはマンションを出て、病院に向かうと行った徹底振りであった。
しかし、如何せん、経済面は相変わらず医師が握っており、現金を貰う用がある時は、医師と顔を合わせ、会話をする必要があった。
あの男が予約しているこの日の朝、運悪く、女は医師に1週間分の家計費を貰う日であった。
女は、いつも以上、その日は早く起床し、珍しく朝風呂に入った。
女は湯船に浸かり、医師の不細工な表情、嫌味ったらしい口調、そして威張り腐った金を渡す時の態度を苦々しい思い浮かべ、首を何度も横に振り、湯船の中に顔を浸けた。
水面から顔出し、女は溜息を吐き、そして瞑想した。
女は学生時代の男の顔を想い浮かべていた。
女はあの頃の男の力強く太い腕の筋肉、分厚い胸の筋肉を想い浮かべていた。
女は寸時、うっとりとした表情を浮かべていたが、何かを断ち切るよう、いきなり湯船から出ると、鏡の前に座り、入念に身体を磨き出した。
時折、女は鏡に映る乳房の張り、尻の肌艶を確認し、そこに乳液を垂らし、優しくマッサージを施した。
乳液を乳首に垂らした瞬間であった。
女は、また、あの時に遡及し、鏡の中で陶酔した。
女の身体は、今日、かなり敏感になっていたのだ。
女は、鏡の中に、あの時、毎晩のように男に激しく抱かれ続けた映像を思い浮かべた。
男の行為は強く激しく、そして永遠に果てしないと思われるほど、充実したものであった。
女はいつも完膚なきまでに逝かされ、ぐったりと気を失うほど抱かれ続けていた。
時に女は、永遠の快楽の中に堕ちてしまい、自分ではない淫靡な自分が、大きな快感の波を被り、愛液を満ち満ちと溢れさせ、この快楽地獄の中で発狂するのではないかと思うぐらい、何度も何度も逝き果てることもあった。
女はそんな過去を思い出していた。
女は、自然と乳液で濡れた指を両太腿の奥に滑り込ませた。
その瞬間、女の身体は内から大きな快感の波が打ち寄せ、女は思わず「ぎゅっ」と太腿の内に力を入れ、前屈みに蹲り、ぶるぶると身悶えすると、「あっ」と小さな喘ぎ声を上げ、逝ってしまった。
女は、まだ自分自身が快感を奏でる牝であることを確かめたかったのであった。
暫し、女は、陶酔した表情を浮かべ、潤んだ唇をわなわなと小刻みに震わせていたが、快感の波が通り過ぎたことを知ると、気を取り戻し、気だるそうに、再度、太腿の内を手で丁寧に洗い直した。
女はいつも以上の長い入浴を済ませ、そして、いつも以上に入念に化粧をした。
女は明らかに、男に会う準備をしたのであった。
男が精神を病んだ患者であっても、女の潜在的な心と敏感な身体は、あの時と同じように男を受け入れる準備を整えたかったのである。
女は身も心も医師の妻から脱皮し、リビングのテーブルに着き、医師の起床を待った。
その時、女は悲しくなった。
金銭を握られ、家政婦のように駄賃を貰うためスタンバイしている自分を…
そして、女はふと思い出した。
「そう、結婚した時、私は娼婦と同じだったわ」と
医師も今朝という日を特段意識し、女の待つリビングに向かうのを躊躇っていた。
それは、医師は、昔、女があの男と付き合っていたことを知っていた。
さらに、医師は、結婚しても、まだ、女があの男のことを想っているのではないかと、いつも感じていた。
女は、医師との結婚生活の中で、無意識に男の事を思い出す素振りを、度々、見せることがあった。
医師の得意なスポーツの番組には全く興味を持たない女が、男がしていたスポーツの番組には食い入るように見、そして、医師には決して見せない歓喜の表情を浮かべる。
また、女の愛読書は、医師の愛読書とは、かけ離れた内容のもので、それもどちらかと言えば男性が好むような本であった。
さらに、今では女を抱く事は一切無くなったが、新婚当初はともあれ、子供が出来てから、女は夫婦の営みには積極的ではなくなり、時折、医師が無理矢理求めた時は、女は明らかに偽りの芝居で感じた振りをし、事を淡々と済ませていた。
そんな女の素振りから、医師は一時期、女が浮気をしているのではないかと疑い、探偵事務所に依頼し、女の行動を1週間、追跡調査させたこともあったが、女に不貞な行為が浮かび上がる事はなった。
こんな冷え切った夫婦生活ではあったが、医師は今でも女のことを愛しており、いや、愛しているのではなく、女の類い稀な美貌を宝石のように感じ取り、貴重品として大事に管理・保管しようとしていた。
医師は「うむ!」と一言発し、女の待つリビングに向かった。
この日、医師は、自身の経済的優位な地位をいつも以上に誇示しようと決めていた。
医師はリビングの女の顔を見るなり、こう言った。
「今日、○○が受診しに来る。その時、お前は受付に入ろ!奴に接することは許さん!」と
女は何も言わず、下を向いていた。
医師は1週間分の現金を裸銭で床にばら撒いた。
女は「きっ!」と医師を睨んだ。
医師は女に言った。
「文句があるなら、拾わなくてもいいぞ!」と
女は表情から感情を消し去り、淡々と紙幣を拾った。
医師はその姿を見てこう言った。
「俺に抱かれている時みたいだね」と
女は一瞬、拾う手を止めたが、グッと唇を噛み締め、現金を拾い終わると、急いでリビングを出ようとした。
医師が怒鳴った。
「おい!『ありがとうございます』を忘れてるぞ!」と
女は立ち止まり、拳を握り、そして、振り向き、医師の顔を見ることなく、「ありがとうございます」と事務的な口調で述べ、急いで玄関に向かった。
医師はニヤけ、こう言い放った。
「どうせ、お前は俺から逃げられないのさ!」と
女は靴を履き、素早く外に出ると、一つ溜息をつき、そして、呟いた。
「私を助けて…」と
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