【愛への帰趨】最終話 暗闇の平原に曙光が射す
「もう一度、電気ショックをする!」
「ドン!、ドン!」と女の身体が飛び跳ねた。
医師と数人の看護士が、懸命に心肺停止した女の蘇生作業を行なっていた。
集中治療室の前には、刑事がその状況をガラス越しに見ていた。
刑事の元に部下らしき男が近づき、こう報告した。
「容疑者の遺体は死体検査室に安置しました。
原型は止めていませんが…」と
刑事は頷き、また、集中治療室を見遣り、こう思っていた。
「何とか女の意識を取り戻してくれ。
男が病院を訪れてから1か月しか経ってないんだぞ。
こんな急転換…
何があったんだ?
貴方達夫婦に?
そして、貴女はあの男とどうしたかったんだ?
余りにも破滅的過ぎる…」と
心電図のモニターは医師の懸命な蘇生にもよらず、グラフは平行線を表示していた。
刑事が部屋に踏み込んだ時、既に男の姿はなかった。
「くそぉ、飛び降りたぞ!」と刑事は叫び、
そして、恰も、部屋の中の怨念が、外に押し出された証のように窓の外で靡いているカーテンに向かって走った。
刑事は窓の下を見た。
潰れた人形のような塊から赤い染が見る見るうちに広がって行くのが見えた。
「くそっ!」と
一言呟いた刑事は、部屋の中を振り返り、ベットに横たわっている女を見遣り、急いで近寄り、女の脈を取った。
「脈がない…」
「救急車を呼べ!」と
刑事が叫んだ。
女が横たわる周りには、唾液で濡れ、溶けかかった睡眠薬が何個も転がっており、ベットスタンドには、出刃と2本の柳刃包丁が並んで置かれていた。
「心中を謀ったんですね?」と
捜査員が刑事に言った。
「おそらく、そうだ。
妻は病院に向かうと言い、時間を稼ぎ、この部屋で容疑者と自殺を謀った。
睡眠薬を飲んでな。
しかし、絶命の間際、俺たちが駆けつけた。
男は女を残し、窓から飛び降りた。
そして、この哀れな女がここに放置されている。
何とも解せぬ事件だ。
真相を知りたい。」と
刑事は自分に悟らせるよう、この2時間余りで突如生じた殺人事件の顛末を物語った。
その頃、男の母親に警察官がこう告げた。
「息子さんは自殺しました。」と
「何処で?」
「被害者宅で窓から飛び降り自殺をしたそうです。
即死のようです。」
「そうですか…」
母親はそれ以上何も言わず、口を閉じた。
母親は安堵した。
「あの人と一緒だったんだね。
よかったね。
ごめんなさいね。
私が邪魔したから…
今度こそ、あの人と幸せになれるよ…
ほ、本当に、ごめんなさい…」
こう母親は心で男に告げた。
女の治療に当たる医師が、一旦、蘇生作業を中断し、状況を刑事にこう説明した。
「かなり難しいです。
心肺停止した時間が長過ぎます。
脳細胞も大部分は死滅しているでしょ。
仮に蘇生したとしても、言語障害は間違いなく生じていると思われます。」と
刑事は医者に言った。
「頼みます。
重要参考人なのです。
今回の事件の真相を彼女が握っているのです。
何とか蘇生させてください。」と
医師は刑事に言った。
「分かりました。
しかし、現時点の治療はこれで終了します。
もう10回以上、電気ショックを掛けていますので、これ以上は却って危険です。
後は個人の生命力に委ねましょう。
明日朝の状態が鍵を握ります。」と
刑事は納得せざるを得ない説明を聞き終えると、渋々、病院を後にした。
女は集中治療室に1人、横たわっている。
その部屋の前には、警察から連絡を受けた2人の子供が母親の回復を待ち望み、椅子に座っていた。
夜中、看護士が集中治療室に入って来た。
「あっ」と
看護士は声を上げた。
女の心電図のグラフが徐々にではあるが、稼働し、上昇を示していた。
看護士は足早に部屋を出て、医師を呼びに行った。
すると看護士に連れられ、眠気まなこの医師が走って来た。
医師は聴診器を女の胸に当て、脈を取った。
「蘇生成功だ!
