【覚醒予兆】第6話 絶望の荒野
鬱が忍び寄る気配に勘づいた後、想像に容易く、俺は極度の不眠に陥ってしまった。
人間48時間不眠になると脳障害を発生するリスクが高まると言われるが、俺は既に、今日現在で72時間不眠状態を継続している。
幸い、意識はしっかりしている。
しかし、時間の経過に関する感覚は希薄となり、現実と夢の区別が付かなくなって来た。これが脳障害の現れなのか…
いや、そうではない。
時間の観念ではなく、「現在」という観念に興味を失ったと言う方が正確な表現かも知れない。
そうである。最早、「現在」は、俺にとっては、単なる役立たずに過ぎず、その重要性は無いに等しい。
何故ならば、鬱の前兆であるパニック障害、不眠状態が表出した現在は、易々と降伏してしまった捕虜のようなものであり、そこには、鬱に対抗する術が皆無であるからである。
そのため、俺は至極当然、過去へ望みを託した。
その第一段階として、15年前のうつ病の病状を思い出そうとした。
これも自己防衛手段である。
俺は、鬱の苦しみを明瞭に把握し、症状が浸透した際のショック状態を少しでも柔らげようとしたのだ。
浅はかな手段ではあるかもしれないが、朧げな記憶ほど、敵を過大に評価してしまう。怖い怖いだけでは全くもって抗うことができない、そう思ったからだ。
通常、うつ病患者が絶対に行ってはいけない事、それは、過去への執着、記憶の掘り返しである。
そう、トラウマは回避すべきであるからだ。
俺はそんな流暢な事に構わず、記憶の墓場を掘り返しに行った。
『何もかもが不安に感じていた。いや、何もかもではない。先が見えない不安だ。そうだった…、将来への不安だ。
過去と現在を見る気は毛頭なかったんだ。絶えず、先を見ようとしていたんだ。
これから襲いかかって来る敵を見ようとしていたんだ。
だが、一寸先が闇であった。明日は既にベールに覆われていた。
そうであった…
明日起こるべき事柄を予期しようと想像を膨らませるが、その外枠が見え始めると不安になり、首を振り、その想像物を削除してしまう。
削除した後、そこに立ち止まってしまう。
すると、益々、怖くなり、苦しくなって行く。
まるで、水中に溺れた者と同じように、踠き苦しみ、捥がくことを諦めると、窒息という強大な苦痛が襲って来る、そして、また捥がく。力尽きるまで捥がく…。それと同じ作用であった。
また、何も見えない明日を無理に見ようとすると精神が必要以上に過敏となる。
例えるならば、闇夜の中を目を瞑って歩くと触覚が研ぎ澄まされる。躓いた小石の存在さえ、途轍もない怪物に思えてしまう。梟の鳴き声さえ獰猛な猛獣の唸り声に聞こえてしまう。そんな感じだ。
しかし、怖くても先を見るしか行き先は存在しない。
立ち止まり続けると、直ぐに、禍根を残した過去と現在から背中を突かれることを俺は既に知っていた。
だから、仕方なく、また、震えながら先を見ようとする。
誰も助けてくれない闇の中を…、孤立無縁に歩き続ける。
遂には、俺の行動範囲は、今から一寸先までよりも短縮され、今とさっきまでの今、現在と過去を行き来し始める。
過去の残骸にならぬよう、役立たずの現在に縋り付こうと必死となる。
その時、最早、生存するための肥やし、糧は必要ではなくなり、食欲も睡眠欲も消え失せてしまう。
人間たる五感も聴覚だけが研ぎ澄まされる。
暗闇を行き来するのに視覚は不要であり、得体の知れない怪物に怯える弱者には、それに抗う触覚も言葉も要らない。
土の中のモグラと同じだ。
低脳動物の如く、聴覚だけが頼りとなる。
そう、音と言う音、全てを聴神経がキャッチし出す。
秒針の音が大音量で聞こえ出す。
聴診器も付けてないのに、血流の音がドクドクと木霊する。
しかし、いきなり使用頻度が高まった聴覚の消耗は激しく、聴力は見る見ると低下し、やがて、暗闇に耳鳴りだけが響き渡るようになる…』
これが鬱の世界だった。
現在・過去・未来
全てが暗闇に包まれ、そこには「絶望」の荒野が広がっている。
その世界は、正に不用物の掃溜めだ!
汚物の世界だ!
俺はそんな世界で生きるために生まれて来たんじゃない!
俺をここから出せ!
そうだ…、俺は何度も何度も心でそう叫んだんだ!
そう、尽きるには、パニックを引き起こすんだ!
残骸・汚物の塊から抜け出すよう、最終兵器である狂乱のエネルギーを使用するんだ!
そう、突発的にだ!
死に向かって…
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