【覚醒】第26話 存在の証
女は恐ろしかった。そして、ショックだった。あんな、恐ろしい表情をした男の顔を一度足りとも見たことはなかった。自分の知らない男の顔が存在したことがショックだった。
女は帰宅してから、部屋に閉じ籠もり、布団に包まったが、膝の震えは依然止まることがなかった。
男に一目惚れし、付き合った5年間
女は男の全てをこの5年間で知り得たものだと自負していた。
一つの悪戯な運命が男との絆を引き裂き、別々の人生を歩みざるを得なかったとしても、男のことを一番分かっているのは自分だと思い信じていた。
そうして女は生きて来たのだ。
一時も男の事を忘れる事はなく、偽りの家庭の中に身を投じ、生きて来た。
しかし、それは自分自身の持つ何にも通用しない手形であり、たわいの知れない自惚れに過ぎず、本当の事は何一つ分かっていなかったのだ。
その事に気付かされた。
あの鬼神の表情
あの睨み殺す怨念に満ちた眼光
女は、男が喧嘩早く、乱暴者である事は知っており、そればかりか、そんな無頼漢な男に魅力を感じていた。
しかし、実際、女に接する男は、いつも優しかった。
怒った顔など見た事はなかった。
いつもいつも、女の前では、男は優しかった。
女は思った。
「私が知ってるあの人が本当のあの人なの?それとも、今日のあの人が本当のあの人なの?」と
女が知ってる5年間の男は、男の55歳の人生の中で唯一穏やかな期間であり、短い春であった。
残りの人生は過酷だった。
男は産まれて来た時から既に不幸を背負っていた。
双子の片割れとして産まれた。
当然、未熟児であったが、もう一つの片割れの子に栄養素を多く奪われていた。
母体の中の胎児であった時も不運であったのか、頭蓋骨が変形して産出された。
もう一つの片割れは、普通の頭の形をしていた。
双子にしては体重差が激しく、まるでお菓子のオマケのように産まれて来た。
父親は変形した頭蓋骨をした息子を初めて見た時から、彼に期待する事はなく、負の産物として捉えた。
幼少期、もう一つの双子の片割れは、「可愛い、可愛い」と可愛がられたが、彼はそう言われたことが一度足りともなかった。
小学校に入学する頃には頭蓋骨の変形も分からなくなったが、今度は内部である脳波に異常を来たし始めた。
異常行動
粗暴
てんかん
そう言った類の発作が度々見られ、学校側からは、普通学級では無理と言われていた。
母親だけは、この醜い双子の片割れが不憫でならず、学校側に懇願し、何とか普通学級に入れて貰っていた。
母親はいつもいつも、謝っていた。
学校側に、同級生に、その父母に謝っていた。
彼は直ぐに手を上げた。
容赦なく同級生を殴った。
怪我をさせた。
小学生高学年になると、急に成長が良くなり、クラスでも大きい部類になった。
乱暴さは激しくなった。
いつもいつも、誰かを殴っていた。
何をそんなに怒るのかと不思議がられた。
彼は分からなかった。
周りは脳波の異常と片付けた。
中学生になった。
彼は野球にのめり込んだ。
すると、あの粗暴さが影を潜めた。
この頃である。
女が彼を見かけたのは…
そして、高校に入り、2人は恋人となり、20歳まで付き合った。
別れた。
その後だ。
女は知らない。
彼は大学には入ったが、学業など全くしなかった。
酒とギャンブルの日々
車も暴走し、大きな事故を起こした。
女は知らない。
男は就職した。
それなりの企業に就職した。
バブルの最盛期だ、荒くれ者が逆に重宝がられた。
女に裏切られた男は、人を信じることをやめていた。
競争した。
同僚、上司、商売仇、全てと争った。
仕事が全てであった。
家庭は見せかけだった。
仮面を被って家庭を築いた。
案の定、子供は上手く育たず、1人は自殺し、1人は病んだ。
それでも、男は家庭より仕事を重視した。
男にとって、結婚、出産、子育てなどは、手抜きの表紙であった。
見せかけだった。
女に裏切られた時から、男は夢を捨てた。
愛とか幸せとか絆とか
そういう類の言葉を忌み嫌った。
男は仕事に没頭したが、次第に組織社会の狡さが見えて来た。
忖度、ゴマスリ、おべっか、従順、そんな調子の良い、気の利いた奴ではないと上にはなれない事を知った。
男は抗った。
会社組織に真っ向対抗した。
そして、干され、首を切られた。
最も簡単に
妻は退職金と共に消えた。
そして、男はコ○ナウィルスに感染し、半年寝た切りとなり、片脚を失った。
これが女の知らない、男の人生の概要である。
女が見たのは惑星の破片、隕石、流れ星に過ぎなかった。
男が見た女はどうか?
自分に理由も言わず去っていた女
あの別れの時、頑なに下を向いていた女
男からいち早く逃げようとばかり思っていた女
男は、今日、同じ女を見た。
今日の病院の受付に座っていた女は、別れの日の喫茶店で下を向いていた女と同じだった。
「俺から逃げようとしている。」
男はそう感じていた。
女が医師にちくらなかったとしても、何も意思伝達を行わず、視線を逸らす女は、昔と何ら変わっちゃいないと感じた。
「小さい頃、皆んな、俺のことを嫌っていた。
闘わないと、こっちを見てくれなかった。」
そうである。
拳を振り上げないと、誰も男を見ようとしなかった。
乱暴者、粗暴さ、破天荒、それが、男のアイデンティティだった。
存在の証だったのだ。
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