明日朝には意識が戻る!」
こう言うと、集中治療室の前で待機している子供2人に説明を行った。
「お母さん、大丈夫です!
もう安心ですよ。」と
子供2人は、大きな溜息を吐き、安堵した。
そして、看護士がこう言った。
「どうぞ安心して、仮眠室で寝てください。」と
子供の1人がこう言った。
「まだ、中には入れないのですか?」と
医師は言った。
「今は無理です。」と
子供はそれ以上頼まなかった。
子供も分かっていた。
母親が父親を殺した容疑者と関係があり、事件の重要参考人であることを。
警察の許可が降りるまで、親族であっても近寄れないことを。
子供達は、仮眠室に入って行った。
集中治療室の前の廊下から人が去ったことから、自動動作センサーも一休みするかのように、暫し、暗闇を放置した。
午前3時
女はゆっくりと瞼を開いた。
集中治療室の中の幾種もの機器の赤や青や緑のランプが海蛍のように暗闇を飛び交うよう、朧げに見えた。
女は今から行うべき事を承知しているかのように、身体中に貼られた、パットを外し、ゆっくりと起き上がり、素足で部屋を出た。
女はその行き先が既に伝えらているかのように、そして、行手を阻むものは何もない事を知っているかのように、ゆっくりと廊下を歩いて行った。
女は、暗闇の廊下の中、一際、存在感を示している緑色のランプの下のドアを開け、そして、上へ上へと続く、階段を登って行った。
階段を上り詰めると、また、一際、存在感を同じく示す緑色のランプの下の扉を開いた。
外にコンクリートの平原が広がっていた。
その平原の行先に青白く光る雲を纏った死神が鎮座していた。
女はゆっくりと死神に向かって歩いて行った。
女は死神の目の前まで近づいた。
「迎に来た。そろそろだ。」と
死神が声を発した。
女は静かに頷くと、死神に問うた。
「あの人は、先に…」と
死神は頷いた。
「あの人は何か言ってませんでしか?」と
女が更に死神に問うた。
死神は男の死に際をゆっくりと物語った。
「奴は執拗にお前を一緒に連れて行こうとした。
しかし、それができなかった。
奴はお前を傷つけることから逃げたのだ。」と
女の瞳から一筋の涙が流れた。
死神は続けた。
「奴はこう言った。
来世はお前と幸せになりたいと。
そして、奴は全うした。
人生を全うし、運命の扉を潜った。」
女の涙は綺麗なブラウン色の瞳を漆黒の瞳に変えるよう溢れ流れた。
「私もあの人と一緒に居たいです。」と
女が気丈に言葉を挟んだ。
死神は尚も語った。
「奴は最期にこう言った。
『何処でも良い!地獄でも良い!
俺をあの人と一緒にさせてくれ!』と
そう神に伝えろと俺に頼み、空を飛んだ。」と
「地獄でも一緒に…」
「そうだ。そう言った。」
女は崩れ落ち、泣きじゃくった。
「わ、私が馬鹿だった。
あの人の幸せだけを願い、身を引いたのに…
そ、それは、あの人に何も齎らすことができなかったのね…
あ、あの人は…
不幸でもいいから…
地獄でもいいから…
私と一緒に居たかったのね。
わ、私…
私もそう…
どんな不幸の中でも、あの人と一緒に居たかった…
私が馬鹿だった!
私が弱かった!」と
死神がこう諭した。
「お前は奴ほど強くない。
仕方のないことなのだ。
ただ、お前は奴と一緒であることが、
お前が神から与えられた正体なのだ。
奴はそれをお前より先に知った。
そう言うことだ。」と
女は涙で濡れた瞳を腕で強く拭い、
そして、こう言った。
「私は弱くてもいい。
強いあの人と一緒に居れば。
今度は離れない。
何があっても離れない!」と
女はそう言うと、死神に向かって、微笑んだ。
すると、
コンクリートの平原に白い白い光が差し込んで来た。
女は空を見上げた。
天頂の星空に向かい、麓である平原から、産まれたばかりの光が健気に立ち向かって、登り詰めようとしていた。
死神が告げた。
「曙光が射す。時間だ。」と
女は立ち上がり、曙光により明瞭に現出した屋上の柵を見つめ、
ゆっくり、ゆっくり、歩んで行った。
完
死神に曙光が射すまで ジョン・グレイディー @4165
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