【覚醒予兆】第4話 神と死神の姑息な結託

 遂にその日がやって来た。


 1月4日午後1時02分


 俺は昼飯のサンドイッチを食べ、ベットに横になった。


 鬱、いや、死神の再来襲を予期し、この2、3日、暮れから新年正月に掛け、落ち着かない心持ちで暮らしていたが、どうも出端を挫かれたように、奴は現れない。


 この時、俺はすっかり油断してしまっていた。ましてや昼だ。奴が来るのはてっきり夜と鷹を括っていたのだ。


 それは突然、前置きもなく俺を襲って来た。


 少しばかりの息苦しさを感じた俺は寝返りを打った。


 すると、明らかに脳味噌が動いた気がした。


 そう、深々と頭を下げ、正座していた脳味噌が突如、面を上げ、姿勢を正したんだ。


 俺の視界は外と内とを映している。


 俺は慌てて、北窓を見遣った。


 いつでも飛び降りることができるように、俺は窓の位置を確認した。


 次に瞬きした瞬間、窓の光景は消え去り、暗闇の世界が視界に映し出された。


 それと同時に息苦しは強まり、側頭部の血管はドクドクと音を立て始めた。


 得も言われぬ強烈な不安感が俺の心臓の鼓動を囃し立ててる。


「苦しいっ」と一言発した。


 その瞬間、暗闇の中を脳が動き出した。


 脳味噌だよ!


 皺だらけで赤紫の血管を露に纏った、脳味噌だ。どっくん、どっくん、と唸っていやがる!


 そいつには足も手もある。


 歩いてやがる。


「くそっ、トラウマを探しに行くつもりだ!」


 俺はそれを妨害すべく瞼を強く強く閉じたが、内なる視界はより一層明瞭度を上げた。


 脳味噌は戻ってきた。暗闇の中を一つのカセットテープを握って、いそいそと戻って来やがった。


「奴だ!」


 俺は「グッと」唾を呑み込んだ。


 死神が、鬱が鎮座している。


 魔物だ!


 真っ暗闇の中、雷光を包み込んだ雲がぐるぐると回っている。

 まるで天気予報図の台風画像の早送りのように、雷光に照らされるドス黒い雨雲が竜のように泳いでいる。


 脳味噌がカセットテープを手渡そうとしている。


 すると竜のような雨雲の渦の中から、「すっ」と青白い腕が伸び、カセットテープを掴み取った。


 内なる画像が変わった。


 複数の映像機種が煌びやかに並んでいる。報道番組のデスク部屋のように、どの画面も違う映像を映し出している。


 大きな青白い手がカセットテープをデッキに押し込んだ。


 その瞬間、あの音が流れ出した。


「ブブゼラの音…」


 俺は瞬時に了知した。


「15年前、あのブブゼラか!」


 そう、俺が重度のうつ病を患った時代だ。南アフリカのワールドカップだ!ブブゼラの響きだ。地響きのように鳴り渡る、あのどんよりした陰鬱な音色…


 そして、俺は、一つの画像に釘付けとなった。


 1人の男が部屋の四隅に蹲っている。


 毛布にくるまってブルブルと震えながら蹲っている。真夏の暑い中、毛布にくるまって…


「俺だ…」


 俺は力無く呟いた。


 その画像に映し出された汚い哀れな男は俺であった。15年前、重度のうつ病に苦しんでいる最中の俺であった。


 画像は男の表情のアップに変わった。


 明らかに男は怯えている。悪霊に取り憑かれたよう、その眼差しは死んだ魚のように無意味に一点を見つめている。


 その時、画像の中の男と目が合った!


 死んだ目付きが、俺の視点を塞いだ、その時!


「途方もない絶望…」


 俺は男の心理を感情移入してしまった。


「全て俺が悪いんだ。仕事もできない。もう無理だ。これ以上無理だ。仕事を辞めたい。家族はどうなる。子供の学費は?家のローンは?そんなこと知った事じゃない!無理だ!全て俺が悪い。生まれてきて良かった事などあるか?やりたい事ができた試しがあるか?欲しいものが手に入った試しがあるか?そんなもの全くない。

愚かで、汚く、情けない人間。恥の塊だ!」


 そんな部屋の四隅でぶつぶつと呟いている男の声が聞こえ出した。


 次第に内なる視界、心の眼は諦めるように15年前の戦慄の鬱状態を思い出し始めた。

 


「地獄の月曜の朝だ。玄関を出る際の日差しが矢のよう痛く眩しい。全く脚が踏み出せない。」


「脚が腐っている。脚の筋肉がコンクリートのようだ。」


「信号待ち何回目だ。行きたくない。」


「部署の部屋の空気の色が違って見える。どんよりとした霊気を感じる。負の空気だ。」


 こんな風に俺は日曜の午後、月曜の出社を想像しながら、その一時一時に怯えていたのだ。


 そんなに怖いなら行かなければ良いのにと、周りの者は軽く言う。


 違うんだよ。行かなければ、その先の最悪な状況を更に考え出すんだ。


 どんな状況か?


 二度と動けなくなり、身体が腐り、カビが生え、悪臭を放ち、悍ましく汚い液体となって行く人間の身体!そうやって俺は死ぬんだよ!いいか!そこまで何年間掛かると思うか!何十年掛かるか、分かるか?ずっと、苦しみ続けないとならないんだよ!生きるために苦しむんじゃないんだよ!死ねために苦しむんだ!絶望だよ!真っ暗闇の絶望しか俺には見えないんだよ!


 そう心で叫んだ俺は、悟った。


「今の俺は尚更駄目じゃないか…」


 鬱が死神が遂にやって来た。


 15年前の俺から鬱を移しやがった。


 確かに思い出したよ。


 鬱の苦しみを…


次なる狙いは何だ!


 俺がどんな悪事をしたと言うのか?俺は何もしちゃいない!


 どうして俺ばかりに苦難を与える、神よ!鬱と、死神と結託しやがって!


 何とか言え!

 

 


 


 

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